• ベストアンサー

西安事件に関して

八・一宣言に共鳴して張学良が西安事件をおこし蒋介石を監禁した際に、張学良が共産党と協力して抗日するべき、と説得しても蒋介石は頑なに張学良に取り合わず、そこで共産党の周恩来がきてなにかを話したところ、たちどころに蒋介石が態度をかえて抗日に動き出したという裏話的な話を聞いたのですが、この時周恩来がなんといったかは現在分かっていることなのでしょうか?もし分かっているならそれはどういう内容だったのでしょうか?教えてください。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数1

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hinode11
  • ベストアンサー率55% (2062/3741)
回答No.1

周恩来は蒋介石に「蒋経国を帰国させる」とスターリンの条件を伝え、国共合作して日本軍と戦おうと言いました。蒋介石はこの条件を受け容れて解放され、南京へ帰還しました。 この経緯の背景は次の通りです。 事件の前から、蒋介石の息子の蒋経国がモスクワに留学していました。しかし、蒋親子が帰国を希望してもソ連共産党のスターリンが帰国を認めないという状況が続いていました。蒋経国は事実上、スターリンの人質でした。 またスターリンは事件前から毛沢東と蒋介石が手を組んで日本軍と戦うことを望んでいました。一方、毛沢東は、自分を攻撃する蒋介石を憎み、機会があれば殺したいと考えていました。しかしスターリンは、「蒋介石を殺すな。息子の帰国を条件に彼を解放しろ」と毛沢東に命令したのです。 張学良が蒋介石監禁に成功したので毛沢東は蒋介石を殺したかったのですが、日本軍と戦うには毛沢東は力不足で蒋介石の方が役に立つと考えるスターリンには逆らえませんでした。

kueruten
質問者

お礼

お礼が遅くなって本当にごめんなさい。 そうだったんですか。なんか女性関係とかばれちゃやばいことで脅されてたのかと思いました。ありがとうございます!!

関連するQ&A

  • 蒋介石と毛沢東

    最近の中国の反日騒動で、日中の歴史に興味を持ち いろいろ調べているのですが、 蒋介石(国民党)は、毛沢東(共産党)と対立していたのに、張学良に拉致された後、毛沢東と話し合い、今までと一変して、共に日本と戦おうという事になりましたよね。 日本からの援助等で、親密だった蒋介石が、なぜ急に反旗を翻したのか、この話し合いがどのようなものだったかというのが知りたいのです。推測でも結構ですので、どうか宜しくお願い致します。

  • 日中戦争から太平洋戦争に至るコミンテルンの影響

    日中戦争から太平洋戦争にかけての歴史を勉強しています。それで、いろいろ想像して、以下の文章を作成しました。詳しい方に、間違いを訂正していただけますようお願いします。 第7回コミンテルンの後、コミンテルンの指導により、西安事件が実行されたと考えています。この西安事件によって、反共抗日の蒋介石が、突然、連共抗日に鞍替えした。 中国共産党の周恩来は、西安で次のような話を、蒋介石に持ちかけたと想像します。 1. 共産党は、蒋介石国民党の中国統一に全面的に協力する。 2. 共産党は、抗日を旗印として、得意の人民宣撫工作を全面的に引き受ける。 3. 共産党は、ソ連からの支援物資を活用して最大限に日本軍と戦う。 蒋介石は、このような話に乗って、第二次国共合作が成立したと思います。 中国共産党は、コミンテルンの指導の下、数多くの挑発を国民党軍の陰に隠れて行い、日中戦争の勃発に導き、勃発後も、数々の和平努力を潰し続け、戦争の本格化、長期化を促進していった。 日本帝国主義の中国での伸張を嫌う米欧列強は、日中戦争を継続する蒋介石を歓迎して、莫大な支援を約束した。また、コミンテルンの指導の下、宋美齢と中国共産党は、日本軍の残虐非道さを捏造し、国際的な宣伝工作を行い、国際世論、米国世論を反日に操作していった。 コミンテルンは、ノモンハン事件をも引き起こし、日本軍の北進論を封じ込め、日中戦争の泥沼から抜け出す方向が南進論に向かうよう、ゾルゲ・グループなどを使い導いた。 上記のような状況下、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発し、ドイツは瞬く間に、オランダやフランスを占領し、英国を空襲し始めた。そして、日本は、乗り遅れまいとするかのように、日独伊三国軍事同盟を結び、北部仏印に進駐した。更に翌年1941年7月、コミンテルンの筋書き通り、南部仏印に進駐し、同年末の真珠湾攻撃に突き進んでいった。 日中戦争から太平洋戦争に至る日本ほど、コミンテルンの国際戦略に上手く乗せられた例は無いのではないか。これはコミンテルンの謀略というよりも、日本自身が自らの判断で、彼らの思惑通りに突き進んでいった、というのが本当だろうと思う。 問題は、今の中国共産党が、大成功だった当時のコミンテルンの国際戦略を引き継ぎ、その手段や手法を踏襲実施していることでしょう。今、日本は、コミンテルンの申し子である中国共産党に、二度も同じようなやり方で翻弄され、痛い目に会わないよう、大いに注意するべきでしょう。

  • 中国人とは、誰こと?

    ここのところ、中国が、いろいろと、日本に対して、随分なめた態度を取っていますが、 そもそも、物の本などによると、孫文の三民主義が土台となり、毛沢東、周恩来、蒋介石たちが、同根として育ってきたとのことです。孫文を、日本の人々は、正しく護り、支援したともきいています。 江沢民率いる、鼻息荒い今の中国は、孫文や毛沢東、周恩来、蒋介石等の流れからすると、2流3流の人物に思われるのですが、そもそも、今の中国(中華人民共国)は国家思想的に三民主義の考え方と、どのような関係、または、連続性のあるものなのでしょうか。あるいは、全く関係のないものなのでしょうか。 この辺にお詳しい方、是非、詳しく、ご教示ください。

  • 中国近代史で感じた違和感について

    40年以上前に中学校で世界史を学びましたが中国近代史で違和感を感じました。(中国共産党のプロパガンダそのもの) 中国近代史で重要なことは、大清帝国から中華民国への移行であり、皇帝や袁世凱が中心であるべきなのに孫文が中心です。張学良の西安事件など歴史の本筋からみればどうでも良いゴミみたいな出来事だと思います。以下質問です。 1.私の感じた違和感に関し皆様はどう思われますか? 2.現在の中学校も同じような歴史教科書を使っているのですか? 以上です。

  • 抗日戦争勝利台湾光復70周年記念大会

    『抗日戦争勝利台湾光復70周年記念大会』 日本は台湾と戦争をしたのですか? そして、日本は国民党軍に敗北したのでしょうか? 今や親日国台湾も抗日へと転換したようです。 日本は台湾を統治し発展こそさせたものの、台湾と戦争などしていません。 また、米軍との本土決戦、原爆投下により降伏はしたものの、その時点でさえ中国本土では国民党軍に圧勝していました。 なのに何故今になって『抗日』なのでしょうか? 韓国のように、日本人観光客が激減しても良いのでしょうか? 台湾は、大陸からの移民も多く、今では中国に賛同するような民意も多いと思います。そもそも、蒋介石が台湾に逃れてきたのも、中国共産党軍に敗れたからではないですか。それを『抗中』ではなく『抗日』などとあきれてものが言えません。 どこでどうなったら、こんなデタラメな歴史観がもてるのでしょうか。 もし、それでも中国だと言うのであれば、もう日本は台湾を助けませんよ。台湾を飛び越えれば、フィリピン、ベトナム、カンボジアがあるのですから。 それと同時に日本だって中国人の流入によって、そうなる危険性が大きいのですよ。『爆買い』だなんて酔いしれている場合ではないのです。

  • 中国における反日の歴史とその現状

    「中国における反日の歴史とその現状」を勉強しています。 そこで、下記文章を作成しました。間違いの指摘やアドバイスなど頂ければ幸いです。 1900年6月に勃発した「義和団の乱」は、そのスローガン「扶清滅洋」からも分かるように、清国を食い荒らす西洋列強を主敵とする、反帝国主義・反植民地主義を目指す反乱(戦争)であった。つまり、この時点では、未だ、明白な「反日」は起きていない。 1911年10月に辛亥革命が起こり、1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言、初代臨時大総統に就任する。しかし、清朝の北洋軍を率いる袁世凱が、孫文も合意の上で、同年3月、中華民国政府の第2代臨時大総統に就任し北京に遷都した。中華帝国皇帝になりたいという袁世凱の本質を見透かした上で、日本は、1915年、大隈内閣が、「対華21か条要求」を出し、シナ及び満州における既得権益の確保を計る。 1916年に袁世凱が死亡すると、シナ大陸は、各地域に軍閥が割拠する混乱期に入る。同時に、日本の既得権益確保の活発な動きは、欧米列強やロシア(ソ連)との縄張り争いを激化させると共に、シナ人共産主義者や民族主義者の憎悪を煽ることになった。 1917年10月、ロシア革命が起こり、1919年3月には第1回コミンテルン大会が開かれた。内外のシナ人共産主義者たちは、コミンテルンの指導に従い、1919年5月4日、「ヴェルサイユ条約反対」・「反日愛国」をスローガンとする五四運動を起こし、この運動の社会的影響を背景にして、1921年7月、中国共産党結成に成功した。従って「反日愛国」は、中国共産党にとり、単なるスローガンから、党結成の重要理念の一部となった。 以降、コミンテルンに指導された中国共産党は、日本を標的にしたテロ挑発を繰り返し、関東軍が対応策をとると、その正当な軍事行動すらも、残虐非道なものに歪曲・誇張・脚色して、シナ民衆扇動のための反日宣伝工作に活用した。一方、日本民衆の反中感情も増大して、コミンテルンの思惑通り、日中民衆の心の離反が進んだ。1927年3月~4月に南京事件と漢口事件(コミンテルン指示のテロ)が起こり、これに対し、同年4月12日、蒋介石が上海クーデターを起こし、国民党の反共方針が確定され、第一次国共合作は終わる。 1928年5月、済南事件(コミンテルン指示のテロ)が起こり、これに関連し、1928年6月には張作霖爆殺事件が起こる。このようなコミンテルン指導の反日テロ、それに対する陰謀や報復対応という悪循環を断ち切るために、ソ連・コミンテルンが真の敵であることを見抜いていた石原莞爾は、1931年9月に満州事変を勃発させ、1932年3月に満州帝国を成立させた。 1935年に第7回コミンテルン大会が開催され、「民族解放・人民戦線戦略」が打ち出され、中国共産党に対し「国民党と協力して反日を推進せよ」という指示が出された。そして、1938年に張学良により西安事件が起こされ、その結果、蒋介石が寝返り、第二次国共合作が成立し、翌年9月、コミンテルンの指示により、盧溝橋事件が起こされた。 日本は、愚かにも、真の敵であるソ連・コミンテルン(=中国共産党)の挑発に乗り、欧米とソ連の単なる傀儡に過ぎない蒋介石を懲らしめるため、広大なシナ大陸における泥沼戦争へと居丈高に突っ込んでいった。正に、コミンテルンの思惑通りであった。 日中戦争が始まると、コミンテルン指導による、中国共産党の反日宣伝工作は、最大限に動員され、自らシナ民衆を虐殺することすら厭わないテロや軍事作戦を初めとして、あらゆる手段でシナ民衆の中に「反日」を浸透させていった。また蒋介石(妻の宋美麗が活躍)も、日本軍の残虐非道ぶりを虚実織り交ぜて最大限に歪曲・誇張・脚色して、米国を中心とする西欧諸国に対し、マスコミを初めとするあらゆる手段を通じて、国際的な反日宣伝工作を行った。 ソ連・コミンテルンは、1939年5月~9月にノモンハン事件を起こし、関東軍を叩きのめすことで、従来、日本軍部にあった北進論を挫折させ、南進論へ向わせることに成功した。かくして、日中戦争の泥沼化にともない、日本は、1940年北部仏印進駐、1940年日独伊三国軍事同盟、1941年南部仏印進駐と、大東亜戦争開戦への道を突き進んでいった。 日本の敗戦に伴い、利用価値の無くなった蒋介石は、既に強大となった中国共産党に追い出され、1949年10月1日、中華人民共和国が樹立される。かくして、中国共産党にとって、「反日愛国」は、新生中国を成立せしめた最重要理念の不可分の一部となった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中華人民共和国の樹立当時、青少年であった今の中国人長老指導者たち(現在70~80才代)は、「反日愛国」が心身に刷り込まれており、中国国内に何か問題があると、「反日愛国」を自動的に持ち出し、その問題から民衆の目をそらすのが、常識のようになっている。 歴史認識にしても、中国共産党が、1920~1940年代にかけて作成した反日宣伝工作資料は、戦勝国・中国の共産党にとって、あたかも聖書のごとく、歴史的に完全に正しい資料として扱わざるをえず、その拡大解釈はありえても、縮小解釈や修正などあってはならない。しかも、酷いことは、これらをそのまま、現代中国の青少年むけ学校教育に使用せざるを得ないことである。 従って、今後、中国が民主化され、共産党が政権を降りるまで、現在の歴史認識の問題は解決しないだろう。今の日本人にできることは、中国の民主化を支援しつつ、中国共産党の歴史認識が70~80年も前に作られた戦争宣伝資料に基づくもの以外の何ものでもないことを、粘り強く説明し、少しでも多くの中国人に、理解してもらう他は無いと思う。 一方、より大きな問題は、多くの左翼系日本人が持つ自虐史観に在る。彼らがマルクス・レーニン主義や毛沢東思想などを信奉するのは自由である。しかし、信奉する余りに、1920~1940年代のコミンテルン戦略であった反日宣伝工作によって歪曲・誇張・脚色された、事実と異なる歴史認識(中国共産党の歴史認識=左翼系日本人の自虐史観)を、自ら検証することなく、盲目的に受け入れることは、明らかに間違いであり、不正義である。 また、一部政治家のように、ひたすら波風を立てないために、歴史の歪曲・誇張・脚色に目をつぶるようなことは、真の平和には決して結びつかない。公正な歴史認識を持ち、なおかつ、それを堂々と対外的に主張できないならば、真に公正な国際関係などは、決して築き得ないと思う。

  • 李済深(りさいしん、りせいしん)=李済○(りさいちん、りせいちん)??

    中国近代史に登場する人物に、李済深(りさいしん、または、りせいしん。Li Jishen。1885-1959)という人物がいます。広東系統の地方軍閥出身で、中国国民党に加盟し、1927年の蒋介石いわゆる「4・12クーデター」に追随し、広州で白色テロ(中国共産党の弾圧)を行ったにもかかわらず、次第に反蒋化し、1929年には広西派(李宗仁ら)とともに反蒋戦争を戦い、その後は左傾化し、1933年10月または11月には、蔡廷かい(金偏に「皆」)、蒋光鼎、陳銘枢、黄琪翔、徐謙、陳友仁らと、福建人民政府(中華共和国人民革命政府。生産人民党を中心として、社会民主党も合流した??政府)をたて(福建事変、福建人民政府事件とも呼ばれる)、中国共産党とも連絡をとり、1935年7月には、中国民族革命同盟を、蔡廷かい(金偏に「皆」)、蒋光鼎、陳銘枢、何香凝、譚平山、馮玉祥らと結成し、1948年1月には、中国国民党革命委員会を結成し(主席に就任している)、とうとう1949年には、その一員として、宋慶齢(無党派)、張瀾(民主同盟)、朱徳(共産党)、劉少奇(共産党)、高崗(共産党)とともに、中華人民共和国建国の際の、副主席の1人までとなった、という、大きく右から左へと振れた人物の1人です。 まあ、このように、人物としても、その思想についても興味深い人ではあるのですが、ここではそれは置いておいて、その名前(の表記)について、お聞きしたいと思います。 この、「李済深」がときどき、「李済○(りさいちん、りせいちん)」と表記されるときがあります(このページでは文字を表示することができませんので、「○」で示していますが、最後の3文字目の偏が、「さんずい」ではなく「王」になっています。なお文字のコードは「&#29723」です)。例えば、 ○中国近現代史(上・下)・東京大学出版会・1982年:李済深 ○中国近現代史・岩波新書・1986年:李済深 の2冊は「李済深」ですが、 ○中華民国・中公新書・1997年:李済○ ○中国史5・山川出版社・世界歴史大系・2002年:李済○ の2冊では「李済○」です。 これについて、 1)この2つの名前は、同じ人物をさしているのでしょうか? 2)そうだとすれば、どちらの表記が正しいのでしょうか? 3)そして、こういう状況になっている理由は何でしょうか? という3点についてお教えください。 例えば、「李済○」が正しいのだが、「○」という漢字が日本では一般的ではないので(常用漢字ではないので)、いわゆる「同音の漢字による書きかえ」に倣って、同音ではないが、しかも固有名詞でもあるが、あえて、誰かが「深」を使い、それが一部で定着してしまった、ということなのかもしれません。 余談ですが、中国近代史においては、このように左右に振れる人物が多く見られるわけですが、そういう人物を見るにつけ、中国近代史において、右だ左だ、という画一的な見方がいかにそぐわないものであるか、と強く思ってしまいます。 以上、ご回答をよろしくお願いいたします。 なお、このページでは「ちん」の字が表示されないので、「○」としてきましたが、環境によっては、次のページでこの字を確認することができます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD (ただし、このページには「李済深」と記載されている部分もありますので、ご注意下さい。)

  • 中国西安の文化祭での事件

    結構前の話になりますが、中国の西安で日本人留学生が 下品な寸劇を行ったため、退学処分を受けた事件ありましたよね。 あの事件についてどう思われますか? 私は、日本人留学生がした行為は良いとはいえないものの 悪気があってやったわけではなく、後に謝罪状も出しているのに 少し、反撃しすぎではないか?と思うのですが・・・

  • 西安について

    こんにちは、 来年の4月か5月に西安に母とおば三人で3泊4日で行こうと考えています。ちょうど母と私はマイレージの無料航空券が利用できるので、おばの分は格安チケットを手配しての個人旅行を予定しています。 で、日程をさきにFIXさせたいのですが、連休を避けて、4月にいくか5月にいくか迷っています。なんとなく5月のほうがよいかなとも思いつつ、多分、4月のほうが航空券は安いと思うのでそちらのほうがよいかなどと決めかねています。 まあ、気候などはその年によっても微妙にちがうものでしょうからなんとも言えないと思いますが、このころに旅行した方のご意見がいただければ幸いです。 まだ、ちょっとさきの話でもありますので、情報収集はこれからですが、経験談として、ガイドブックにあるようなこと以外でよかったこと、気になったことなどあればあわせておしえていただければありがたいです。 なお、おばがあまりムリができないので現地では主に ツアーか車チャーター、もしくはタクシーを活用する予定でいます。現地の旅行社にお願いするつもりでいますが、利用されたことのあるかたのご感想もいただければ幸いです。

  • 西安旅行

    今度彼女と西安へ旅行するのですが、西安駅から日帰りで鉄道を利用した観光地のお勧めはどこかありますか?また宿泊は鼓楼の近くですがそのあたりに食材が豊富に売っているスーパーはあるんでしょうか?ご存知の方がいましたら是非教えて下さい。他お勧めの場所でも結構です。