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紫式部や、清少納言は著作を書く紙をどこで入手したのですか

紫式部や、清少納言は著作を書く紙をどこで入手したのですか。 文房具屋があったのですか。

みんなの回答

  • iuna
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回答No.6

皆さんの意見に補足です。 紫式部や清少納言が文才を見出されたのは宮仕えに出る前からなので、スタート時点においては、必ずしも、彼女たちの使える中宮定子や彰子の後見側が与えたばかりではありません。 彼女たちの出身階級である受領が貴族よりもかえって裕福であったのは事実ですが、これも勤める国や本人の裁量によって大きく差が開きます。 基本的には、宮仕えに出る前は彼女たちの実家(結婚しても基本的には妻の実家が財政の上での世話をするのが通常なので)から、宮仕えに出てその才を認められた後は、仕える相手の実家から、紙を得ていたと思われます。特に源氏物語はその膨大な量から考えても、なんらかの経済的な後ろだてがあったかと思われます。 『枕草子』には、立場的に行き詰った清少納言が宮仕えせずに家にこもっていたところに、以前、真新しい青畳と紙が中宮定子から届き、その気持ちに感激したという記述があります。 他の家とのライバル心から有望な女房に紙を与えたということは、一番大きな理由かと思いますが、一方で、歴史全体で見ても、平安時代は文芸というものに評価の高い時期であり、また、多くの宮仕えの人々や受領階級の家の人などがこぞって数少ない文学作品を求めた時代なので、紙自体が入手しがたいのは事実でありながらも、文才があると思われる人に紙を与える、ということは有意義なことという認識があったと思われます。 補足ですが、現在残っている平安文学のほとんどが受領階級の女房たちによるものですが、これは特に才能がどうであるか、あるいは財産がどうであるかということよりも、貴族の姫というものが生産的な立場になく、また、知識を有してそれを誇示することを好まれなかった背景もあります。 ライバル関係に関して言うと、中宮定子は彰子の全盛時代には産褥で亡くなっており、定子に仕えていた清少納言は彰子のサロンに招かれたにも関わらず自ら隠棲し、それを宮廷時代に親交のあった友人たちが支えたという論もありますので、必ずしも清少納言が「没落」したわけではありません。 また、他の女房をライバル視してその才能に関して批評を書いて残したのは紫式部の『紫式部日記』のみです。『枕草子』はまさに彰子側に権力が移っていく斜陽の時期の定子中宮の有様をそばで描いたものですが、ここに自分たちの生活をどんどん追い込んでいくライバルであるはずの彰子側への批判は出てきません。 No.4さんの文中に上がった『蜻蛉日記』は女性が最初に散文で長文の記述を残した記録的な作品ですが、作者の藤原道綱母は歌詠みとしての評価も高く、また夫もその時代の最高権力者であったことなどから紙を入手し記述するということが容易であったとうかがえます。『更級日記』の作者は菅原道真の直系でもあり父が大国の受領時代を経ていたこともあって紙を入手できたと思います。作品の前半の瑞々しい少女の感性、後半の仏教帰依の内容など深く読むと読み応えのある作品です。

  • jazzmas
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.5

私もNO、4さんと同意見です。 その時代はいかにして自分の娘の所に天皇を通わせるか、ということに親は一生懸命になっていたのですから、文学だけでなく絵画や達筆な書物などで有力な後宮は溢れていたと思われます。高級な紙でも、あるところには沢山あったのでしょうね。 それと、紫式部の父親は学者で、清少納言の父親も曾祖父も有名な歌人です(清原元輔と清原の深養父。二人とも百人一首にものってます)。家庭環境からいっても、紙には小さい頃から親しみがあったのではないでしょうか? 紙は今では簡単に手に入りますけどね。 貴重な紙に書いて、それをまた人が紙に写して、、、、その繰り返しで現代に古典文学が伝わってきているのかと思うと、ロマンを感じますよね***

  • amosnoopy
  • ベストアンサー率44% (47/105)
回答No.4

平安時代紙は大変貴重なものでした。京の都には紙屋院という和紙の官立の製紙工場はありましたが、非常に高価でそれを使えるのは非常に限られた階級のみでした。又地方では年貢の代わりに紙を納めていたという記録がある事から非常に高価なものであったのが伺われます。 一条天皇の后、定子ーていしーに仕えていたのが清少納言 彰子ーしょうしー(有名な藤原道長の娘で定子にとってはいとこにあたります)に仕えていたのが紫式部や和泉式部。 主人がライバル関係ですから、おのずと仲が悪くなるのはわかりますよね。 后たちがお互いお抱えの才女を競わせる為、その才を発揮するのにふさわしい環境を整えるという意味で、彼女たちに紙を与えたと考えられます。 「枕草子」に定子の兄伊周(これちか)が一条天皇と后である定子に貢ぎ物として紙を一式手土産として持参した際、定子がさて何を書こうかしら。と 清少納言に問うと 「枕にしかならないですね」と答え、その答えを非常に面白くおもった定子が清少納言に紙を与えたという記述があります。 それが「枕草子」の題名の由来にもなっています。 紙を得て文才を発揮し、宮廷でも話題になったのを苦々しく思ったライバル彰子側が紫式部や和泉式部にも紙を与えて書かせたのでしょう。 結局、藤原家を巻き込んだ権力争いに勝ったのは道長の方で、その娘彰子の子が天皇となり、清少納言は没落します。 最も当時才を発揮した彼女たち(紫式部、清少納言、和泉式部など)は受領とよばれる、地方のお役人の娘たち、かなりあくどい事をして財を成したといいますから、裕福な家柄であったのでしょう。それ故紙を手に入れることも可能だったのではといわれています。地方経験の豊かさが文章に深みを与えたともいえます。 受領の娘としては他に「蜻蛉日記」「更級日記」の著者も後世に作品を残しています。関白夫人だった「蜻蛉日記」はともかく、宮仕えをしてなかった「更級日記」の作者が紙を手にいれたのはそういったつてであったのではないかと思います。その割には書いている事はかなり貧乏くさいのですが・・・(余談)

  • q-e-d
  • ベストアンサー率14% (4/27)
回答No.3

私はパトロンがいたときいていますが・・・ えーと詳しいことは自分忘れましたが 清少納言は定氏 紫式部は章氏といういわゆる当時の天皇のお后の二人にそれぞれつかえていて、よって互いに自分を天皇にアピールしたい訳です。またその親も(大臣かなんか)自分の娘が天皇に気に入られて子供を産めば子孫繁栄万々歳な訳です。よって清少納言、紫式部に各々が書かせてそれを天皇その他に読ませる、するとうちにはこんな凄い作家がいるのよ、とアピールできるそういう狙いがあったと思われます。よってその各々の親である大臣がパトロンになり紙を手配した・・・のではといわれてますが 本当のところはよくわかってません ただ清少納言 紫式部 互いに相手は敵な訳ですから 互いの日記や作品なんかでくそぼろに言ってます。 よってあたらずも遠からずなのでは

noname#25898
noname#25898
回答No.2

年貢として出すことも認められていたようなので、宮廷では、収められた和紙を有能な、作家に渡していたのでは、ないでしょうか。 紙漉きをして、作られた和紙を取りまとめる、お家もあったでしょうから、文房具屋さんというよりは、問屋さんに近いでしょうか。

参考URL:
http://www.hm2.aitai.ne.jp/~row/history.html
回答No.1

上司から何かのご褒美にもらったのです。 そのもらった紙で、枕草子や源氏物語を書いたのです。

kino7744
質問者

お礼

ご回答をどうもありがとうございました。 そういう新しい知見が得られたので良かったです。 たいへん勉強になりました。

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