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タイと日本の功徳観の違いについて
よろしくお願いいたします。 タイと日本は、外来の宗教として仏教が入り、経緯はともかく体制側の事情・都合も手伝って広まった(少なくとも、100%お寺さんの布教によって広まったわけではない)、というところは共通だと思います。 タイは信心深い仏教徒が多いものの、一般の人々は、それほど仏教教理の知識があるわけではない、と聞きました。 「因果応報」「輪廻転生」を信じ、徳を積むことによって善因をつくることを「善い事」としているというような、はっきりした「功徳観」があるように感じます。 日本では、急速に仏事や日常の生活上で「行いをもって徳を積む」という功徳の観念が薄れているように感じます。 仏教に関する事柄も、それ以外も、情報量は(おそらく)圧倒的に多いと思われます。 功徳は、目に見えるものでない以上「功徳を積んで何になるのか?」という問いは信仰心で封じるしかないわけですが、タイではそれができて、日本ではできないというその違いはなんでしょう? 南伝系の上座部仏教と大乗仏教との教理上の違いが大きいのか、単に国民性・国情の違いなのか、仏教受容の姿勢・立場の問題か・・・どう考えるのがよいのかと思いまして。 信仰心の厚薄の是非や、それぞれの仏教の優劣批判等ではなく、一般の人たちの功徳観という点を中心に、ご見解をいただけますと有り難く存じます。
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はっきりした回答はできませんので、以下は単なるアドバイスですが。 まず最初のアドバイスは、功徳についての姿勢を比較するにあたって、大乗と上座部という区分を持ち込むことはあまり有益ではないだろう、ということです。 確かにタイやカンボジア、ラオスなどの上座部仏教諸国では供養によって功徳を積むということが日常的な通念になっています。しかし、だからといって大乗仏教ではその意識が弱いはず、と短絡できるわけではありません。当たり前のことですが、この単純な分類では、「チベットは大乗国だから人々の功徳の意識も薄い」という結論になってしまいますし、そもそも、数百年におよぶ大乗時代のインド仏教の興隆の歴史を説明できないからです。 また、上座部は大乗仏教よりも原始仏教に近い環境が残されているから、というタイプの説明も、あまり有意義だとはおもえません。タイで「功徳を積む」といえば、即座にタンブンというありふれた儀式がイメージされますが(実際「タンブン」とはそのまま「功徳を積む」という意味)、このタンブンは、人生のいろいろな時点の通過儀礼として行われたり、また家の新築時の招福などのために行われることも非常に多い儀式です。そもそもこういったことはすべて、原始仏教なら行わなかったはずのことばかりですから、少なくとも「功徳を積む」ことについて原始仏教に近い云々の議論は的外れでしかありません。 分析概念としてむしろ注意をはらうべきなのは、大乗か上座部か、といった分類ではなく、宗教学(あるいは人類学)的な操作概念としての「聖」と「俗」ではないかと思います。そもそも「功徳を積む」ということがどうして可能なのか(あるいは人々が「功徳を積んだ」と実感することはどのような条件によって可能なのか)と考えれば、やはり「俗なるもの」に対して「聖なるもの」がはっきりと社会に是認され確立されていることが前提でしょう。「聖」の存在が明確であるからこそ、人々は自らを「俗」として観念し、儀礼という非日常を介してその聖性に触れることでエネルギーを得たり、穢れをはらうという観念操作ができるのだからです。 「聖」と「俗」は大乗や上座部の枠組みばかりか、仏教を含めたあらゆる宗教的ダイナミズムの根本にある、いわば宗教の土台です。日本で宗教の力が弱まったとすれば、まずその原因はこのコントラストが弱まったこと、つまり宗教的エネルギーの源泉であった落差の消失によって功徳の源泉が失われたのではないか、という方向でひとまず考えることができるのではないでしょうか。 例えば具体的には、三宝のひとつであるサンガの問題です。サンガはそれ自体が恭敬の対象ですが、ご承知のとおり日本には恒久的サンガは伝統的に存在せず、その部分の聖性は、日本人の伝統的心情に則るかたちで“山の霊性”や言霊信仰などもろもろの要素が補完してきた歴史がありますが、資本主義システムに国土がくまなく覆われるようになってきた昨今、いよいよそのマジックの賞味期限が切れようとしていることが、功徳の存在を疑わせるようになってきた一因であるのかも知れません。仏でも法でもなく、サンガの意味というあたりを考察してみる価値はあるのではないでしょうか。 それから第二点目のアドバイスですが、他の仏教国と比べ、日本はもともと「功徳を積む」という観念が薄いということにも注意を向けるべきではないかと思います。近年になって薄まったというより、もともとの素地に乏しいのです。 このことは、日本での「供養」の意味を見ればよくわかります。もともと「供養」という言葉は、たとえば阿含にある「四事供養」や法華経の「十種供養」といったような、三宝に財物を捧げる行為をさすわけですが、少なくとも近世以降の日本では、ほとんど「死者への追善供養」のことばかりを指すようになっています。わかりやすくいえば葬式仏教化が進んだ、ということですが、なぜそうなったかといえば、もともと日本での「供養」が、「功徳」を求めて行うものであったというよりも、むしろ滅罪の意味を持つものとして機能してきたからです。 教理・教学はともかく実態としては、日本での功徳というものは蓄積して福徳を招くものとして受け止められるよりも、むしろ、罪過を清算するためだったり、罪責感を解消・軽減するための手段としての意味合いが強くありました。つまり、死者に対する生者の側の漠然とした罪悪感が日本人にはぬき難くあって、その罪の意識の軽減のためにこそ「功徳」は求められてきたのです。それが昂じてなおかつ固定した状態が、供養といえばイコール「死者の追善」、という現実を生んだのではないでしょうか(念のために言えば、この見立ては柳田國男以降の民俗学の「荒魂説」と表裏をなすものですし、伝統的なケガレ観とも齟齬しません)。このような見方に立てば、日本では功徳を積む意識が薄らいだのではなくて、もともとタイとは根底的に相違していた「功徳観」の違いが露呈してきた、ということになるでしょう。 もう少し言えば、中村禎里や中村生雄らが指摘していることの延長ですが、このような日本の功徳観は消費社会のシステムと非常に親和性が高い。福徳を積みあげていく、というタイプの功徳観は、時間的継続がベースですから、当然社会の変化に対して弾力性に乏しく、ある面では社会の消費資本主義化に対するブレーキともなるでしょう。 ところが日本的な功徳観は、既に生起したことへのメンタルな対処方法ですから、例えば「動物供養」に端的に表れるように、それ自体は美しい心情の発露であっても、マクロに見れば、人間の側の罪悪感を軽減することを通じて(あるいはセンチメンタルな“癒し”の皮膜をかぶせることを通じて)、動物を資本主義経済の中で殺すという消費システムを支えるツールとなっている、という側面も否定できません。日本的功徳観は、資本主義にとってブレーキでないばかりか、むしろ存外に味方だともいえるのです。 日本の仏教は、現状ではある面で資本主義化の潤滑剤として機能し、そしてそのことがさらに聖と俗との境界を薄めて宗教の足元を掘り崩していくことになる・・・、という一種のスパイラルの踊り場にあると言えるのでしょうか。そのために、タイなどとの違いがが際立って見えるのかもしれませんが、その中心には意外と「功徳」というキーワードが横たわっているのではないでしょうか。 時間がなく雑駁で、あまり有意義な回答にはなりませんでしたが、参考になれば。何か補足があれば時間をみてわかる範囲で対応させていただきます。
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この質問は解決したのでしょうか?少し述べてもいいですか? 学会の発表じゃないのに難しく理由付けして、難しくもっともらしく言いまわしている方がいますね。でも簡単なことです。だって資本主義化の潤滑油って結果に過ぎないし、悔過の意識はタイのお坊さんのほうが絶対に強いですよ。日本では悔過、懺悔、布薩とか言っても口先だけ、形だけですが、本来の目的は罪悪感を持つことです(いただきますも)。それに追善の意識がある人っていますか?供養って本とは自分のためにやるはずですし、供養だけが功徳ではありません。南都までの仏教は学問で、宗教ではなかったから宗教心なんかあるわけないし、檀家制度になるまで仏教は特権階級に支配されていたから一般の人たちに功徳とか、信仰心とかあるわけ無いですよ。 だいたいタイ、スリランカ、ミャンマー等の南方仏教と、中国、日本の北方仏教は、おっしゃるとおり“小”乗と大乗なんですから功徳感が違って当たり前ですよ。功徳感だけじゃなくてまったく違う宗教といっていいのではないでしょうか。比較の対象になりません。 タイに行ってみると、タイのお坊さんは本気で悟りをひらくために修行しています。これは明らかに原始仏教に近いですし、功徳を積むのに聖も俗も関係ないですよ。本来功徳は儀式ではなく日常的なことであるべきで、聖はもちろん、俗も積めるからこそ(仏教の聖俗一致です)仏教のはずです。仏教のハズデス。他の宗教は別ですよ。 日本のお坊さんで悟りをひらこうとしているお坊さんにはあったことありません。日本のお坊さんは悟りをひらくつもりなんか無いんじゃないですか?。それに、サンガ = お坊さんでいいと思いますし、タイも日本もお坊さんがいるから仏教が成り立っています。一般の人たちの功徳感に当然反映されます。 日本は大乗だからお坊さんたちは煩悩即菩提とか言って、みんな生臭じゃないですか。タイでは結婚したり肉食したりするのはお坊さんじゃありませんよ。回向文の「願似此功徳」ってのは、いつもは功徳を積んでないから「功徳を積みましたよ~」って後から確認してるんだと思います。功徳自体が福徳ですし、功徳を積めるのは幸せです。自覚して功徳を積むのも積まないよりはましですが、これは初心者だけのやり方です。 大乗は功徳を積まなくても悟りをひらける、いえ、本とはみんな悟っているんですよ。 ワタシでよければ、なにか聞いてください。わざと難しく答えるようなことはしませんから。
お礼
ご回答有り難うございます。 締めるかどうかしばらく思案しておりました・・・ いろいろとお尋ねしたいのはやまやまなのですが、疑問があれこれと飛び散らかってしまいそうなので、申し訳ないのですが、とりあえず一旦締めることにします。せっかくお声がけいただきましたのに、お許しください。 お立ち寄りいただき、感謝いたします。
追伸・・・。^^ 折角ですから、もう少しだけ。 仏教は、難しいものではないですよ。 本に、難しく書いてるだけです。^^ 言い方を変えれば、 簡単だからこそ、難しいとでも言いましょう。 でも、勘違いしたらいけないのは どんな書物も、所詮、説明書だと言うことです。 薬にも、色んな説明書が付いてますが 問題は、薬の方ですからね。^^ 料理人で言えば、味は、頭で覚えるものではなくて 舌で覚えるものと言う具合ですよ。^^ どんな書物にも、説明はあっても、味はないですからね。^^
お礼
ご丁寧に、再度有り難うございます。 凡俗ならではの迷い道を楽しんでいる、少々タチの悪い衆生ですので、そこらへんは温かく見守ってやってください。 ご教導感謝いたします。
功徳とは何か?は大問題ですね。^^ 言葉ではたくさん使われていますが それは何か?と問われて、答えられる人は 少ないと思いますよ。 なぜかと言うと、功徳を積んでるとわかるのは 他の人で、その人自身は積んでるつもりが ないですからね。^^ 仏教はお釈迦様の死後、2つに別れました。 一つは、お釈迦様のして来た通りにしようとした人々。 一つは、大事なのは、お釈迦様の心を伝えることだとした人々。 タイの仏教は、上ですね。今でも、その時代とあまり変わらない格好を してると思います。チベットあたりも同じですね。 そこでは、一般の人々は、修行僧に施しをすることで、自分自身も救われると、思われてます。 中国、日本に伝わったのは下です。 何が1番大事なのかを伝えようとしたのが、日本の仏教です。 でも、近頃のお坊さんは亡くなった人を救うつもりみたいですから 全く別のものかも知れないですが・・・。 そこで、日本でも修行してる人々がおりますが 伝えるためには、自分で掴む必要がありますので 修行してるのです。 その中で、受け売りではいけません。功徳とは何か? が問題となるわけです。 でも、特別なものではないですよ。 子育ても功徳。親の面倒を見るのも功徳 仕事をするのも功徳です。^^ 下記に、梁の武帝の話が出てますが、武帝は、折角功徳を積んでたのに 自分で台無しにしたわけです。^^ いい事をしながら、自分で悪いことにしてしまったのですね。^^ ですから、達磨大師が何もわかってないばか者!!と言ったのです。 簡単に言えば、子供が折角掃除をしたのに、後で、お金くれと言ったようなものです。^^ 感心なやつじゃと思っておれば。この程度かいです。^^ まあ、この話も功徳をわからせるための、作り話でしょうが 面白いでしょ?^^ 少しは、功徳というものがおわかりいただけましたか?
お礼
懇切にご回答いただき、有り難うございます。 確かお寺さん関係の方だったとお見受けしますが? いろいろな方々からご回答をいただき、自分は積徳の福田思想的側面に重きを置き過ぎて見ていたのか・・・と感じ始めています。 それと、経典・論書の文言に引きずられ過ぎたかな、とも。 ただそれでも・・・目的をもった積徳が許されないのであれば、徳を積む意味とは何か?という話しにならないか?という思いもまだ完全には消えてないです。 功徳は特別なものでない、平素の行いの中で成すもの、というご見解には頷きつつも、自覚しつつ(信心や菩提心を起こして)積徳した方が早くないか?という下世話な(?)気持ちも正直あります。 大乗仏教、とくにその後期や密教になると、悟性のすべては衆生に標準装備(?)されているものという考え方が前面に出てくると思うのですが、仏教の本義や日本各宗の祖師さん方はともかく、一般に広まったとき、それがどうもこう一発逆転の成仏(?)のような感じで捉えられてしまっているのではないかと感じています。(←自分もたぶんその一人。) この点と、この質問でご回答いただいた中にある、日本には「功徳」が根付いていないという点には関わりがありそうな感じだなと思い、そのあたりも留意しつついろいろ見てみよう、と思っています。 お寺の方が、どういうふうにお考えなのか、ご見解お伺いできて有り難かったです。また何事か質問するかもしれませんので、よければよろしくお願いいたします。
neil_2112 さんの回答を待ってました。前半部分につきましては同感です。中村禎里、中村生雄の著作は当方も読みました。 タイの仏教史についてはあまり詳しくないのでごく簡単に述べます。 輪廻転生・因果応報は釈迦以前から“常識”としてありましたので釈迦は否定しませんでしたが、特に肯定もしていません。方便として用いただけで釈迦の本心は否定的だったはずです。 また、日本は仏教伝来のころから世界一豊かな国だったというわけではありません。 >タイは信心深い仏教徒が多いものの、一般の人々は、それほど仏教教理の知識があるわけではない 信仰心と知識は往往にして相反します。「よくはわからないが信心深い(本来これを“迷信”という)」「知識として理解しているが信仰心は無い」のように。 >日本では、急速に仏事や日常の生活上で「行いをもって徳を積む」という功徳の観念が薄れているように感じます。 薄れる以前に、始めから馴染んでいません。 >南伝系の上座部仏教と大乗仏教との教理上の違いが大きいのか、単に国民性・国情の違いなのか、仏教受容の姿勢・立場の問題か・・・ 受容した環境でしょう。既存宗教であった神道に“教義”は無く(簡単にいえば)、現世利益を求める純粋な信仰心によって成り立ちます(これも簡単にいえば)。神仏混淆・習合を通して、密教・般若思想・法華思想・浄土思想 等の現世利益・現世肯定によって仏教が受容されていくのは納得のいくところではないでしょうか。 特に密教の神秘的な呪術や、神変加持力を得て因果律の束縛から逃れようとする、所謂功徳観“善因善果・悪因悪果”と離れた考え方と、他力本願である浄土思想の確立が影響していることが、タイの功徳観と差をつける大きな原因でしょう。 また、武帝と達磨の逸話(“無功徳”の話)がタイに一緒に伝わっていないことが影響しているかもしれません。日本では意識的に功徳を積もうとした時点で無功徳です。つまり「皆さん功徳を積みましょう」と教えるのは驕慢、高慢、傲慢の現われで(仏教的に言えば増上慢 等)、功徳を積むことが如何に難しいかを教えるのが本当の仏教のはずです。 さらにまた、功徳を積む尊さを説けるお坊さんがいません(当方も含めて)。 そしてさらに、寺請け制度による葬式仏教化よって功徳を積む重要性を“説く”必要性をなくしてしまったのも大きな原因です(貴殿のような業者さんにはこの意味がおわかりいただけるはずです)。 機会がありましたら日本の仏教史についてもう少し詳しく述べたいと思います。neil_2112 さんほど詳しくは無いと思いますが。 って、とこです! 貴殿の当質問サイトにおけるご活躍はよく存じております。貴殿の仏教に対する造詣の深さには感心いたしますが、もっと一般にもわかるように回答なさることを願う次第でございます。 ・・・いつかどこかでご一緒するかもしれませんネ。 それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
お礼
僧正様、ご回答・ご指導感謝いたします。合掌。 「陰徳」には思い至っておりませんでした。 単に、新興宗教や怪しげなお寺さんが強調するからとか、皆が懐疑的になるだけで逆効果だからなどと想像しておりましたが、もともとからなわけですね・・・ お寺さんは、もっと「功徳」とその「回向」をちゃんと説いたらいいのに、と想っていたのですが、ご指摘を受けて考え込みました。 僧正様はお見通しのように、自分なぞは所詮、学者さんの学究をフンドシにして相撲をとっているに過ぎないですので・・・わかりにくいのは咀嚼が足りないということでして、お恥ずかしい限りです。 質問する方には申し訳ないですが、回答することが咀嚼する作業になっているという面が強いです。自分のためにやっているという感じでしょうか。 ふとした疑問から、たいへんなことになってきた・・・と喜ぶやら戸惑うやらというのが正直なところです。投稿に厚く御礼申し上げます。 neil 2112様にも再度のお尋ねをしてしまったのですが、功徳観形成への「僧侶の関わり」 と「僧侶の聖性の在り処」に関して、もしよろしければ、ご見解をいただけますと幸いでございます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
追伸の参考程度に [大乗仏教、それも日本の仏教に極めて顕著な現世肯定的な考え方が、日本での因果応報・輪廻転生の失権(?)に手を貸していないか?とも思ったり、] 日本に伝来した仏典には、釈尊の時代は常識であった「輪廻転生」という直接的表現は少ないように思います。インドから中国にわたる間に「輪廻転生」は「空」という哲学的表現におきかえられ日本に伝来したと思われます。この「空」という表現はいろいろに解釈され、何にもないというのが現代の主流のようです。このあたりが仏教的に「輪廻転生」思想が消えてきた理由のように思います。 「タイにしても人々の姿からは現世の「一切皆苦」を感じているとは見えないけどな、と思ったり。いろいろと疑問は尽きないです。」 原始釈迦仏教では、「一切皆苦」というのは、もっと広い意味で、この世に生まれ肉体をもって生きること自体が苦なんだということだと思います。つまりこの世の自分が本来の自分じゃなく、旅先にいるような自分という考え方ですね。こういう本来的な「苦」の観点がのこっているのではないかと思います。だから日本の仏教のように個別の「苦」を強調する必要がないということかなと思います。
お礼
再度のご回答感謝いたします。 大乗のキモ、縁起=無自性=空。おっしゃるように、輪廻するもの(縁起するもの)は「空」である、ということで、置き換えられ、そして空は勝義の真理、縁起は世俗の姿というように、同じだけど悟・迷によって見え方が違うものとされた・・・ 他方、祖霊崇拝を持つ日本では、結局「無自性」というのが一般には根付きにくいのだろうなと感じています。通常、ある種の人格(?)を保持したままで転生するというイメージが強いように思いますし。 となると輪廻も空も根付きにくいし、因果応報も功徳も根付かない、ということになるのか・・・と考えがめぐってきました。 タイは、行って見てくることが最も良いのですけど・・・メディアでしか接することができないのが歯痒いところです。有用な情報を有り難うございました。
その国の文化や知識、国民性は本屋を見れば大体判るようです。 タイにおいては娯楽雑誌や漫画の類は手に入れやすいですが、学術書、自己啓発の本、専門書、哲学や思想、宗教の本は図書館にあっても翻訳されていなかったりなので、情報は口頭による人づてが主、つまりコネと知識がない貧しい部類の人には追求できる術がない。喜怒哀楽に明け暮れるだけの情報しか用意されていないのです。 概して親切な人が多く、電車やバスに乗っても席を譲ったりするのも堂々としてます。何なら「バス代も一緒に払っとくよ」「目的地まで案内するよ」という人まで現れます。下心の人も多いので過信は危険です!!が、本当に素直な気持ちでしてくれてる人も居ます。 経済は低税、高金利で金持ちに生まれれば一生金持ちで、貧乏に生まれてしまうと成り上がるのは日本より大変。だから現世で徳を積んでせめて来世に金持ちに生まれるように望んでいるようです。 親が生活のために子供を売ることが未だ黙認されていたり、情がないのではなく、ちょっと賢い子供が居れば、その子が安定した仕事を得られれば親族一同生活が楽になるので、そのために犠牲になる子がいても、基本的にタイの女性は慎ましいのですが、仏教徒のプライドを捨てて水商売をしても、ひとりの学費を納めて出世させようと一理の望みをかけて親族一同が協力して支えていることもあります。そしてタンブン(寺院に寄付)すれば罪も許されるという、カトリックの良い面(都合が?)も仏教に吸収しているかもしれません。 生死感はあっけらかん、神仏のパワーは信じていても、一般人が死んだも即転生して、幽霊になってる暇がないので全然死んだ人を怖がらないです。お墓や戒名もない。男子は一生に一度は出家するそうですが、出家期間も決まりがなく自分で決めれるし、3週間だけとかでもいいので、出家も在家もお気楽です。 確かにタイでは輪廻転生が信じられています。 「徳」の頂点は富の象徴、現国王ですが、バンコクの所要な土地は国王の土地でもあり、有名な寺院や王宮も拝観料を取り立てて王族の財源になっていたりちゃっかりしてます。 小学校すら満足に卒業しない人も多いなか、勉強できる環境が与えられることはお金持ちの象徴で高学歴な学生がアルバイトすることはプライドが邪魔してあまりないようです。日本人は社会勉強の一部という感じですよね。タイでは仕事より学歴が高いほど敬われるようですよ。 でも日本に留学する学生は徳があっても生活のためにアルバイトをしますね。タイより物価が高い現実で仕方のないこと。タイではケチって自分で何もかもしてしまうより、安い労働力を雇い、チップをあげたり、食事をおごってあげたりで自己満足的なプライドと徳を積んで、貧乏人より権力者が来世も有利に生まれ変われる構造があるから。 タイと日本の功徳観の違いについて タイは温情を掛けることで徳を積みます。日本は温情を掛けなくても誰でも学校へ行くことが出来、基本的に生活の保証をしてもらえ、貧乏であっても病気や事故であまり見捨てられることはない。 タイ社会はわざと行き止まりや道をガタガタにしておいて、つまり明らかな人災なのですが、そこへ危機一髪助けてやろうな徳で、世を憂いながら偉い人に媚いれば貧乏人も智恵のないものも現世で得だからですね。ずっと対等な関係になれませんけどね。 日本人は一見情が薄いとか不親切な人ばかりに見える。 けれど、誰かが偉そうに?助けなくても、誰でも行きたいところに行ける機会が設けられ、差別されかたは少ない国であると思います。その結果多種多様な人が多いのかというと、どうも日本人は没個性に映るのが不思議です。 日本にも人災は沢山あります。規制の多さです。 タイは規制が穏やかなので可能性が沢山ありますね。 日本人こそ徳にもならない規制に媚売るのやめればいいのに。
お礼
ご回答感謝いたします。 質問趣意をお含みいただき有用な情報を有り難うございます。 自分でタイに行って見てくれば一番良いのですが、状況的に当分ムリな感じなので、あれこれと考えたり想像したりしてしまいます。 仕事で時折お寺さん(←もちろん日本の)とお話しする機会があり、仏教史や大乗仏教系の書籍はいくらか目を通しているのですが、「仏教史」と言っても、大まかな概説書ではインド・中国・日本でおしまいなので、そういえばタイのこと知らないな、と思いまして。 そういえば、タイだったか、東南アジア圏の新聞の事件・事故の記事では死体写真が普通に掲載されていると聞いたな、と思い出しました。 タイはまだまだ貧困が解消されていないですが、もし発展して所得水準が上っても、信仰心はむしろ強くなるかもしれない、と思います。(あくまで想像ですが。)ただ、仮に日本並みになったら、はたしてどうだろう?とも思いますね。 また、インドでの大乗仏教興隆のきっかけとなった、上座部系仏教の出家主義や、在家信者の徳を積む手段・修行手段の少なさという点は、そのまま移行しているので、そういう点はどうなっていくのかとも思いました。 また、同種の質問を立てる機会があるかもしれませんので、良ければよろしくお願いいたします。
- tokytime
- ベストアンサー率37% (43/114)
No.2です。 申し訳ありませんが、訂正があります。 >タイの仏教は、釈迦直説の上座部仏教がなので、功徳を積むことの意味が現世利益的な南伝仏教とは自ずと違ってくるのでしょう。 という回答中の>現世利益的な南伝仏教 は勿論 「現世利益的な北伝仏教」 の間違いです。 中国に伝わった仏教は釈迦直説といわれている上座部仏教ではなく、アーガマ(阿含経)を保持していない大衆部仏教でした。 そして、その大衆部仏教(大乗仏教)がヒンズー教の神々と共に日本に伝わり、さらに神道の影響も受けて現在の形になったのでしょうね。 もともと日本の神とは、敬い、現世利益的祈願をするものなので、その形が自然に仏教にも反映されやすかったのだと思います。 だからこそ仏教と神道が両立できたのかもしれませんね。 そういう意味ではタイこそ純粋な仏教国といえるでしょう。 形は変化してきたにしても、釈迦の教えの最も大切な部分がいまだに息づいている国といえるのでしょう。
お礼
丁寧な回答・訂正有り難うございます。 やはり、因果応報・輪廻転生への確信の度合いというところがキモでしょうか。 要因は一つでないにしても、どれが一番強いのだろう・・・と思いましたもので。 ご見解のように、タイの場合、今後も基本的には信仰の形態が大きく変わっていくことはないのかな、と思います。 しかしこう、外来の思想・宗教がなぜにそこまで定着するのか?という疑問もまた浮かんできます。またあれこれと考えてみたいと思います。 いくつか挙げた要因のなかで、「お寺さんの活動・布教」を挙げなかったのは、一般の方の功徳観の形成にタイ・日本のお寺さん達が、どんなふうに・どの程度関わっているのかがわからなかったためで、それはそれで別の問題でもあるかな、と思ったからです。 ただ、確かに日本に関して言えば、お寺さんも因果応報・輪廻転生を説かなくなったというのは確かだと思いますね。 一方、タイにしてみても、出家者は戒律を守った生活をおくっていることは有名ですが、熱心に一般に向けて布教活動をしているようには見えないわけで、双方、出家者・お寺さんの要素というのは実質どれぐらいなのだろう?とまた考えてしまいました。 行って見てくることができれば一番よいのですが、当分海外旅行等はムリな状況なので、ご見解有り難いです。またいつか質問を立てるかもしれませんので、よろしければお願いいたします。
- tokytime
- ベストアンサー率37% (43/114)
>南伝系の上座部仏教と大乗仏教との教理上の違いが大きいのか、単に国民性・国情の違いなのか、仏教受容の姿勢・立場の問題か・・・どう考えるのがよいのかと思いまして。 ご指摘のとおり、全て関係しているのではないでしょうか。 日本の仏教は現世利益的で、何かをお願いすることがどうも多いようです。 良いことをしなさい・・そうすれば幸福になれる・・といった説法はあるようですが、はっきりと「輪廻転生」と「因果応報」を過去のたとえ話ではなく、現在の切実な最も大切な教え・・として説いている例は一般のお寺ではあまり聞いたことがありません。 日本でも一昔前には 袖すれ合うも他生の縁・・や 情けは人の為ならず・・といった言葉が生きていましたが、 現在はほとんど薄れてしまっているように感じます。 因果応報を少しでも実感出来て、この法則が輪廻転生の中で働くことを理解し、それこそがこの宇宙を支配する法則の片鱗であることが直感できれば、自然に功徳を積むことこそ最も幸福への近道だと思えると思います。 日本はアメリカに敗戦し、アメリカに憧れ、アメリカのように強く、豊かになろうと決意したときから本来の豊かな霊的な感覚を失ってしまい、物質至上主義になったのではないでしょうか。 物質的に成功することこそ勝者だ・・というような仏教的には間違った人生観が蔓延し、現代の社会的問題も起こっているように感じます。 (日本の仏教のお坊さんたちの中で、輪廻転生、因果応報を確信している人の割合は一体どれ位でしょうか?) 仏教とは本来修行(在家は在家なりの)によって自分自身の煩悩を遠ざけ、功徳を積むことによって悪い因縁を良いものに変えていく・・というように自分自身の力で自分を改善していくものだと思うのですが、 安易な祈願仏教にすりかわっていったのかもしれませんね。 タイの仏教は、釈迦直説の上座部仏教がなので、功徳を積むことの意味が現世利益的な南伝仏教とは自ずと違ってくるのでしょう。 功徳こそ実は自分にとって一番の宝だというシンプルな教えが生きているようです。 今後タイが物質中心主義にある程度シフトしても、世界の流れとして欧米にまで輪廻転生観や因果応報観が広まってきている現代では極端にシフトすることは無いように思えます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
質問の中に答えはすでにあるように思います。 「因果応報」「輪廻転生」を信じている人が多いか少ないかでその国のありようは決まるものですね。「輪廻転生」を信じていない人は、個人個人の倫理観でよいことをするか、現世利益のために、いわゆるGIVE-AND-TAKEでよいことをしているのですね。前向きに仏神に布施をして功徳を積むということではないですね。日本は、このカテを見ても判るように、まず「輪廻転生」を信じている人が少ないですね。「輪廻転生」にもとずく現世と来世を貫く「因果応報」として、来世や未来世に功徳を積むという考えはあまりありませんね。その意味ではタイのほうが進んでいますね、というか本来の正しい仏教の考えかたにのっとってますね。現状の科学万能教育では、「輪廻転生」のような証明できないものは捨て去られるということでしょうね。また、ダウインのいうように人間の先祖がサルなら仏神に布施をする必要もないしね。つまり教育を信じているんですね。だから教育によりタイとは違うとしかいいようがないですね。でもタイの人々の習慣や考え方のほうが仏教的には正しいことは間違いないですね。
お礼
ご回答有り難うございます。 確かに、ご指摘の「因果応報」「輪廻転生」を信じるか否かは、極めて大きな要因だと感じます。日本でもかつて絵解きなどで六道の輪廻等を説いていて、因果応報・輪廻転生を強調していたわけですから、その点は上座部と大乗仏教の違いはないのかもしれません・・・ 質問を立てた動機は、「タイの仏教は将来的にも(国が発展しても)現状のままといった感じで続くか、変わっていくのか?」と疑問に感じたことでした。これは、タイが今以上に発展してみないとわからないですし、発展するかもわからない(タイの人に悪いけど)ので、質問にならないわけですが。 ご回答いただいて、改めて想像してみたのですが、タイの場合、発展しても現在の信仰形態はある程度残るのではないかという気がしまして・・・(あくまで想像ですが) かなりあっさりと因果応報・輪廻転生が信仰心を形成する強固な柱ではなくなってしまった日本とは、何が違うのだろう?要因は他にもないのか?それともタイも将来的には日本と同じようになるのか?とさらに考えてしまいました。 大乗仏教、それも日本の仏教に極めて顕著な現世肯定的な考え方が、日本での因果応報・輪廻転生の失権(?)に手を貸していないか?とも思ったり、タイにしても人々の姿からは現世の「一切皆苦」を感じているとは見えないけどな、と思ったり。いろいろと疑問は尽きないです。 またいつか、あれこれ考えつつ質問を立てるかもしれませんので、よければご見解をよろしくお願いいたします。
お礼
ご回答、誠に有り難うございます。 ご回答は望外の喜びで、感謝に耐えません。初学にも至らぬ者のふと感じた事柄に懇切なご説明をいただき、恐縮しております・・・(正直びっくりしました。) 葬祭関連の業界で働いているので、日本の追善のための供養と滅罪としての積徳という観点は大いに思い当たりました。 動物供養のお話しですが、手を合わせて感謝して食べ物をおいしくいただく、という通常「良い・正しい」とされている食事の姿と重なりました。そこにはたいていの場合、罪の意識も自省も善行への誓いもないわけで、手を合わせて「いただきます」と言えば、それが免罪であるかのように罪悪感を抱かないで済む。普段からなんとなくイヤな違和感を感じていたものですから。なるほど確かに都合の良い消費の味方だなと感じました。 どうしようか迷ったのですが、ご指摘の中に、聖・俗、サンガを挙げていただいたこともあり、失礼を顧みず、この機縁に甘えようかと思いまして・・・ 他のご回答の方のお礼にも記したのですが、質問文に挙げている自分が考えたいくつかの要因の中に「僧侶の関わり」を挙げていません。自分にはタイ・日本の功徳観の形成に僧侶側は、どういうふうに、どの程度関わっているのかがわからなかったからです。本来ご回答を読み込んで自分で考えるべき事柄ですが、お願いできますでしょうか。 単に出家者だから、戒律を守った生活をしているから、タイの僧侶の聖性は高いのか、他の要因があるのか・・・ 日本では、浄化能力を持つエトランゼとしての聖性なのか、一般にはある種の呪と化した「経典」を読誦する人としての、より経典に依拠した形での聖性なのか、○○仏信仰といった仏と一般との仲介者としての聖性か・・・ 両国の僧侶・僧団の「聖性の在り処」はどこだと考えればよいのか、また僧侶の聖性は、一般の功徳観の形成に、どう関わっているのか、という点について、お時間あればお願いしたいのです。無理言いましてすみません。