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意識が無くなったとき

nisekantの回答

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.2

私達は意識していないことを意識できない。意識があって初めて意識できる。「内なる神々は言語の進化過程で生まれた副産物であると同時に、ホモ?サピエンス自身が誕生して以来の生命進化における、最も注目に値する特徴でもある。私は単に詩的な意味でそう言っているわけではない」とジェインズは述べている。「内なる神々は、断じて妄想から生まれた虚構などではない。人間の意志作用だったのだ」 ところが、長い目で見るとそれはうまく機能しなかった。結局、神々は人間を見捨てた。「神は私を見放した」現存するメソポタミア最古の文献の一つにそうある。「女神も私を見捨て、よそよそしい。寄り添って歩いてくれた守護天使も去ってしまった」 紀元前2000~1000年は困難な時代だった。自然災害や戦争、人口の大移動によって、中東の諸文明圏で大変動と大混乱が起きた。民族間の交流が進み、書き言葉が話し言葉の力を弱め、内なる神々の声の中に示された、昔ながらの知恵はもう時代遅れになった。世界は一変していったのだ。〈二分心〉が崩壊し、文化が激変し、それが意識の起源となった、というのがジェインズの仮説だ。 人間の心の仕組みがどう発展してきたかを明らかにする資料として、ギリシアの叙事詩を読み解くという考えは、それ自体新しいものではない。精神分析学では昔からこの手法がとられてきた。例えばフロイト派では、オイディプス王(父を殺害し、母を妻とした男)やナルキッソス(水面に映った自分に恋をした青年)の神話が取り上げられている。 1949年、C?G?ユングを祖とする学派の精神分析学者エーリッヒ?ノイマンは意識の起源を理解するうえで、『オデュッセイア』は重要な証拠資料である、と述べた。『オデュッセイア』はイタケー島のオデュッセウス王の物語だ。オデュッセウスはトロイア戦争で名を揚げた。中でも一番の功績は、籠城中のトロイアに空洞の木馬の計略を用いて兵と共に潜入したことだ。故郷への帰路、オデュッセウスは海神ポセイドンの機嫌をそこねて数々の苦難に見舞われる。危険の多くは、オデュッセウスに伸びる誘惑の摩手という形をとる。しかし、オデュッセウスはセイレーンの美しい歌声や邪悪な巨人達、求婚者をみな豚に変えてしまう妖婦などの誘惑に、意志の力と狡猾さで打ち勝つ。 アメリカの歴史家モリス?バーマンは、ノイマンの解釈を要約した文章で次のように述べている。「オデュッセウスは、無意識で未分化の女性的な力の激しい引きを幾度となく経験する。それは、かつてほんの赤ん坊だった頃や母の胎内にいた頃と同じように、再びその力に溶け込んで一体になりたいという回帰の欲望、無意識状態に戻りたいという欲求だ。しかし、彼の英雄たる所以は、そうした誘惑を退けた点にある。オデュッセウスは無意識の持つ暗黒エネルギーには興味を示さなかった。彼の無意識に対する『勝利』は、一つ目の巨人キュークロープスの目を潰すこてに象徴されている。キュークロープスの目は、直観的な理解をもたらす『第三の目』だからだ」 バーマンはこう続けている。「この英雄の誕生は自我の誕生に他ならないのだが、それによって、世界は二面性を持つようになった。世界は、男性と女性、黒と白、神と悪魔、自我と無意識に引き裂かれた。こうして壮大な物語が始まり、世界中の文化がそれに巻き込まれていった」 しかし、この解釈によると『オデュッセイア』は意識の起源の走りと、無意識が意識に見舞う誘惑を描く物語の域を出ない。 ジェインズは意識の起源を厳密に辿ると、ギリシアの為政者で立法家、アテネのソロンまで遡れるとしている。ソロンは紀元前640年頃から560年頃にかけて生きた人物だ。タレスやアナクシマンドロス、ピタゴラス等によってギリシア哲学の基礎が築かれた世紀に、アテネに民主政治を導入したのがソロンだった。 ソロンが『noos』という単語で主観的な心を表していたことは間違いないとされている。同時代に活躍した様々なギリシア人思想家達が言ったという説もあるが、ソロンのものとされる言葉に、かの有名な「汝自身を知れ」がある。これは人が、外側から眺めた自己という概念を持っているときにだけ、意味を成す言葉だ。自己を外側から眺めるのは、自分が何者であるかという考えを前提とする、高度な心の働きと言える。 ジェインズは、意識の起源とおぼしきものを、ギリシア文明やインド文明、中国文明、エジプト文明といった文明に見出している。紀元前500年前後に、この地球上の様々な文明で数々の目覚ましい進歩が一度に起こったが、ジェインズの見るところ、そのうちでも意識の起源を最もよく記述している文献は旧約聖書だ。旧約聖書には、神々が姿を隠し、意識が心の支配権を奪うまでの一部始終が一息に語られている。 そのうえ、旧約聖書の信仰は一神論を説いている。多神教の信仰が〈二分心〉に対応する一方で、一神教は意識ある心に対応している。 多神教と一神教の大きな違いは、迷信や幻覚、或いは雨乞いの踊りなどにかかわるものではなく、誰が人間の行動の実権を握っているのかという認識にある。 意識時代の前段階、〈二分心〉時代には、人々は自由意思を持っていなかった。それどころか意思というものを全く持ち合わせていなかった。意識が出現して、人は自由意思をある程度までは与えられた。やがて倫理問題が発生し、モーセが神から授かった十戒が記された二枚の板を手にシナイ山から降りてきた。 突如、人には考えることができた。人はどのように行動すべきか、だ。一方には「汝自身を知れ」という信条と道徳律があり、もう一方には〈二分心〉による免責がある。両者の落札がいかに大きいかは、次に引用したジェインズの一節にうかがわれる。「シュメール人には『直ちに行い、汝の神を喜ばせよ』と古い諺がある

tenntennsevengoo
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

tenntennsevengoo
質問者

補足

意識できないことを意識できないということは意識が無くなってから意識が回復するまで時間0ということでしょうか?

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