• 締切済み

憲法を哲学してみましょう。

憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は 国民の不断の努力によって これを保持しなければならない。又 国民はこれを濫用してはならないのであって 常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。 ●↑の「公共の福祉のために」が 個人の自由と権利を侵食しはじめる危惧を 感じているのは わたしだけでしょうか? ■有事法案■個人情報保護法案を考察して感じることは そこにあたたかな ひとのこころが在るや無しやということなのです。 一番守られなければならないのは「個人の守りの自由と権利」 その次が「公共の福祉」 その次が「攻めの個人の自由と権利」ではないでしょうか? みなさんの考察 ご意見 雑感など 教えてください。

みんなの回答

  • sinjiro
  • ベストアンサー率17% (16/89)
回答No.9

なんか お詳しそうなので教えてください。 憲法って 「国」(強い)から「人」(弱い)を守るために作ったんだと思います。「国」が無きゃ「人」を『国から守る必要』が無いんだと思います。 私の考える「国」って言うものの一部が もしかしたら「公共の福祉」って概念になるもかもしれません。(ボヤッとしてて 自分でもわからないです。) で 教えて戴きたいのは「国」って なんなんだろうってことです。 (特に 「公共」って概念が 含まれるのでしょうか??) ==================== なんか 逆に質問になってしまい 申し訳ないです。 難しくって わからないっす。

chihoko
質問者

お礼

●たとえば 運動会で青組・赤組・黄組に分かれたとしましょう。  理由はわからなくても 自分の組を応援しますよね。  国とはそのようなものでしょう。青組のようなものです。  だいたい2000年くらいまえ日本では弥生時代 ヨーロッパでは  メソポタミア文明の6000年くらいまえですね。  だいたいそのくらいの昔から 国みたいなものができては 滅ぼされ  繰り返してきているわけです。青組が勝ったり 黄組が勝ったりですよね。  国とはそのような ワクを指す言葉です。さて いまの日本は成文法国家です。  その成文の基本が憲法で その憲法のなかで公共の福祉が謳われているわけです。  つまり公共の福祉を国の一部と認識するよりも 国は国として  公共の福祉は公共の福祉として認識するべきでしょう。  公共の福祉とは 全体としての有益性・幸福を指すと思います。  国と言うと わたしは 即座に不完全なものであるという印象を持ちます。  なぜなら憲法は 憲法草案時における 草案にかかわった人々の幻想である  可能性を多分に含んでいるであろうと 推測するからです。  憲法は日々 生活者の意識を反映して正しく進化できるべきだと感じています。  そのためのシステムは 現在は存在しませんが 近い将来サイバースペースに  誕生するであろうと 推測しております。その正しさ故 国家は崩壊するであろうと  感じてもいます。諫早湾干拓事業の不幸は ひとえに憲法のあやふやな表記が  産んでしまった公共の福祉の「悪」の最たる例ではないでしょうか?  国家という幻想はたかだか6000年の歴史しかないのです。  さあ!つぎのシステムを構築しようじゃ ありませんか。  より校正で ほんとうに弱者にもやさしいシステムを・・・。  ご回答ありがとうございました。

noname#15238
noname#15238
回答No.8

chihokoさん、今日は,ふらっと遊びにきたら良い本を見つけて大変ハッピーです。chihokoさんも元気そうで! この質問は、公共の福祉と個人の自由と権利の対立関係ですよね、一般論としては答えにくいですが、下世話な話をすれば、「塵置き場は必要だが家の前はダメ」じゃ何処にしよう?といった難問ですね。結局、弱いか、人のいい家の近くになるのでしょうね。 経済の面から考えると、景気が後退すれば,公共事業が必要になり「公共の福祉」が幅を利かせてくる可能性は有りますから、個人の自由と権利が侵食されていると感じるのかもしれませんね。 私!私は鈍感で楽天的なので。 攻めと守りの個人の自由と権利ですが、面白い考え方ですが、攻めと守りを明確に区別できるかどうか、攻めと守りの線引きを「だれ」が判断するのか、「だれ」が国なら今とかわらないような気もしますが。 雑な回答で失礼しました。

chihoko
質問者

お礼

●守りとは すでにあるものを指します。  攻めとは 新たに到達しようとするものを指します。  公共の福祉とは 安全 公共財の建設 公共サービスを指します。  攻めと守りの区別は 立法府{国会)で要綱を定めます。  要綱で判断できない事例は 裁判となります。  ごみ置き場の例は とてもいい例だと思いました。  この件に関しては ごみ置き場を無くするのが いいかと思います。  すべて各個で処理するのです。回収はセンサーを持ったロボットが各家庭を  徒歩で尋ねて行い 収集車に運びます。その実現までの間 ゴミ置き場の  周辺の方々には迷惑料が支払われるのです。  ゴミの分別はゴミ処理場でロボットが行います。  またなにかございましたら ご意見お願いいたします。  ご回答ありがとうございました。  

chihoko
質問者

補足

住環境や自然環境は「守りの自由と権利」だとおもいます。 したがって ごみ置き場を建設設置する場合 住環境が優先されるのです。 住環境を守るために ロボットの案が出され それまでの間 住環境が優先されるけれどもそれが叶わないという理由で 迷惑料という形で折り合いをはかるのです。 迷惑料との兼ね合いで ゴミ置き場を誘致したいひとが出たら それも考慮の材料となると思います。 とにかく 公共の福祉を 大前提に考える今の憲法解釈の主流は こころの貧しさとして わたしには映るのです・・・。

noname#5336
noname#5336
回答No.7

お礼見て、失望しました。 ほう、公務員の命は一般人の命よりも軽いと? そうして、公務員はぐーたらしてると? 根拠を示す必要はない? このような議論をする際には、私に対して具体的なデータを出して反論するのが正しい科学(哲学)の方法です。 あまりの軽薄さに呆れを通り越して、何を言ったらいいのかわかりません。 ならばあなたが独裁者になるのが、一番公共の福祉を実現するに近道です。 そうしてスターリンの如く、自分にとっての理想郷を作ることです。 長谷部先生もそう言ってますよ。出典記さないけど。 経済学的にも証明されています。 私に >とりあえず あなたが知るべきです。 などと言われても困りますね。何を知ればよいのでしょうか? 具体性のないものを知れと言われても、困りますね。 あなたの「公共の福祉」を書くべきでしょう。 残念ながら、ここにそのことは記されていません。 このやりとりで、いちばん「あたたかなこころ」がないのは、あなたなのでは? p.s.一方的な意見の押し付けは、質問ごと削除されますよ。

chihoko
質問者

お礼

●考えることを 怠らないならば いずれわたしの言うことが理解できるでしょう。  ご回答ありがとうございました。

noname#5336
noname#5336
回答No.6

この手の考察がうまいのは、長谷部恭男・東京大学教授だと思います。 『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会)に、哲学的な議論が紹介されています。ベンサム的な「功利主義」の限界、「比較不能なもの」など、法哲学的な考察がちりばめられています。 「国家のために死ぬことの意味と無意味」なんて、うまいなと思いましたが。 より一般的な啓蒙書として、『憲法学のフロンティア』(岩波書店)というのもあります。どちらも高価ですので、お買い求めになることはお勧めしません。図書館でお読みになるとよろしいかと思います。 ただ、これも一般人には読みにくいでしょうか? 関連するものとして、「憲法改正の限界」、「自由はどこまで可能か」などといったことがあります。 長谷部教授や、森村進教授の『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)などをお読みになるとよろしいかと思います。 法哲学的に論じられるといいんですけどね。。。 なお、長谷部教授のテキストとして『憲法 第2版』(新世社)があります。 従来のテキストに飽き足らない人、経済学を知っている人など、面白い人には面白いので、あわせてご一読をお勧めします。 ア・プリオリな日本国憲法概念から一歩離れて、政治哲学的に「そもそも憲法とは何か」という点から議論を始める、これが次世代の憲法学界の議論の方法のようです。 個人的回答を付け加えると……、 今の若者の無気力状態を見ると、このような法案が通っても、さらに徴兵制が敷かれても、何らおかしいことはなく、ましてや暴動は一部にしか起こり得ない、ということが予想できます。 プライバシーにも鈍感ですしね。 公共性が失われている、ということですね。 もっとも、公共性を論じたアレントを引用する人が多い(小林よしのりなど)のですが、彼らがかなり誤読を繰り返している、という噂もありますが。 若干、考えるヒントをお示ししました。 なお、kinoさんのお礼で、誤解がありますので、付け加えておきます。 >公共の福祉に立つ者は 国民ではなく 司法でもなく 立法でもなく >それは「行政」なわけです。 公共の福祉を担うのは、行政のみならず、司法・立法を含むのは言わずもがなで、中学生でも理解できる理屈です。 ましてや、国民にもそれを担う権利と義務があるのは、憲法を見ればわかるはずです。例えば請願権、納税の義務など。 松下圭一のように、独自の行政理論を組み立てるものもいますが(参考『市民自治の憲法理論』岩波新書)、通説は「国家権力=司法+立法+行政」と見るものです。 >行政にたずさわるおおくの者たちの 動機とは >公務員だから待遇が安定している 給料がいい 気楽 など >公共の福祉とは無縁なところにあるのが現実です。 根拠をお示しいただきたいと思います。 霞ヶ関では、毎晩夜遅くまで、キャリアもノンキャリもサービス残業を繰り返しています。大臣官房で使われる人件費の総枠が決まっているためで、彼らは怠けることなく、熱心に働いています。 天下りや不祥事は、悪の部分を誇張したに過ぎません。 例えば官僚に痛烈な批判を加える猪瀬直樹も、そのことは承知しています(『猪瀬直樹著作集1 新編日本国の研究』小学館参照)。 夜遅くまで働く公務員の動機は、そこなのですか? 付け加えるならば、国家公務員の自殺は毎年100件以上に上るのが現実で(川人博『過労自殺』岩波新書)、そういった現実から目をそらすことこそ、人権の無視といえるのではないでしょうか。 かつて公務員を志望し、官庁訪問を繰り返したので、この点は同意しかねます。 「サービス残業が多く、休日は寝だめになりますよ」、何度も本省勤務の職員に言われたことです。 このような誤解を解かない限り、有能な官僚は報われません。 なお、公務員の人権(労働三権)が制限されていることもお忘れなく。

chihoko
質問者

お礼

●公共の福祉に立つ者と 公共の福祉にかかわる者を 混同されています。  公共の福祉に立つ者とは 公共の福祉の名を借りて 実際にその力を行使する  者を指します。その力を正しい方向に修正させるために一国民がかかわる  ことも可能ですが とほうもない時間と労力を必要とするのが現実です。  語彙をそのように捉えてください。  公務員の自殺と一般自由社会に於ける自殺と その確立はどちらが高いでしょうか?  わたしは 知りませんが 一般社会のほうにきまってますよね。  そこに着眼しなければ この問題の本質には 目が開きません。  どんな社会にも 出世の欲求や 親和の欲求 自我の欲求 自己実現の欲求  その欲求により 自滅する人間は いるものです。  大切なのは 黒澤明の映画「生きる」の課長のような公務員の必要性で  机の前で 残業して紙をひらひらさせているような 人間ではなく  実際の生活者の方々のところに 足しげく通い 額に汗した上での  デスクワークであろうと わたしは 確信しております。  いろいろ参考文献をあげていただき たくさんの方々の参考には  なったと思いますが。あなたの公務員の考察を考察するにつけ  その文献を通過したあなたのご意見が これほどのものでは  その文献を 読んで見ようとする気は わたしには起きません。  公務員のお気楽感は 根拠を示すものではなく 感じるものです。  原因があり結果が伴う 公共の福祉の社会に及ぼす「害」はいたるところに  散在しているでしょう。その原因の多くは  憲法の解釈の違いと公務員のお気楽感にあると わたしは感じるのです。  わたしたちは もっと賢く合理的に「幸せ」になれるはずです。  その近道を通せんぼしているのは 行政にたずさわる公務員の怠慢によるところが  大きいと もししなければ 解決の道がみえてきません。  公共の福祉とはかくも深く悲しく痛々しいものであり 多くの公務員が  一口で公言できるほど簡単な世界ではないと知るべきです。  とりあえず あなたが知るべきです。  ご回答ありがとうございました。

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.5

「自由」「権利」などの概念は西欧より伝来したものです。 日本には、古来より「和」の精神があります。

参考URL:
http://www.oec-net.or.jp/~iwata/bb02.htm
chihoko
質問者

お礼

●参考URLの文章を 読ませていただきました。  「和」の精神が 日本にいつごろから定着したのか わかりませんが  聖徳太子のころには すでに あったわけですよね。  「和」の精神の良し悪しについては 語りませんが。  自然界には ごくあたりまえに自由と権利が存在します。  その自由と権利は 互いの領分を侵さないという「恐れ」の感覚により  バランスがもたらされているように わたしは考察します。  この「自然界に存在する自由と権利」を通して「人の道」を  探る作業こそ「憲法」という文言にする作業だと感じております。  ご回答ありがとうございました。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.4

この設問に接して、つい思い浮かべてしまうのは 「最大多数の最大幸福」です 究極の合意を言い当てているような気がしてしまうのです

chihoko
質問者

お礼

●理想ですよね 具体的にどうのように その理想に近づくのか  その道しるべの手がかりとして 憲法が記されたと 考えます。  「独りは多くのために 多くは独りのために・・・。」  ご回答ありがとうございました。

回答No.3

アドバイス,というのはおこがましいのですが,回答にはならないので,ご容赦願います. 「公共の福祉のために」 これと同じ意味合いで使われ,且つ同種の不穏さを抱かせる文言に,「報道の自由」或いは,「教育を受ける権利」などがあるかと思います. マスコミの持つ影響力と責任回避の特権は一般的に認識されるところで,教育については,その聖職というベールの裏で,例えば酒井女子短大の留学生問題や,最近騒がれ出した「本命の合格発表の前に入学金払わなければ合格取り消し」という,学歴神話を盾に取った悪徳商法などがあるかと思います. …僕個人は,現実的な解として「経済システムの維持」という観点を最重要視しています.もの凄くイヤな喩えですが,憶測に基づいた過剰な報道で,罪なき人が自ら命を絶つような事態が,事実幾つも発生しています.それでもマスコミの体質が改まらない,改めずに済んでしまう理由は,それら報道の生み出す「何か」が,人命よりも全体利益に繋がるから.そう考える権威が,この社会を動かしているから. 勿論,経済システムなど維持しなくてもよい,という考えにも同等の価値があるとは思うのですが,あくまで「現状の理解」に拘ると,この視点から得られる教訓は馬鹿にできないと,僕は考えています. 余談ですが,「イチロー選手と中田選手,どちらの方が上?」という問いに対しても,二人の経済効果を算出することで,何の夢もないけどあながち的はずれでもない解答が提示できると思います. また,「憲法」という着眼点について僕が思うのは,言葉には,それに権威を与える生身の人間が不可欠ではないか,というものです.憲法の解釈については第九条がとびきり有名ですが,それが文言として成立する過程には,無論莫大な労力が注ぎ込まれ,度重なる推敲が行われた筈です. そんな大層なものに対して今更,「解釈が人それぞれで変わっちゃう~」などということがあっていいのでしょうか?そんな大切なものなら,作る時だけじゃなくて維持管理もしっかりしてよ.世相が変わり,事あるたびにその文言に対する国家としての捉え方を明確にし続ければ,別にご託宣でもあるまいし,いざというとき統一見解がとれない,などという恥ずかしい事態にはならないと思うのですが…. 実際憲法のないイギリスでは,すべては判例から解釈されているし. chihokoさんと,問いを完全には共有できていないのですが(勿論,そんなものはそもそも「共有している!」という互いの間に湧き起こる幻想でしかありませんが…),興味を惹かれてしまったので余計なことを言ってしまいました.一応,思い付く限り世俗的な視点と,こちらも可能な限りの理想論をブレンドしてみました. 興味を惹かれたところが,僕のchihokoさんに対する共感です.もしこの文章の何処かしらに引っ掛かるものを感じてくれたなら,それがきっと僕の受け取れた共感なのでしょう. 九拝

chihoko
質問者

お礼

●「経済システムの維持」とは いいところに着眼されていると 思いました。  社会が抱える多くの問題に「経済」に内包されている 人間の弱点と  経済の本質の抱える弱点を 見えるような気がしています。  報道の自由と権利とは 報道される側の「自由と権利を侵さない」上に  成り立つのだ ということに気づいていないのか? 気づいていても実行  できないのか? いずれそのこともおおきな課題ですね。  憲法はそれまでの先人の 汗と涙と知恵の結晶であるわけで  それでも 真理には至っているわけもなく 後を継ぐわたしたちに  よって よりよき文言に変える義務もあるはずです。  憲法があいまいなのは いたしかたないことだと 思います。  九条は 涙なくして読めない すばらしい文言だと 思います。  ご回答ありがとうございました。

  • kino
  • ベストアンサー率10% (26/250)
回答No.2

いいえ、あなただけではないですよ。 何でも公共の福祉で解決しようとするのを、俗に「公共の福祉、撫で斬り論」と言われます。

chihoko
質問者

お礼

●できれば「公共の福祉、撫で斬り論」を展開しているURL等  ご紹介いただければ このスレッドをご覧になる方々も参考になるかと  思います。  公共の福祉に立つ者は 国民ではなく 司法でもなく 立法でもなく  それは「行政」なわけです。  行政にたずさわるおおくの者たちの 動機とは  公務員だから待遇が安定している 給料がいい 気楽 など  公共の福祉とは無縁なところにあるのが現実です。  たとえば 公務員が ボランティアで構成されるのなら  すこしは 公共の福祉に寄与できる環境がととのうのかもしれません。  動機が不純であれば 企業との癒着や不正が起こるのは しごく当然の構図  であると思うのです。kinoさんご自身は この設問については  どのようにお考えですか? ぜひ伺いたいものです。  ご回答ありがとうございました。

  • acacia7
  • ベストアンサー率26% (381/1447)
回答No.1

個人の自由は公共の福祉という大きなパイを分配したものだと思います。 個人の自由と称して公共の福祉を狭めることになればそれこそが、 個人の自由を狭めることになります。 共産主義なわけではありませんが、現状日本は個人の自由を過剰に主張しすぎている気がします。 とりあえず、いまはこれだけ。

chihoko
質問者

お礼

●acacia7さんの論理は たいへん良くわかるのですが  わたしが常々危惧するのは 例えば 空港を建設するにあたり  個人の権利を侵害する場合 立地させるところが そこでなければならない  必然性をどれほど深く考察されているか?という点なのです。  つまり公共の福祉を狭めるのではなく 公共の福祉の名のもとに  個人の自由と権利が「安易に」狭められてはいないか?ということです。  ※すべての規範は 正に 権利と利権の合わない部分をどのように  折り合わせるかといったひとつの指標として考えられるわけで。  その意味で 最近の法案には「安易」という感じがぬぐえないと思うのです。  一次産業二次産業をロボットが担う時代になりました。  人間は個人の幸せ・自由と権利の より高度な実現に向けて  おおくの時間と費用と人間を投入するべき時代に突入しているのでは  ないでしょうか?  ご回答ありがとうございました。

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