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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?

greatcatの回答

  • greatcat
  • ベストアンサー率26% (7/26)
回答No.61

最近はやりのクオリアの問題と見ました。 私は脳の量子状態に個があると思います。 ノーベル賞も金メダルも犯罪を犯すのも同じ脳から生じたことです。 違いがあるとしたらその人の脳の使い方(状態)です。 状態は常に変化しまた, 様々な状態の重ね合わせにあるともいえます。 脳の状態は,おかれた環境や始めの状態(遺伝)によって, 次の状態が決まってきます。 ただ,その移ろいは確率であるので複数の未来が存在します。 真の自分というものは絶えず変化しています。 全ての生命は時間の矢の中で暮らしています。 真の自分というものは固有のものではなく, 任意の変数のようなものだと思います。 全ては時間の矢の中の現象であるので真のといった場合, それは静的な状態,つまり死を表していると思います。 より良く生きるためにできることは, いい状態に自分を保つことと思います。 真の自分があるとしたら, 犯罪者は一生悪人のまますくわれません。 ただ,サイコパスのように脳に明らかな損傷がある場合, その人の真の自分というものは怖い気がします。 最後に私の好きな宮沢賢治の"春と修羅"序より わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です

mori0309
質問者

お礼

greatcatさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。 >真の自分というものは絶えず変化しています。 >全ての生命は時間の矢の中で暮らしています。 >より良く生きるためにできることは, >いい状態に自分を保つことと思います。 個人としての人間の未来の姿は、不確定だと思いますが、いくつかの確率的可能性を、 まったくでたらめに選択し続けているわけでもないと思います。 「いい状態に自分を保つ」、それは、私は、真・善・美への道を歩み続けることだと 思っています。(時代がかった言葉ですけど) 生きるためだけに生きる、そういう動物的存在から、自分を超えさせようとする 何かが自分のなかにいる。それを私は「真の自分」と表現してみたのでした。 宮沢賢治の詩は、イメージはわかりやすいですけど、その解釈は難しいです。 (詩を「解釈」など、してはいけないのでしょうけど) 人のこころなど、物理学的な現象にすべて還元されてしまう、無実体なものである、 と言っているのか、こころこそ真の実在で、自然界の背後の霊的なものと 絶えることなく共鳴しあっている、と言っているのか・・・・・ 私は前者だとは、思えないのですが。

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