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乃木希典

starfloraの回答

  • starflora
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回答No.6

    乃木将軍という人について簡単に言いますと、人間として、誠実で、謹厳実直、責任感が強く信頼にたる立派な人物だったということです。(乃木についての本には、彼を理想化して、乃木の能力的問題について、うまくごまかしている本がある可能性があります)。      ただ、軍人として、特に「将」(指揮官)としての才能に恵まれなかったという点が問題だったのです。この場合、乃木に指揮官としての才能がなかったというのではなく、「将としての指揮官」の才能です。別の言い方をすると、「戦術」はこなせたが「戦略」はこなせなかったということです。      軍事行動、戦争というのは、現場だけで考えると、司令官である将軍が、参謀を使い情報蒐集し、参謀が分析した情報や、参謀の意見を聞きつつ、戦略を立てて、戦争を行うのです。将軍が立てた戦略は、複数の軍事行動から成り立っていて、個々の軍事行動は、麾下の特定部隊等が担当し、この部隊規模の軍事行動で、成功するにはどうするか、という方法が「戦術」になるのです。戦術では、その局面で勝てばよいのですが、戦略では、どの局面で負けても、最終的に勝利すればよい訳で、「戦術」と「戦略」の立て方は違い、戦術を指揮するのと、戦略を指揮するのでは、全然違って来るのです。      乃木は、軍人として才能があり、戦旗を敵に奪われるという失態をおかしながらも、その才能を見込まれて、昇進して行きます。左官級指揮官としては、乃木は抜群の才能を発揮します。その能力と功績によって、乃木は、将軍にまで昇るのですが、彼には、将軍として、近代戦争の戦略を立てて、戦争を効率よく勝利に導くという考え方ができなかった、というか、才能がなかったのです。ドイツに留学しても、年齢的な問題もありますが、乃木自身の才能の大きさから言って、将軍としては育たなかったのです。      しかし、彼は至誠の人であったので、人間としての信頼性が抜群で、他の高級軍人たちの評価もよく、天皇自身も信頼していた股肱の臣であったので、ロシアとの戦いで、もっとも重要な地上戦での司令官の地位になります。ここで、問題が起こって来るのです。      乃木は、戦術レベルでは優れているということは、ある程度戦術で戦いの手順は立てるのですが、最後は軍の意気込みで、突撃で勝利するという考えしかなかったということがあります。「突撃隊長」としての才能は抜群だったということです。しかし、将軍として、軍略を立てて、味方の消耗は押さえ、巧みに、相手を籠絡して攻略するというような方法は行えなかったのです。      その結果、戦略地点203高地攻略戦で、自分の知っている攻略戦術がすべて失敗すると、乃木には、それ以上の軍略を立てることができなくなり、総攻撃・突撃しか方法はないということになり、幾度も突撃を繰り返し失敗し、多大な兵員を戦死させ消耗させます。天皇は信頼していましたし(その至誠の人柄を買っていたのです)、他の将軍たちも、乃木が勝利することを願っていたのですが、乃木では、攻略が不可能だということがはっきりし、このままでは、203高地攻略戦は失敗に終わるという見通しが確実になった時点で、普通なら、乃木を罷免して別の将軍を総指揮官に立てるのですが、以下に述べる理由で、それはできなかったので、有能な高級参謀を乃木に付け、密かに軍令で、乃木に、参謀の指示通りに命令を出すよう伝え、これによって、203高地攻略に成功します。      乃木の元で戦った将兵の被害は甚大なもので、乃木の息子二人も戦死します。何故乃木をもっと早い段階で罷免しなかったのかという理由は、乃木は、大日本帝国を代表するエリート高級軍人として、ドイツにまで留学に行っている訳で、対ロシア戦争での「日本の顔」であったのです。日本の軍隊がいかに近代化したかを世界に示すための「看板将軍」であったので、乃木も、その期待に応じようと必死になった結果、余計に無理な突撃を行い、戦死者を増やしたのです。乃木を罷免すると、日本帝国の面子が潰れることになるので、彼は将軍としては無能で、誰か別の者が指揮を取らねばならないとなった時、彼を罷免することができず、代わりに、指揮権を持つ参謀が彼の傍らに付いたということです。      このような失態に対し、乃木は、戦争が続行中のあいだは、戦う義務があるので、自死しなかったでしょうが、自分の力でなく、参謀の戦略で勝利して戦争が終わった暁には、必ず責任を負って自害することは目に見えていたので、明治天皇は、乃木に特別命令を与え、「自死してはならぬ」と命じたのです。(こういう歴史的証拠がはっきり残っているのかどうか分かりませんが、関係者たちの認識や、状況を知っている人たちは、みな、このことを知っていたはずです)。      西欧列強(アメリカ、ロシアも含める)に対し、東洋の一小国が、戦いを挑み、ロシア帝国に勝利したというのは、西欧列強の世界支配の歴史において、初めてのことで、西欧列強に破れ、支配された国々の人々は、日本の快挙に拍手を送り、西欧列強に対しても、戦い方次第で、勝てるのだという自信を与えました。これは世界的事件であったので、西欧列強を打破した東洋の国日本の評価は、いまでいう第三世界の人々に高く評価されたのです。また、西欧列強も、日本に対する評価が変化します。      乃木は、海軍を指揮してバルティック艦隊に勝利した東郷と共に、西欧列強を破った「日本の顔」となります。乃木は将軍としては、使えないことが分かっているので、その後は、外交の際に、ロシアを破った将軍として、外国の使節などを歓迎する時に、歓迎の一員として姿を現すような任務を与えられます。また、何か乃木に、高いレヴェルの仕事を与えないと、大功を挙げた日本帝国の誇る将軍に肩書がないのはおかしいので、明治天皇は、彼を学習院院長にします。乃木に士官学校の高級教官の地位を与える訳にはいかないので、外見は、最高度の栄誉とも云える、学習院院長にしたのですが、乃木にとっては、天皇の心遣いはよく分かるものの、203高地での敗北以降の人生は、ただ、悔恨と自己の無能を恥じるだけの余生であったでしょう。乃木は、院長時代、まったく生気がなく、死んだ人のようであったという記録もあります。背景の事情を知らない人には、何故乃木が、堂々として、自信に満ちた態度でないのか、まったく不可解に映ったのです。      やがて、明治天皇が崩御します。後を継いだ大正天皇は、少々頭に問題のある人であったので、乃木の立場まで配慮することはできなかったのです。乃木は、長年の願いであった、責任を取って、自死するという道を選びます。寧ろ、乃木には、ようやく解放されて、対ロシア戦争での失態の責任を取ることができる日が来たとも云えます。乃木の妻も、夫の心情は分かっていたので、共に死にますと、彼に言ったようです。乃木は遺書を記し、無能の責任を取って、死によってお詫びする、明治天皇の配慮には、筆舌を越えて、感謝している、天皇崩御のいま、自分の死を止めるものはない、「自害するので、自分の功績とされているものを取り消し、乃木伯爵家を断絶させ」てほしい、と記します。      乃木の自殺は、事情を知っている人には、当然なことのようにも思えたのです。学習院院長としての務めも、乃木は、天皇の命令であり、自己の失態の償いととして行っていたからです。政府は、乃木の死を自害として発表しようとも考えたことがあるようですが、日本の置かれている立場や、乃木という「ロシアを打破した日本の看板将軍」の「自殺」について、どう扱うか、冷静に判断すると、政治的に利用するのが得策であるという考えになります。      その結果、乃木の自害は、「明治天皇崩御への忠臣の殉死」ということに発表され、乃木伯爵家は、乃木が死んで後継者がいませんから、別の華族身分の子弟を乃木家の養子にし、乃木伯爵家は存続させます。      乃木希典の「殉死」と呼ばれるものは、自害を禁じた明治天皇の勅命を奉じて生きて来た乃木が、天皇崩御と共に、長いあいだ宙づりになっていた責任を果たして自害したというのが真相ですが、自分を庇い信頼し、配慮してくれた明治天皇の崩御に「殉じた」要素が皆無であったとは云えません。「殉死」と呼んでもよいのですが、乃木自身の「自死」への希望があまりに大きく、関係者には、「自害」は明白であったのが(乃木自身も、遺書で、「自害する」と書いているので、「殉死する」とは言っていないのです。そんな自己を飾るようなことは、とても書けなかったのでしょう。しかし、「殉死」の側面も確かにあったと思います)、日本帝国の面子と、国威発揚のため、「純粋な殉職」として発表され、そのように伝えたということです。   

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