• 締切済み

人とうまく楽しめなくて

「うまく楽しむ」なんて言う方法はない事はもちろんなのですが、 私はどうも一緒にいてくれる友人を大切に思い、一緒にいて楽しかった、と思える事がないのです。 最近まで、みんな周りも同じような気持ちで笑い合ってはいるけれど好意なんてなくて、愛想笑いなだけなんだろうな、と思っていたのです。 ですが、私が知らなかっただけで、周りの友達に恋人もいて、寂しいと思うからここに来る、合う、という行動をしている事も知りました。 世の中ではもちろんたくさんそういう想いが溢れている事が判りますが 、私の周りでも起こっているという事が私にはとても衝撃なんです。 私には感情が一つ大きく欠けているのではと考えています。 まだ若輩者なので場数も踏んでいない所為なのかもしれませんが… うまくいえないのですが、一瞬一瞬はおもしろ可笑しかったりして心から笑っても、10秒~1分も経つと本当にくだらなく思えてきます。家に帰ると疲労感しか残っていないのです。 何年つきあって仲良くした子とも、離れてしまう事に全くの寂しさも沸かないのです。最悪死んでしまっても何とも思える気がしません。 中高で不登校を二度経験した事があり、それは関係が有るのだろうなとは思います。 人と関わる事は見聞も広まるし、新しい世界が見える素敵な事だと思います。それなのに多くの人が関わり合って感じる喜び楽しみが欠けている自分が哀しいです。 哀しいとか辛い、不満などはたくさん感じるのです。 私は創作による表現を生き甲斐にしています。 人を好きになれない事で表現の幅が大きく減っている事を痛感するのです。表現がなければ自分の心に何が欠けていようが気にしないのでしょ う。 表現に依存しすぎて義務的になりすぎているのかもしれません。 どうしたら人に好意を持って心から喜びを感じる事が出来るのでしょう? ご意見聞かせて下さい。

みんなの回答

回答No.5

再びShirokumaXです。 なんだかちょっと誤解を与えてしまったみたいです。 「壁を乗り越える」というと、なんだか自分の外に目標があって、それに向かって努力して達成するみたいな意味に取られてしまいますね。ちょっと迂闊に物を言ってしまいました。 この場合、私の言いたいのはむしろ逆の意味なのです。 勉強をしてみられたり、バイト仲間とカラオケにいける自分を実現してみたり、大変に努力されているのは痛いほどわかるんです。ただ、そういう努力と言うのは、自分に対して負担を与えるだけになってしまうことにもなりかねません。失敗したときなど、特にそうでしょう。 逆に「勉強しようと思っても、できないこと」「人付き合いが得意でなく、楽しそうに振舞うことを無理やりやらないとできないこと」などなどを「それが自分だよな」と受け入れて、そこから人付き合いを含めて自分の歩みを進めていける、それが私が「乗り越える」と表現したことの意味なのです。 reana773さんは自分に対しても周囲の人に対しても、理想を求める傾向が強いのだと思います。人付き合いがうまく、誰とでもうまくやっていけることを自分に求める。受験して学校で勉強できることを自分に求める。創作活動をして素晴らしいものを作り上げることを自分に求める…等々。 まさに私がそうだったからこんなことを言うんですが、人間誰しもそうそう理想的な存在ではありませんよ。 まずは「理想的ではない自分」が自分なのだと認めてみましょうよ。人付き合いが下手で、時として人を不快にさせてしまうことも、学校でうまくやっていけないことも、何もかもあるがままに「それが自分だし」と思ってみましょう。 いまのreana773さんは、おそらく「自分が理想的ではない」ことで人を傷つけ、自分も傷つくのではないかと恐れるあまり、どんな人とも心理的に距離を置くことによって自分を守っているのではないかと思います。そのことによって、自分も周囲からなんとなく疎外感を覚えてしまっているのではないかと、文章からは読み取れるのです。 世の中に完璧な人間はいません。完璧から程遠い自分、というのをいかに自分で受け入れるかによって、その人の価値が決まるとすら私は考えています。逆説的なようですが、完璧から程遠い自分というのを認識するところから、完璧へ向けてにじり寄るような、本当の「人生」が始まるのではないでしょうか。 自分の創作に対する周囲の評価が芳しくないというのも、たぶんそこから来ているのではないかと私は推察します。reana773さんは「自分の平凡性を認めて、それを受け入れた上で生き抜こうとする生の息遣い」みたいなものを、現在は描けていないのだと思います。理想が高いゆえに「理想の自分」が表現する「理想の創作」みたいなものを描いてしまっているのではないかと思うのです。 すごく悪いたとえですが、中身がないくせにプライドだけ高く、理想論ばかり振りかざす人間に会うと腹が立ってくると思いませんか?似たようなもので、自分の心底ではなく、仮想の「理想の自分」に描かせたような表現は人の心を動かさないと思います。やはり、誰しも苦しんでいるのですよ。自分のつまらなさに。だからこそ、血の通った「生の自分」を表現したようなものに自分自身との共通性を感じ、人は魅かれるのではないでしょうか。 人との接触を楽しめる人は、そのつまらなさを自分で受け入れて、人前で飾らず表現できる人、逆に楽しめない人は、自分の評価が下がるのを恐れて「自分から人と距離を置く」人だと思います。周りの人々が心理的に遠いのではないのです。自分のほうから遠ざかっているんです。 その証拠、と言えるかもわかりませんが「へぇ、奇麗だね、これ何描いたの?ふーん」として終わってしまう、とのこと。reana773さんとその見せた相手がいいところも悪いところもお互いに知り合い信頼しあう仲だったら、その人はreana773さんの創作物の悪いところを指摘してくれると思いませんか?「本気で答えてくれる人がいない」というのは、むしろreana773さんが傷つくのを恐れているからだと思うんです。その気持ちが相手に伝わり、「本心を言ったらヤバい」と感じさせてしまっているのではないでしょうか。 せっかく創作という手段があるのですから、それに徹してみるのもいいかもしれませんね。どういう種類の創作なのか文面からは判断できませんが(おそらく絵画系統のものだろうとは思いますが)、美術系の大学に入るだけが「世に出す」手段ではありません。道端に作品を並べてみるのもひとつの手段です。申し訳ないですけど、知人ですら当たり障りのない言葉しかくれないということですから、他人からは酷評されると思います。そこで「見る目がない人間ばかりだ」と人のせいにするのではなく、自分の作品に何が欠けているのか、それを徹底的に自分と向き合って考える、必然的にそういうことになると思います。 作品の上で「私の思う理想の私」ではなく「理想とは言えないありのままの私」が言葉を発し始めたとき、おそらく「いいねえ」と言ってくれる人が現れると、私は思います。 reana773さんは実は半分もうそのことに気づいているんではないかと思います。そうでなければ、人は悩みません。悩むということが「自分が不完全であることを知る」ことの第一歩でしょう。私自身もそうでしたが、鬱になったりするくらいですから、これは苦しいことなんですね。でも挫折のない人に自分の不完全さを知る機会は少ないです(いわゆる「エリート臭さ」なんてものは挫折を知らない人の特徴でしょうね)。reana773さんは今それに気付き、それを飲み込みかけているわけです。やはり人生変えるくらいの大きなことですから、飲み込む途中は苦しいです。しかし飲み込んでしまえば、それは心の薬となり、栄養となります。 まずは、悩んでいる自分を、異常ではなく、誰しも悩んでいる同じ悩みを悩んでいるんだ、と受け入れてみましょう。それができたら、その悩みを表現してみましょう。言葉でも、創作活動でもいいです。思い通りに伝わらないことを恐れずに、一心に表現すれば、いつか人の心を動かします。 長くなりましたが、要するに「背伸びもしなければ、卑屈にもならない、ありのままの自分を、まずお腹に収めること」これを「壁を乗り越える」と表現してしまったわけです。わかりにくくてすみませんでした。

  • -LIBRA-
  • ベストアンサー率34% (57/164)
回答No.4

ANo.2のShirokumaX様の回答に激しく同意します。 質問者様はまだ本当の意味で試練を乗り越えていないのだと思います。 そして、自分がどれだけ守られて恵まれた環境に身を置いているかというありがたみを感じていないのでしょう。 若輩者、とご自分を表現されていますが、まだお若いのですね。 私も若かりし頃、特に学生時代~20代前半はそのような感覚でした。 『他者の目を通した自分の姿』を知る作業が必要です。 それは他の方も仰るとおり、耐え難い苦痛を伴う事が非常に多いと思います。 私も実績も実力も才能もないのに、ただただ傲慢で上から目線で世間を見ていた小物だったので、自分を「凡人」「努力が足りない人」と認識する事は自分の中の何かを削ぎ落とすようで苦しみました。 >表現に依存しすぎて義務的になりすぎている 日々の生活が満たされないから表現に逃げるのでしょう。 私も若い頃、創作に居場所を見出していました。 作家になりたいといいつつ、ただ自分の居心地のいい場所、自分を他人に認めてもらいたい欲求からモノを描く事に傾倒していったのだと思います。 友達でも創作が好きな人がいますが、本当に芸術家・作家になりたいのではなく、自分の存在を他者に認めてもらいたい・心を動かしたいという奥底の抑圧された感情から表現する世界に依存している形になるのだと思います。その友達は知識も豊富で賢い人ですが、どこか現実味がなく空虚で実が伴っていなくて世間から転がり落ちそうで心配な存在になっています。若い頃は良かったのですが、自分の殻にこもり、常に一段高いところから世間を見つめ、ソツがないのですが、試練を乗り越えていないので30代になった今、心優しい友人以外からは誰が見ても甘ったれた世間知らずな意志薄弱な人だと思われています。 私は平穏に日々の生活を過ごす事に喜びと幸せを感じる事が出来るようになってから創作に一切興味を持てなくなりました。 それは能動的に得られたのではなく、気がついたらどうしようもなく追い詰められて、自分の価値観、見方を変える事でしか乗り切れないピンチに陥っていたからです。私を傷つけ追い詰めたのは『他人』でしたが、気付かせ救ってくれたのも『他人』でした。 質問者様は無意識の中で自分が傷つかない生き方を選択しているので、なかなか今の自分を打破するのは難しいと思いますが、自分が他人にどう思われているかを知るように心がけ、いい事も悪い事も全て聞き入れる努力をしてみてはいかがでしょうか。 >人に好意を持って心から喜びを感じる事 に気がついて興味を持ったという事は、次のステージに必ず進めるはずです。 素敵な大人に成長してください。

reana773
質問者

お礼

貴重なご意見ありがたいです。 no.2のShirokumaX様の方に壁について思う所を伝えましたが… うーん。壁とはいったい何なのでしょう?辛い事を乗り越える事? 本当の意味で試練を乗り越えるとはまたどういう風に捉えたら良いのでしょう? 結局はすべて私次第という事にはなるのでしょうがけれど、 鬱になって人と話せなくなって、外で髪を掻き上げる事さえ出来なくなっていた私が、バイトに行き冗談を言って、友達とカラオケに行けるようになりました。 乗り越えたという表現をして良い事なのでしょうか? 嫌いで、未熟だった自分をまだよく覚えているだけ今の自分は好きだし、取り戻した分相応自信を持っていい存在だと考えています。 その自信と謙遜と過信の具合が難しいですが、周りの方や皆様の意見を聞き、しっかりと迷え、悩める事が自分の良さとも考えています。 (短所と言える事も出来ますが) とにかく今私が実感している事は、何を言われても、 この人がいて良かったとか、楽しかったとか、こういう感情だけが少しも沸いてこないのです。 6年も私の相談を受けてきてくれていた方がいたのですが、いなくなってからも何とも感じないのです。 私の事を気に掛けてくれていて、会おうと言ってくださり、会ったのですが、もう定期的に話す機会もないのにと思うと、今までの感謝もなく、面倒なだけなのです。次第に嫌悪感が沸いたり… でも変な話ですが頭では感謝しているとも考えていて、申し訳ない気持ちになってしまっています。みんな嫌いだとか思う人ではないのです。 そうして何も感じない自分が創作を披露して、何も感じさせられない事が一番哀しく、恐いのです。仕事の生業にしようと決めた所為もあります。 私は作る事を愛しています。依存だとしてももこれだけは本当に心から愛していると言えます。 人をきちんと想えるようになってからもたくさんのものを作り上げたいです。人に感動を与えたいのです。 こう思えるようになった事も大きな第一歩だと考えています。 まぁもう大人の仲間とも言えるような年齢ですが、暖かい気持ちを持って生きていきたいですね。 ありがとうございました。

回答No.3

幸せってその只中にいる時は気付けないものです。 私も高校の時その様な感じで、どこにいても誰といても常に寂しさや、物足りなさを感じていました。 その刹那な思い出が20年以上経つと、本当に大切な日々だったのだと気付きます。 全ての時は一瞬で過ぎていきます。 『最低』『私がいる場所はここじゃない』『誰といても満たされない』そう思っていたことも全部含めて宝物に思えるようになります。必ず。 人との繋がりも何百回と思い出してやっと謎解きが出来たり、人の真意が汲み取れたりします。 その頃の日記にも『虚しい』と沢山書いてありますが、その頃があっての今なんだろうなぁと思いました。 悲しい、辛い、不満が日常だからこそ、ちょっとしたことが幸せに思えるのではないですか? 本を読んだり思想することも大切ですが、他人と出会うことで本当に自分を知ることが出来ます。 大喜びすることなんてそんなにありえません。 だからこそ、小さい事を喜べる人になりたいですね。 貴方が創作しているのは、人と関わりたいからなのでしょう。 多分全ての表現は人とつながりたい為にあるのではないでしょうか? 創作が人と貴方をつなげてくれますよ。 順番はどうでも良いのです。 孤独を感じているかもしれませんが、全ての人間は孤独なので、そういう気持ち解っていると言うことは、人と繋がっている事になれると思います。 痛みを知らない明るさは虚しいだけです。 その点、reana773さんは本当の意味で喜びを感じる資質があるのではないでしょうか?

reana773
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 最後に人って素敵だな、話できるだけで楽しいな、と思った事が十年近く前まで遡ります。 確かにそのときは幸せな事だなんて思わなかったですね。 だから私は今が楽しくないから不幸せとか、あぁ空しいと感じる事も、実際そうではないのではないかと考える様になったのです。 学校にだって通わせてもらっている、ご飯も満足にもらえているし、何より表現のための援助だって受けている。こんな幸せな事はありません。嬉しいし、いくらだって楽しめる。 宝物でない人や出来事などありません。 と、思うのは頭ばかりで心が動かないのですね。 いっそ食べてゆける事なんて当然と思い、頭の片隅にもなければ小さな事が本当に幸せに思えるのかもしれません。 創作は確かに自分のためだけにする事ではありませんね。 評価なんていらない、と思っていた頃でさえ他人に披露していたのですから。 言葉も表現ですし、表現は人に伝える為に有るのかもしれません。 ただそれだけとも言えません。何年も一緒にいたので一言では言えませんが、自分をこうやって新しく見つけたり、高みへ導くものでも有ります。 人との繋がりが大切で実際繋がってもいて、私にはたくさんの感情が合ります。喜びを感じる事が出来た人間なのです。 それが不登校を境に消えてしまった実感があります。本当に何か落っことしてきたような、ぽっかりと欠けている感覚なのです。 それから何年も経ちます。十年経てば全く違う感じ方をしているのかもしれません。二十年、三十年なんてあっという間とも言えるのかもしれませんね。 人と繋がっている。今はそれでいいと思いながらも、会うと残るものがもう疲れだけで、顔を見るのも億劫で家にいる事も多くなっているのです。 こんな自分に自己嫌悪してきてしまいます。

回答No.2

私の率直な意見なので気に障られたら読み流して欲しいのですが…。 壁にぶつかった経験、そしてそれを自力で乗り越えた経験が少ないのではないかという気がします。 中高の不登校があるじゃないか、と思われるかもしれませんが、それは実は「壁にぶつかりそうになったからそれを回避することで時間の経過に任せてやり過ごした」経験でしかないのではないでしょうか。 創作による表現がお好きとのことですから、それを実際に社会に問うてみてはいかがでしょうか。もちろんこれはかなりの覚悟を伴います。批判を受ける、ということを想定しなければいけないわけですから。しかし、それを受けてなお他の人たちの心に届く作品でないと、少なくとも社会的に価値がないわけです。 はじめから失敗すると決めてかかっていると思われるかもしれませんが、「隠れた天才が世に出た」と熱狂的に受け入れられることは、まず考えられないと思います。どこの誰かもわからない人に見られ、酷評され、自分のプライドが傷つく。何とか受け入れられることを目指して自分を磨く。そういう作業の中で、成功すれば自分に余裕というものができて人にやさしくなると思いますし、どう努力しても自分には才能がないのだと思ったとき(正直言って、こっちの可能性のほうがずいぶん高いと思います)、自分のプライドが無駄に高かった、自分は思っているほど優秀な人間ではなかったと心底納得がいき、こんな自分なのになんて恵まれた環境にいるんだろう、と見方がガラッと変わるのです。 実は私は、かつて「自分は知的優秀で学問の世界で偉くなるのだ」という根拠のない思い上がりを持っていました。結果としてコテンパンにその思い上がりを叩かれて、自分は凡人でしかないと思い知るわけですが、そのときから、自分の身近な人間関係がとてもありがたく思え、人から「話が面白い」と言ってもらえることが増えてきました。自分で思うに、かつての自分の物言いや態度は、偉そうな割に空虚で、嫌な人間だったろうな、と思います。特に女性に対して「こんなすごい男と付き合わない手はないぜ」みたいな尊大な態度で接していたことを思い返すと「過去を消す方法はないか」と真剣に考えてしまうほどです。 一言で言うと「分際」を知ると言うんでしょうか。自分の価値がどれほどのものなのかということは、結局世に問うてみることでしかわかりません。そしてその結果が出たら、その予想外の価値の低さに愕然として、もしかしたら病気になるかもしれません(私は実際それで鬱病になりましたから)。しかし、それを受け入れて、地道に人間性を涵養することしか、最終的には方法がないと思うのです。 あとは人間性のよく描かれたフィクションを数多く見聞きして、間接的に人間関係を体験するのもひとつの手だと思います。何も高尚な文学作品に限りません。私を救ってくれたフィクションは落語でした。たとえば漫画なんかでも、人間性を育ててくれる作品は少なくないと思います。 そうやって人間性を涵養したとき、質問者さんの創作は奥の深いものになると思います。もしかしたら、今質問者さんがしている「創作」というのは、思い通りにならない世の中から逃げるために人間関係を代償的に行う行為で、人間性が涵養されたらそもそも創作の必要性そのものがなくなるかもしれませんが、そうなったらそれはそれでひとつの生き方だと思えるようになっていると思うのです。

reana773
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 断言する事は無遠慮かもしれませんが、多くの壁にぶつかってきました。鬱病にもなりました。薬を飲みました。腕を切りました。 創作表現もやめて2年間してこなかった勉強に1年間やるだけやって受験に挑みました。 受かった学校でまた不登校になりました。また鬱にもなりました。 これが壁かどうかは人によります。当時自分でも小さな事でこんなに落ち込んでるなと思いながら鬱になってましたし。 ただ私にとっては乗り越えた壁だと思っています。その為に落としてきたものが多かったかなと考えているんです。 創作については確かに、自分の心を、考えたものを表現なくてもいい、さらっと見流して意見なんていらないと思っていた時期が長くありました。 そのころは心なんて動かなくていいと考えてましたし、こんな悩みはなかったんですね。 今は本気で作り上げたものを周りに見てもらっています。 けれどそれに本気で答えてくれる人がいないように感じます。 「へぇ、奇麗だね、これ何描いたの?ふーん」として終わってしまいます。 苦言になる事でもなるべく正直に答えて欲しいとお願いしてみるのですが、なかなかうまくいきません。言葉や文章と違ってわかりにくいものですので、あまり無理にはいえませんし。 断言は出来ませんが、私は自分を客観的に見る傾向が有るので、思い上がりは少ない方だと思います。 創作系の大学に入るため受験勉強していますが、みんながうまく見えてちょっと落ち込んでるくらいです(笑 人間性のかかれたフィクションですが、参考にしてみます。 ただ映画も漫画も好きでよく見るのですが、「NANA」とかこう、人間関係を描いている作品を鑑賞していると、本当に気持ちが理解できなくて なんだか疎外感を感じてきてしまいます。(極端ですみません。面白い漫画とは思うんです) だからファンタジーものだったり、文学作品の方に偏りがいってしまう事も多いのですが…。まぁ好きで読んでいるんですけどね。 体験談も交えてご意見ありがとうございました。

noname#24295
noname#24295
回答No.1

先ず、誰とでも上手くやろう、誰からも好かれようと思わないことですね。 極端な例ですが、あなたは、他人をいじめて楽しんだり犯罪不正を平気出やるようなヤカラから好かれたいですか?こんなヤカラと友人になりたいですか? あなたも自身の叩き売りをせずに、あなた自身友人を選びましょう。 日本だけで1億2千万人いるんです。あなたと友人になる・あなたの存在価値を評価する者がいないわけがありません! 先ず、あなたを理解してくれる人・あなたが理解できる人を見つけるところからはじめましょう。 全てはここから始ります。 そして一言! OKwaveのメンバーの大半が、あなたの友人です。

reana773
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。声が聞けてとても嬉しいです。 そうですね。八方美人に平らにやっていこうなんて思っていたら心から愛せる人はでてこないですね。 でも自分が誰が好きかがよく解らないので、誰に対してうまくやれば良いのかがわからないのです。 あぁ嫌な人だな、思った人には周りがちょっと引くくらい辛辣な態度をとる事は有るのですけど。この程度の取捨選択はしてるつもりです。 (嫌いになるととことん嫌いになるクセが有るかもしれません) 何年もつきあっている友人はいるのだけれど、(とても優しい人達です)自分の事を話すまでに至らないのです。 友人がいないとは思っていません。周りの彼女たちや皆様が私の存在に答えてくれる事に失礼な事だと考えています。

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