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あらゆる宗教について

aoihoshiの回答

  • aoihoshi
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回答No.8

   悲しい事です。しかし、人類に「愛(エロス)」が存在する限り、争い事が無くなる事は無いでしょう。  人間とは、とても不完全かつ孤独な存在です。だからこそ、群れの中に自分の身を委ねなければ、まともに生きていく事が出来ません。  人が群れると連帯感や隣人に対する愛が生まれます。そしてそこには群れを維持するための規範(モラル)がつくりだされます。  人が一旦集団化されてしまうと、他の集団と交わろうと思っても、主義・主張・思想などの相違のため、簡単には交流できないのが普通です。    そのようにみていくと、宗教に対する信仰心が深ければ深いほど、時として自分の愛する家族・民族を守るための手段として、争いも必要なのかもしれません。  

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    ある特定の宗教(キリスト教、仏教etc)を信仰されている方にお聞きします。 あなたはその宗教を信じようと決心された時、他の宗教の教典を読んだりして比較検討はしましたか?しなかった場合、それはなぜですか? 質問の意図を明確にするため私自身の事を説明しますと、私は特定の宗教は持っていない、そこらへんによくいる日本人です。が、最近クリスチャンの知り合いに少しずつ聖書やキリスト教について教えてもらい始めまして、神について考える事が多くなってきている状態です。私は、神様(私のイメージではこの宇宙や人類を作り、全てを知っている絶対的な存在)はいてもおかしくないとは思いますが、それがキリストだとかアッラーだとか言われると、果たして何を根拠にしてそう言えるのだろうと考え込んでしまいます。例えばもしもこの先、聖書を熟読したり教会に通ったりした結果キリストが創造主であり救い主であると思えたならクリスチャンになってもいいとは思いますが、その場合でも、他の宗教についても相当勉強して、やはり他の宗教の主張は誤っている、キリスト教が正しいと確信できてからでないと洗礼は受けないと思います(真面目にやろうと思ったら一生かかっても無理っぽいけど)。 私が最近行っている教会には敬虔なクリスチャンが沢山いらっしゃいますが、仏教やイスラム教なども一通り勉強された方はあまり(全然?)いないようです。信仰を持つという事は一生を(その人にとっての)神に捧げる、神と共に生きるという事ですよね。そんな一大事を決めるのに、たまたま身近にあった宗教が良さそうだからと入信してしまえるのはどうしてなのだろうと思うのです。理屈ではなく、神の声を聞いた、神を感じたとかいう体験をしたとしたらそれが強い入信動機になるかとは思いますが、それにしたって、それが気のせいや脳がもたらした作用の結果(脳科学の分野になりますかね)でないとどうして言い切れるだろうとも思ってしまいます。(大変失礼な物言いですが) 長くなってしまいましたが、他の宗教と比較検討しなかった方を批判したいのではなく、ご自分の持っている宗教を信じるに至った理由や心理、お気持ちなどを本当に純粋に知りたいのです。気長にお待ちしてますのでご親切な方からのご回答心からお待ちしています!

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  • 世界の宗教の最低限必要な知識

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  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

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    世界各地でイスラム教徒対キリスト教徒やユダヤ教徒の紛争が起きています。 イスラム教徒が自爆テロをしたというニュースも頻繁に聞きます。 仏教徒の宗教対立とかテロって聞いたことがない気がするのですが、世界史上はどうなのでしょうか? 日本でも一向一揆などはありますが、あれは宗教同士の対立ではなくて、宗教対為政者ですよね。 そうではなく、仏教徒対他宗教の対立や紛争はある(あった)のでしょうか? もちろん、現在の宗教対立には政治や領土などの問題も絡んではいますが、私には「政治的な利益」と同じくらいかそれ以上にそれぞれの「信仰」ということに重きをおいて戦っているように思えます。 そのような「信仰のため」に仏教徒が行った戦争はあったのでしょうか? 世界史はほとんど勉強したことがないので、詳しい方教えてください。

  • とある宗教の考えかたについて

    私の知人の信仰の考えにたいする質問です。 (特に特定の宗教に向けた質問ではないので色々ぼかさせていただきます) 知人の宗教では、例えば電車に乗り合わせた人たちがみな無事に目的地にたどり着きますようにと祈ったり、ご飯を食べる際には百姓さんや作った人に感謝したりと、何にでも祈るとのことです。 ここまでは理解できます。 しかし、例えば、難民などのニュースではその国の政治がよくなりますように、いじめ自殺のニュースがあれば、いじめる人の闇が晴れますように… といった具合で、何かがよくなることを心で祈るのみらしいです。 祈るだけで、自分自身が具体的に何か行動を起こすことは一切しません。 私は、その考えに疲れてしまいました。 例えば、何か嫌なことを他人に言われたら、その相手が苛々しないように祈る…となります。 祈るだけで何もしない、そしてお経は毎日上げてます。 これは果たして、意味があるのでしょうか? 偽善にしか思えず、そんな考えに捕われた相手を思うととても苦しいです。