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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?

stomachmanの回答

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.26

stomachmanがユングと言いたくて言えないのは、そのトンでも性のせい。(「元型」は何でもアリみたいでどうも....オカルト系の話に至っては「やめてくれぇ。」)さすが、ozapanさんの解説は分かりやすいや。でも「電波」は、やばい病気の初期症状ですから病院に行きましょうね(^^;  さて、mori0309さんご注文の、ゲーデルに関連する、自己言及の困難性についてちょっとやってみましょう。たとえ話から。数は数字で表す以外にも、その性質を言って指定することができます。「最小の素数」だとか、「最初の完全数」だとか。「2の平方根」なんてのは、性質によってしか表せませんね。では数を自然数に限ることにして、P:「23もじいないではあらわせないさいしょうのかず」って幾つでしょう。使う言語を指定すれば、この命題Pの意味は厳密に定まります。実際、使う文字をひらがなと数字に限定して、「あ」「い」.... 「8」「9」「ああ」「あい」「あう」... 「さいしょうのそすう」「さいしょうのそすえ」「さいしょうのそすお」..... と並べていけば、23文字以内で表せる数が網羅できます。(数学的言語を定義することで、これをホントに厳密にやるのも可能です。)実際Q:「1もじではあらわせないさいしょうのかず」ならそれは10ってことですね。Pを満たさない数を網羅できる。その個数は有限(<(使える文字の種類)^23)である。にもかからわず、もし命題Pで一個の数Nが指定できたとすると、その数Nは23文字以内の命題であるPで表せる訳だから、Pを満たさない。だからNはPが指定する数ではありえない。つまり、Pは数を指定しない命題です。もう一回Pを読んでみましょう。なんだかおかしいですね。  「自分」というものを考えている「自分」が、考えの対象である「自分」を対象化すること(ozapan先生の用語では「主題化」)には、究極的にはこれに似た困難性があります。意味があるように見えて実は何物をも指さない命題、というのが出てきても、ちょっと見分けがつきません。言語の意味を精密に定めてもこのざま(Pの例)ですから、用語それぞれが様々な分析・解釈を許すような状況では手に負えなくなるのは当たり前。その上、考えの対象である「自分」が静的ではない。動き回っているプロセスそのものなんですから。  自分じゃなく他人の心を考察すること(「超数学」に対応)は或る程度可能でしょうが、行動主義・機能主義的な壁、つまり主観的にどう感じているかを無視してしまうことになるのでは詰まらない。  どうやら、答を求めるのではなく、「わからなさ」をいじくっていろいろな蘊蓄を楽しむ、というのが正しい態度のようであり、自己言及するなら、この意味でこのシンポジウム(本来、酒酌みながら議論を楽しむこと)も誠に「健全(sound)」です。  次に、mori0309さんの仰る「真実在=高め、導くもの」て概念ですが、これは面白い問いだと思う。こうしてOkWebに質問を投げていらっしゃること自体、mori0309さんが、これが普遍的な、誰にでもあるものと考えていらっしゃることが分かります。ところが自堕落にやってるstomachmanは普通自覚しない。自覚した記憶もはっきりしない。いや、もともとないかもしれない。超自我やコンプレックスの影響を除くと、見あたらない。ことに「高める」という方向性がない。  信仰を持っていらっしゃる方(特に大人になってから(現世利益じゃない)信仰を真剣に始めた方)の場合には、多分「神」の概念がこの役割をしているんじゃないでしょうか。逆に言えば、宗教には(必ずしも悪い意味ではなく)思考停止の機能があって、「私は誰?」「明日はどっちだ?」みたいな悩みを吸収してくれる。mori0309さんがそういう状態にないことは明らかで、かつ、「高め、導くもの」を実感していらっしゃる以上、神道の神のようなものかな、と思ったんです。  そこで、まずは皆さんが自分の中にそういう存在を実感していらっしゃるのかどうか、それを知りたいと思うようになりました。どうでしょう?

mori0309
質問者

お礼

stomachmanさん、ありがとうございます。 すこし作文の時間をください。(スミマセン)

mori0309
質問者

補足

stomachmanさん、ありがとうございます。いつも感謝しています。 > Pは数を指定しない命題です。「自分」というものを考えている「自分」が、考えの > 対象である「自分」を対象化することには、究極的にはこれに似た困難性があります。 どこまでいっても、自分を見る自分を見る自分を見る自分を見る自分を・・・・になって しまうのですね。でも過ぎ去った過去の時間にいる自分を見つめる自分は「超数学」の立場 にいるということができるのでは? たとえそれが1時間前の自分であっても。 数学的命題に順序の要素はあっても時間の要素はないと考えてよいですか? 過去の事象を 自己参照して、それを自分の体系に取込むというようなことは数学的に記述できるのでしょ うか? (回答のお願いではないです。あんまりこの欄のQ/Aを長く続けると怒られそうなので) (でも気が向いたら教えてください、、、ムシがいいですね) (質問になってないですか。別に質問を立てろというのならそうします) > 自分じゃなく他人の心を考察すること(「超数学」に対応)は或る程度可能でしょうが、 > 行動主義・機能主義的な壁、つまり主観的にどう感じているかを無視してしまうことに > なるのでは詰まらない。 外部からの観察や分析がどんなに精緻であっても観察される当人の主観的な「経験そのもの」 を知ることはできないということですね。やっぱり外からジロジロ見つめる行為は不毛なの ですね。とすると、やっぱり学問には理性と感性は必須だな~ >「真実在=高め、導くもの」mori0309さんが、これが普遍的な、誰にでもあるものと考えて > いらっしゃることが分かります。「高め、導くもの」を実感していらっしゃる以上、神道 > の神のようなものかな、と思ったんです。 > この神がsuper-ego(これが生き霊か死霊か、ともかく祖先と繋がるものであることは > 暗示的ですね)であるのか、egoの持つ倫理であるのか。stomachmanはsuper-ego説を > 採ります。      (語数上、すこし文章を編集させていただきました。mori0309) 最初の「真の自分」という言葉が不適切だったんです。私は、ごく普通に誰もが持っている 「素直で自分をよく見つめていて自分に嘘をつかない自分」のことを言いたかっただけです。 それは悪に対する単なるブレーキ装置のようなものではなく、自分を「いい方向」に導いて くれる、包容力の強い「よき自分」です。みじめな自分、みにくい自分をゆるしてくれます。 「ありのままのお前でよいのだ。だから自分を助けるように周りの人も助けてやれ」 そう 勇気づけてくれます。言葉が天から降ってくるわけではないです。「真の自分」が心の 中心に現れてきたとき、私自身が「真の自分」になっています。 でも皆さんも、そうなのではないでしょうか。失意や窮境から立ち直るとき、かならず こころのなかでそういうことが起こっているのではないでしょうか。 「真の自分」の正体は祖霊かもしれないという説には、うなずきたくなります。文学的な美 を感じます。人間の歴史とはロウソクからロウソクへの炎(情愛)のリレーのようなもだと 思うことがありますから。 何千年、何万年と絶やすことなく受け継がれてきた炎を、私も また後代へつたえていくランナーの一人なのだ。そういう想いは私を内面から熱くします。 理念化した倫理が「真の自分」であるとは思えませんし、またそれが「真の自分」になって はならないと思います。理論化した正義は必ずと言っていいほど狂暴な支配抑圧装置となり 自他を滅ぼしてしまうと思います。 感性が真理や本質をとらえたとき、それが美として感じられるのではないでしょうか? (話が拡散してしまいますね。ますます怒られそう。今度新たに質問をたてます) なんだかドエラく恥ずかしいことを書いてしまいました。mori0309がどこの誰だか永久に 分かりませんように。

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