• 締切済み

南部藩の戊辰戦争

今、奥羽越列藩同盟で会津藩以外の動きに興味があり、調べています。 そこで、今南部藩の動きを調べているのですが、楢山佐渡以外の人物について、まだいまいち把握できていません。そんな中、江幡五郎(五蔵?)という人物について気になりました。  彼が吉田松陰脱藩の契機を作ったのは分かったのですが、彼がその後いかにして南部藩に返り咲き、戊辰戦争を乗り越え、明治維新を生き抜いたのかを知りたいのです。ご存知の方、教えてください。  また、南部藩の戊辰戦争に関して、小説や読み物などこんな本があるよという情報も教えてください。よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数3

みんなの回答

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.2

No.1です。 図書館で「図説 岩手県の歴史」河出書房新社  を見ましたら、参考になるようです。 岩手県史(誌)なんかが一番参考になるでしょう。

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.1

森岡藩(南部藩の正式名)の戊辰戦争について、詳述した本に当たったことはありませんが、最近出た シリーズ藩物語「森岡藩」 佐藤竜一著 現代書館  に多少記述があります。  次の 「奥羽越列藩同盟」 中公新書  も参考になるでしょう。

関連するQ&A

  • 戊辰戦争

    今度、会津に行くので戊辰戦争について学んでいます。 鳥羽伏見の戦いで幕府が勝てた可能性はあったのでしょうか? 長岡藩(会津より石高が半分以下?)がなぜあんなに抵抗できたのでしょう。河合なんとかという人のおかげですか? 会津の武器は旧式だったのですか? 庄内藩は勝っていたということを聞いたことがありますが本当ですか? たくさん質問があってすいません…

  • 「戊辰戦争」を解説した書物がほしい。

    「戊辰戦争」をできるだけ歴史に忠実に解説した書物を紹介してください。薩長や会津藩に偏らないのがいいです。

  • 薩長が会津藩に送りつけた条件等は何ですか!?

    1・薩長を中心とする新政府軍は、会津藩に対し、具体的にどんな条件を送りつけたのですか?周辺の藩が同情するほど過酷なもので戊辰・会津戦争にまで至ったのですか? 2.幕府もオランダやフランスと貿易があった様ですが、西洋の武器は手に入れることは無かったのですか?蒸気の軍艦は保有していたようですが・・ 3・会津・米沢・仙台藩等、降伏した藩は戊辰戦争後、どうゆう扱いをうけましたか?バルトの楽園の映画のように仕官に成る人もいるようですが・・・

  • 明治維新や戊辰戦争のときの町人って

    勤皇や佐幕とか明治維新や戊辰戦争というのは武士が行ったものですが。 歴史で習うこと、テレビでとりあげられることは武士や士族のことばかりです。 そのときの町人はどうしていたのですか。 戊辰戦争に参加したのは武士だけですか。町人も参加したのですか。勤皇方は長州は奇兵隊に町人もいたそうですが、他の藩から参加したのは武士だけでしょうか。 また、維新後、新政府に登用されたのは薩長ほか勤皇藩の士族だけですか、町人も登用されたのですか。 佐幕方も会津、白河、長岡とかで戦場になったのですが、戦ったのは武士だけですか、町民は農村避難していたのですか。それとも攻めてきた官軍は規律よく町人には略奪とかしなかったのですか。 また、維新後の佐幕藩出身者は士族も町人も冷遇されたですか。 会津の町人も長州を憎んでたんでしょうか。

  • 『秋田藩』と『久保田藩』どっち?

    はじめまして、よろしくお願いします。 今、大学の卒業論文で戊辰戦争について研究しているんですが… ずっと気になっていることがあって質問してみました。 今の秋田県にあった藩がありますよね。 その名称は『秋田藩』でしょうか。 それとも『久保田藩』でしょうか。 どちらも同じ藩をさしていると思うのですが さすがに研究論文では正式な名前を使いたいと思って いろいろ調べてはいるんですけど…よくわかりません。 たとえば、同じ東北の藩で今の岩手県にあった藩は 『南部藩』とも呼ばれていますが 自分は『盛岡藩』と論文の中で使用しています。 それは、あくまでも南部っていうのがそこの藩主の苗字でしかないとか 記録として『盛岡藩』という名前を使うようになったっていう記録が 残っているからなんですが…『秋田藩』『久保田藩』については そういった記録がどうしても見つけられないんです。 なので、どなたか戊辰戦争のころの歴史にお詳しい方 理論付けられたご回答をいただければうれしいなと思います。 どうぞよろしくお願いします。

  • 幕末・薩摩藩の小説や資料など教えてください

    こんばんは。 わたしはずっと新選組や会津藩が好きで、薩長が嫌いでしたが、最近西南戦争のことを知って、過去、薩摩を嫌っていた自分が信じられない位に薩摩藩のことが好きになりました。 そこで、戊辰戦争の頃の薩摩藩側の小説を読んでみたいと思うのですが、薩摩藩全体のことが書かれている作品ってあるのでしょうか。 特定の人物が主役になっている作品(西郷隆盛や大久保利通など)の物でも、いろんな薩摩藩士が登場して活躍する物ならぜひ読んでみたいです。 戊辰の薩摩のことが書かれていれば資料集の類といったものでもかまいません。知っておられる方、ぜひお教えください。

  • 戊辰戦争と会津について

    お世話になります。 私は福島出身ですが、小さい頃から父や祖母に、 「戊辰戦争」について聞かされていました。 会津では新幕府軍に攻め入られて、かなり酷い目にあった、と。その後も、あまりいい扱いは受けず、強姦、強盗、など理不尽な目にあったのだ、と。 それを聞いて幼い私は恐くなり、会津の地にあえて足を運ばなかった節があります。 そして、あまり歴史にも触れませんでしたが、最近、本当のところはどうなのだろう?と興味が湧いてきました。 <質問> ・会津は和平を訴えた(と聞きましたが)のに、なぜ新政府は攻めてきたのでしょうか?本当に理不尽な戦いだったのでしょうか? ・新撰組との関係について 新撰組も会津藩について闘ったと聞きますが、土方は結局、怪我のため会津では戦ってはいないのですよね?(曖昧です) 函館で亡くなり、遺体は見つかっていないと聞きますが、本当でしょうか? ・近藤勇の墓について 会津にありますが、これは本物??板橋は京都にも近藤の墓があった気がしますが、本当の首塚の場所はやはり謎? ごめんなさい・・歴史的背景も少ししかわからず質問しております。上記について、お答えいただけたら幸いです。

  • 会津藩について

    会津藩ってよく悲劇だの、義、会津魂や徳川家に最後まで忠誠だっただと会津藩って美化されすぎていませんか? 戊辰戦争での会津戦争って初めは 「会津藩は恭順していたけど、新政府軍から無理やり攻められたから仕方なく戦った」というのを聞いたのでそれを調べもせずに信じてたのですが、いろいろ調べると実際は会津藩側にも問題が ありますよね。朝命に従い軽装して京へ行こうとする慶喜に対して興奮する会津藩、桑名藩、旧幕府軍が薩摩を成敗することを慶喜に求めて、抑えられなくなった慶喜が攻撃を許可して会津藩、桑名藩、旧幕府軍は武装して京へ進軍。新政府軍の薩摩に説得されて薩摩に寝返る藩もいたために、旧幕府側は敗北。 旧幕府に味方した藩や慶喜は朝敵に。ただしすぐに恭順すれば、寛大な処置で済むように告げると桑名藩や旧幕府に味方した藩は恭順、大阪城にいた慶喜も完全恭順を決めて、開戦責任について謝罪、家名を残して欲しい、会津藩や桑名藩含めた家臣を許して欲しいと謝罪。しかし、会津藩だけは自分たちは無罪だと主張。容保は当時、慶喜と一緒に大阪城に逃げていたとはいえ、会津藩の藩主として責任を問われて出頭命令を新政府軍が出すも それに応じず。新政府軍は会津討伐を決定するも、今からでも謝罪すれば、寛大な処置もあり得ると会津藩に求めたものの、会津藩は謝罪拒否の返事を出す。 会津藩は天皇に対して恭順を示すも、新政府軍の権威は認めていませんでしたし、裏では不審な行動ばかりをとっていて、他の藩に嘆願運動を頼んでおきながらも自分たちは戦争のために庄内藩と同盟を結んでいます。最終的には会津藩が新政府軍の占領地を奇襲したことで会津戦争が始まってます。会津藩側にも降伏派はいましたが、会津藩の抗戦派に藩主の命だと嘘を言われ多くが切腹しています。 当時の会津藩には降伏の文字はなかったというのもはっきりわかっています。戊辰戦争研究家も会津藩側の書類には一切謝罪 や恭順の文字がなかったと言っています。 池田屋事件についても志士側の京都の火の海計画である「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち・・・」というのも これは今の研究では新選組による陰謀の可能性が高い事が わかっています。 新選組の行動の辻褄が合わないようです。また志士側の 持ち物にもそのような道具はなく、木戸の日記にも 仲間を救出するためとあります。 京都の観光サイトだと京都に長年住んでいる人からしたら 祇園祭の前に強い風が吹く事がありえないことくらいわかるから 無謀な計画。新選組による陰謀だと言っています。 そもそもこの京都の火の海計画って信憑性自体がかなり低いものなんですが、なぜかこれが真実かのように広まっていますよね。新選組は計画を阻止したなんて言われていますが。 2020年に大学講師が新選組が村に分宿「生活に迷惑」 という内容である豪農日記を分析しています。 2013年には会津藩と庄内藩が幕府から防衛のためと言われて譲渡された蝦夷地を担保にしてドイツから軍資金を得ようとしていたのが明らかになっています。北海道新聞にも大きく掲載されました。これって孝明天皇を裏切る行為とも言えますよね。容保は鳥羽の戦が始まった後に、藩主を辞職しているので、容保が関わっているのか、容保が辞めた後に会津藩が勝手にドイツと交渉をしたのかはわかりませんが。脱藩した水戸藩士を使って略奪行為をしたり、戦争のために町民から財産の没収したり、農民に対しては米も奪っています。 容保がいない会津藩は好き勝手やって暴走してるようにも見えます。 あれだけ新政府軍から埋葬を禁止されただのと言われていたのに2016年に会津若松市で戦後の一週間後に政府の命令で埋葬された証拠が出てきています。福島県郡山出身の歴史家の野口さんが言うにはそもそも埋葬が禁止されたとか長い間放置されたなんていう証拠は ないみたいです。小説やエッセーで使われるようになってそれが 広まっちゃったとか。 皆さんはどう思われますか? 別に会津藩自体が嫌いなわけではないです。

  • 東北や鹿児島の人、靖国神社に参拝しますか?

    靖国神社には第二次大戦の戦死者200万人以上が祭られています。 しかし、皆さんご存知のはずですがそれだけではありませんよね。 戊辰戦争・明治維新では新政府軍側のみの戦死者が7000人以上祭られてます。 会津藩士や白虎隊の面々、それ奥羽越列藩同盟軍の戦死者のかたがたは祭られていません。 西南戦争でも政府軍側のみ7000人近くが祭られていますが、西郷隆盛ら薩摩軍の戦死者の方々は祭られていません。 さて、東北や鹿児島の人、靖国神社に参拝しますか?

  • 戊辰戦争で、なぜ東海道では戦闘がなかったのか?

    こんにちは。 戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。 一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。 尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。 いろいろ調べるうち、第一次長州征伐の総大将(参謀は西郷)であり、藩内佐幕派を処罰(青松葉事件)したりした、尾張藩主の徳川慶勝という人物がキーパーソンのように思えました。次の将軍を誰にするかのゴタゴタで幕府中央に嫌悪感があったのか、鳥羽伏見の直後に逃げた慶喜への怒りなのか・・・? それとも、東海道軍にいた西郷の外交手腕で戦闘が回避されたのか・・・? ・・・わかりません。 なぜ東海道では戦闘がなかったのか、ご存知の方おられましたら、ぜひご教示下さい。 また、参考になる書籍やウェブサイトを教えてくだされば幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 *wikipedia 戊辰戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89 *wikipedia 徳川慶勝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D