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清少納言の出仕のきっかけって?

紫式部の出仕のきっかけは「源氏物語」を書いていたのが誰かの目に触れて、道長にヘッドハンティングされたという説がありますが、清少納言の出仕のきっかけってなんだったんでしょう。学問の家柄出身とはいえ、もう「受領階級」になって、地方にも連れて行かれているし、たいしてメリットはないように思うのですが?

  • usan7
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  • hatikou2
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回答No.1

 中宮定子が入内した2年後に出仕した清少納言は、特に選ばれてお召しがあったのだと想像されます。  出仕のきっかけを想像すると、学問の家柄で豊富な知識をもっていたことと、すばやい機転のきく頭脳と、その機転に乗って場面に応じた絶妙の応対ができる才能に恵まれていたことが関係あるようです。一七五段「村上の前帝の御時に」に書かれている兵衛の蔵人のような要素を清少納言は期待されていたのではないでしょうか。  受領と宮仕えとでは知識の洗練される程度が異なるようです。宮仕えの方が「貴族階級の水準」の洗練具合になるようです。清少納言にとってもメリットがあったようです。 (新日本古典文学大系『枕草子』解説三六八ページ より)

usan7
質問者

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お礼が大変遅くなりまして、失礼致しました。大変参考になりました。

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