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近衛兵はなぜ強い?
西南戦争では物量ともに劣る西郷隆盛率いる薩軍は、明治政府軍を大いに苦しめたと言います。かつて幕末・維新を生き抜いた強者達が薩軍において抜刀攻撃で攻めてきたからだとも。 しかしそんな薩軍にとっても赤帽こと近衛兵に対しては恐れていたと聞きます。 そこで教えて頂きたいのですが、当時本当に薩軍が恐れるほど近衛兵は強かったのでしょうか?もしそうだとすればそれはなぜなのでしょうか?もし近衛兵の構成員が士族だからということであれば同じ士族でしかも土地勘のある薩軍の方が有理ではなかったか? それと近衛兵には平民出身者も入隊できたのでしょうか? よろしくお願い致します。
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NO.5です。 近衛歩兵第一、二連隊ともに特旨で西南の役に派遣されました。ウィキペディアにも載ってます。有名な田原坂の戦闘にも加わったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%9A%8A#.E8.BF.91.E8.A1.9B.E6.AD.A9.E5.85.B5.E9.80.A3.E9.9A.8A NO.6さんご指摘のウィキペディアの記事の編成表には「近衛」の文字は見つかりませんが、別働第一旅団の参謀長や参謀の顔ぶれから、この中に入っているんじゃないかな。 「赤帽こわい」の話は、私も聞いたことがあります。まあホントの話だと思いますが。 http://www.infobears.ne.jp/athome/fukusuke291/z-110hankoyama.htm
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- buchi-dog
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「しかしそんな薩軍にとっても赤帽こと近衛兵に対しては恐れていたと聞きます。」 という話は初耳なのですが、質問者様の情報ソースは何ですか? 西南戦争の政府軍の編成については、ウィキペディアに掲載されています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.AE.98.E8.BB.8D.E3.81.AE.E7.B7.A8.E6.88.90 これを見る限りでは、近衛部隊は出征していないようです。 近衛部隊が動員されたか否かは他の方に譲りますが、政府軍の中で特に強い部隊とそれほどでない部隊の差があったのは想像がつきます。何が違うかというと、装備している小銃の違いです。 西南戦争時、政府軍の主力装備は「前装単発ライフル」であったようです。一方、一部には「後装単発ライフル」または「後装連発ライフル 」を装備する部隊もあったようです。質問者様の言われる「赤帽こと近衛兵」とは、「後装ライフルを装備した精鋭部隊」ということではないでしょうか? 前装銃と後装銃の大きな違いは「伏せた姿勢で射撃を継続できるか」です。前装銃は射撃のたびに銃を地面に立てて装填しなければならず、その際に敵の射撃の的になり、射撃速度も遅くなります。前装銃の兵10名が後装銃の兵1名に相当する、というくらいの戦力差が出てしまいます。 なお、洋式銃と火縄銃や刀・槍が勝負にならないのは、西南戦争よりはるかに前の長州征伐、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で既に判明しております。戊辰戦争では、西洋銃を持った政府軍と火縄銃や槍しかない幕軍の間で「政府軍の死傷は数名。幕軍の死傷は1000名」といった、「屠殺」というべき戦闘が随所で生じています。 戊辰戦争で西洋銃の威力を熟知していた西郷軍も鹿児島を出発した際は西洋銃と弾薬をそれなりに装備しており、熊本守備の政府軍と銃撃戦を行っています。しかし、補給能力を欠く西郷軍はたちまち西洋銃を失い(銃は次第に消耗してダメになる)、弾薬も尽き、熊本周辺で徴発した火縄銃や刀・槍での戦闘を余儀なくされ、洋式銃や大砲を無限に持つ政府軍に掃討されるばかりでした。西郷軍の兵が「戊辰の役での会津兵に落ちぶれてしまった」と嘆いた話もあります。田原坂の戦いで敗れ、宮崎方面の険しい道を通って鹿児島に落ち延びる際の西郷軍は、銃を持つ者はほとんどいない(銃があっても弾薬がなければ役に立たないので、重い銃は捨てざるを得ない)惨状であったそうです。 銃を失った西郷軍の決死の「抜刀攻撃」ですが、山中でのゲリラ戦のような場面でのみ一応有効でした。しかし、政府軍が「銃剣つき銃を装備した兵10名を組にし、西郷軍の抜刀兵一名に一斉射撃」といった戦法を取ると封じられました。抜刀兵は、西洋銃の一斉射撃には決して勝てません。 西南戦争の最後の城山の戦いでは、銃も弾薬もなく、刀や竹槍程度の武器しか持たない西郷軍の最後の陣地に対し、遠巻きにした政府軍が集中射撃を浴びせて西郷軍の幹部や残兵は次々に射殺されました。西郷隆盛も、銃弾を受けて歩けなくなり、残った部下に介錯されて死にました。 西南戦争は、「鹿児島士族と平民兵士の戦い」というより、西郷軍が西洋銃をもっていたごく初期を除き「火縄銃・刀槍と西洋銃・大砲の戦い」であったと考えると分かりやすいです。
お礼
赤帽を恐れていたというのは田原坂のある植木町観光ガイドの方に聞きました。ありがとうございました。
近衛兵は強かったと思います。 近衛兵の前身はご承知のとおり御親兵です。宮中警護を目的として、薩長土の3藩から選抜供出された精鋭です。 徴兵制の施行にともなって旧武士以外の者も、鎮台兵として配属されましたが、鎮台の中核は近衛兵上がりが担っており、鎮台兵の教育に当たっておりました。 薩軍は鎮台兵を馬鹿にしているところがありましたけれども、近衛兵を恐れていましたのはご指摘の通りです。 近衛兵は政府軍の最精鋭です。旧武士の精鋭が銃砲の扱う近代式戦闘方法を熟知しているわけですから、強いと思いますね。薩軍が抜刀して奇声を上げて突入してきても、武士の名誉にかけて逃げるなんてことはなかったと思います。 土地勘につきましては、政府軍の近衛兵にも少数ながら薩摩出身者もいたと思いますが、薩軍やや有利かなと思います。しかし戦いの結果から見て決定的な要因ではなかったようです。 それでも薩の抜刀攻撃に懲りた政府軍が、維新時敵対していた会津藩以下の東北諸藩の出身士族からなる警察官の新撰旅団を組織し、これが薩軍に抜刀攻撃で対抗したのも面白いですね。 近衛兵は天皇の警護という大目的の性格上、全国の部隊から選抜され配属されました。当時の近衛兵に平民出身者がいたかどうかですが、確認はしていませんがいたと思います。
- komes
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当時の近衛兵は士族の中の優秀な者を選抜して任命していました。 従って非常に名誉ある身分で士気、力量共に優れていたのです。 一般の兵士は徴募兵で農民出身も多く、装備は優れていても士気、能力において士族出身の薩摩軍には到底およびませんでした。 薩摩軍は銃器、弾薬が不足していましたから白刃突撃を多用し、政府軍を度々破ったので、政府軍も当時士族が多く採用されていた巡査から志願兵を募り、抜刀隊を編成して対抗しました。 土地勘の有無は同じ日本ですから多少はあったでしょうがあまり影響はなかったと思います。 それよりも薩摩軍は旧式の射程の短い大砲に対し、政府軍は口径の大きい、射程の長いカノン砲を豊富な弾薬で使用する事で薩摩軍を圧倒し、次第に政府軍の優勢を知るようになった徴募兵士も奮戦するようになりました。 なにより弾薬の準備の差が決定的でした。 近衛兵は後に士族以外にも門戸を開きましたが、選抜制は残っていましたが士族平民の区別を撤廃した後は出身地が関東地方の兵士を採用するようになったようです。
お礼
よくわかりました。ありがとうございました。
- tanuki4u
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下記URLによれば、装備でも 但し近衛連隊所属の近衛砲兵のみは特に試験採用の8cmクルップ砲を装備しており、薩摩軍に恐れられた。 とのこと。
- tatsumi01
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西南戦争のときは知りませんが、その後は選抜方法のためでしょう。 普通の師団は、師団所在地で徴兵した兵隊が入隊します。その中から身体強健なものをよりすぐって近衛師団に配属しました。
お礼
わかりましたありがとうございました。
- Willyt
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近衛師団は徴集した兵の中から優秀な者を選抜して組織する上、天皇を守護するという名誉と大義があるので意気も上がります。強いのは当然だと言えますね。
お礼
わかりましたありがとうございました。
お礼
よくわかりました。ありがとうございます。