• ベストアンサー

ほにゃらか形而左右学 矛盾

schneewittchen7の回答

回答No.16

優しく御礼くださって有難うございます。 >貨幣の謎に迫るfishbowl66が全力で解明に挑戦する貨幣の哲学 っていう部分で渋~い男性の声が聞こえてくるようで思わず「まあ!金魚鉢さんカッコイイわねえ!!」と笑ってしまいました。刑事番組のオープニングみたい。 さて >悪しきギリシヤ的二元法「自然」と「人為」に分けて 何故「悪しき」と結論されていながら敢えて分けなければならないんか、という疑問を感じつつも それは「自然」自身が自分で「わたしゃ矛盾しておりますです」などと申し述べはしないでしょう。 ヒトなら「アンタそれ矛盾しとるで!」と言われて「そうでした、御指摘ありがとう」と慌てふためきもするでしょうが(笑) たとえば「昼と夜」にしたって局所的には昼と夜が「同時に訪れる」ことは通常ありません。でも地球規模で見れば、ここは昼で、あそこは夜、と同時に訪れている。要するに切り口の問題でしょうか。 自然のシステムのなかでは或る現象に対して真っ直ぐに突き当たって行く真逆の現象が用意されている。 始末の悪いことに人間が「指定する」或る現象に対して本質的に釣り合う現象が用意されているとは限らない。 たとえば、これは或る質疑応答で見かけたのですが 「身体に障害を負っている者が、いわゆる健常者を顎で使うという情況に対して表面とは裏腹に障害者は内心で深い劣等感を抱え持っているのだから、それはバランスがとれている状態だ」 などという見解を示した人がいました。これって「本質的に」「バランスがとれている」のでしょうか? >矛盾の起きる責任を自然に被けちゃいけない ヒトである自分自身を「自然」そのものとして扱えと要求するのであれば、どなたかの仰るところによって 頼ろうとしたり干渉しようとしてはいけないし(たとえば第三者に向かって「そのお礼の仕方はケシカラン、などと干渉するとかね)所有しようとしてもいけないし相手にだけ責任を取らせようとするのも、おかしな話。全き無為でなければなりませんでしょう。 ところが我々、親に勝手に名前を付けられただけでは飽き足らず、あまつさえ、おのれ自ら「ハンドルネームまで付けて名乗る」始末。理解や協力を得られないと怒り心頭にもなりますしね。 それとも「自分以外のヒトは自然でない」と言いたいのでしょうかねえ。 >発した言葉と、受け手の理解した言葉、後者まで責任は取れるのだろうか 困難ですね。ですから最初期の段階で用心しなくてはなりません。どんなに用心したつもりでも自分では良かれと思っていたとしても、それでも人は失敗する。だからこそ最低限の誠意をもって発するべきでしょう。それが伝われば、それほど目くじら立てることもあるまいと思います。ジョークならジョークであると分かってもらう努力をするものでしょう。文字だけで「ばーか」と言って相手が好意的に受け止めてくれるには、それなりの下地が必要です。 まして出発点から「自慢する権利」だの「発言と心のなかを区別するのが有意義な人生」などという意見に至っては。。。何をかいわんや。それはまあ実生活上は本音を抑えねばならないことも多々あります。特に他者を傷つける恐れがあるときなど。しかし哲学の質疑をしているところでまで処世術の極意を力説されても~。 (私としては自分の周囲が複雑怪奇極まりないので自分の心と頭のなかと、ここでの発言くらいはスッキリさせていたいものだと思います。それとも、やっぱりここでも疑問の解決なんかより御近所仲良く茶飲み話を優先させなければならない?) 単にパフォーマンスが目的ならば「あー♪」とか「うー☆」とか言ってりゃいいでしょう。そしたらこちらも「おー!」で済ませられますものを。。。 先日、私が今現在継続中の質問のなかで或る御回答者様に御指摘いただいたのがコトバの「ネガとポジ」です。 たとえば挙げられました「矛盾」これを、この質疑ではネガティブに捉えられているようですが「矛盾」とは詰まり「差異」であり「区別」です。 それが真実有り得ぬものであるならば何故、我々は、このコトバを生じさせるに至ったのでしょうか。 「悪」なるものすら必要であり「矛盾」が「悪」だとするならば、それも受容すべきでしょう。 しかし「区別」こそは、あらゆる学問、人間文化の源でもある。 それを有り得ぬこととする人は、およそ学問の世界から離れなければなりません。 哲学の起源たる驚異こそは「差異」から生まれるものだからです。 自然界のなかには本来「矛盾」と名づけられるものがないにせよ、いずれ「人為の矛盾」の最たるものは「口で言うことと実際の行動が違う」ことでしょうね。(類語には「二枚舌」とも出てました)

fishbowl66
質問者

お礼

>そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。 今回の質問の鍵は実はこの辺にあって、自然に矛盾がないと仮定できる場合、どこかに、矛盾の発生する要素、点ではなくて傾向としての、矛盾を起す可能性が発生する、構造のようなものを、自然と人為に区別して、人為の中で、詳細な考察を狙っていたのですが、 諸般の事情により、一旦、中断。 質問が編集されたからと言って、直ぐ締め切る必要もないのですが、編集された質問を「わたし」の質問として、受け付けるのが無神経な気がしました。 仰る通り、ハンドルネームに対する、悪しき思い込みなんでしょうが、そんな了見の狭い、男性です。決して「まあ!金魚鉢さんカッコイイわねえ!!」なんて、誤解しないでね。 矛盾そのものについても、 >「矛盾」とは詰まり「差異」であり「区別」です。 此処も微妙ですが、締め切っていますから何も言えません。 「和して同ぜず」これですね。 有難うございました。

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