似たような質問の繰り返しで恐縮です。
「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む
ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです)
みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか?
それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか?
それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?
回答 (全66件)
- 回答No.22
おじゃまします。
本当に難しい問題で、一つ一つの発言を読んでいると大変勉強になります。ちょっと混ぜてください。
以下、僕の意見ですが、二部構成でお送りします。
一つ、問題の広がり・重層性を整理するこころみ
二つ、それを踏まえた私見
ちょっと長くなるかもしれません。
1.問題の広がり・重層性
「自分とは何か」という問題の難しさは、その問いが波及しうる領域やレベルが、非常に多角的・重層的なものであることが原因の一つだと考えます。以下、ざっと挙げます。
・文学的主題としての「自己」
・主体としての「自己」(哲学的)
・心理学的な意味での「自己」
・身体論でいう「自己」
…まだあるかもしれません。が、とりあえず、こんなもんで。
最初の、文学的主題としての、というのは、個々の作品の中で造形されるものですから、ここでは議論の対象から外したいと思います。これを「自分の生き方」という意味で捉えても、それは個々の人が置かれた状況・立場の中で考えていくものですから、やはり外します。
二番目。うわ、大変…(いきなりやめたくなってきた)。
(気を取り直して…)まず思い浮かぶのが「われ思う、ゆえにわれあり」(デカルト)。判明明晰でないものをガンガン疑っていっても、そうして疑っている思惟の主体は疑えない。だから、これは確実だ、と。…ただし、現代の視点から言うと、その「疑う」という行為自体、脳内における生化学的過程として解体できるわけで、そうした疑念がmori0309さんの当初の質問には含まれているようです。僕としては、そうした「還元」もまた説明の一つではあると認めようと思います。が、あまり意味はない。思惟を担うのがセロトニンやらドーパミンやらの作用であるとしても、まとまった意識や思考がセロトニンで組み立てられているわけではない。「1万円札は紙だ」と喝破したところで「貨幣とは何か」を論じられないのと同じことです。
もう一つ、行為主体・意志主体としての「主体」があります。倫理的な局面で語られるものです。これはあまりmori0309さんの当初の質問には関係なかったんですが、その後の話の流れで「良心」とか「超自我」が問題になってますので触れた方がよさそうです。この「主体」に関しては、伝統的な「自律=自由」の主体観、ニーチェによるこれの破壊、フーコーの『監獄の誕生』などにおける否定的内面化を通じた「主体」成立論などがあります。
まず「自律的主体」を簡単に要約すると、「他によってではなく、自分自身を原因およびとして行為する主体」といった感じになるでしょう。バリエーションは色々あります。アリストテレスでは「不動の動者」。「自分以外の者を目的とせず、他の一切が自分を目的として運動するもの」、ほとんど神様です。あるいは「自分が決めたルールに自ら従うのが自由だ」とか。この捉え方は、特にドイツ観念論で洗練されます。カントは「自然法則、および道徳法則の立法者たる理性的存在者一般」として主体を称えていますし、ヘーゲルも「われなるわれわれ、われわれなるわれ」とか言って自律的主体のスケールを共同体レベルまで広げています。
が、こうした主体観に対して、ニーチェの「~とは誰か」という問いの立て方は破壊的な威力を発揮します。例えばカントは、人間を含む理性的存在者が「自然法則と道徳法則の両方を立法したのだ」と言いますが、そんなものを立法した覚え、あります? 僕はないです。そんなスゴイこと、したことない。…つまり、カントが語る主体とは、現実に存在する個別的・具体的な人間の誰でもありえない存在だったわけです。もちろんカントは、人間誰もがそうした主体なのだと主張したのですが、このことは「誰もそうした主体ではありえない」というのと、同じコインの裏表になってしまっています。結局、抽象的観念でしかない。いくら校長先生が卒業式で「主体的な人間になってください」と言ったって、「そんなのムリだよ」ってことになります。だからこれも「真の自分とは」という問いの答えにはなりにくいと思います。あまりにも空々しいでしょ?
で、フーコーの主体論。これ、述べる必要はないと思ったのですが、「叱られ経験→超自我形成」というのと枠組みが似ているので取り上げます。フーコーは近代的自我ないし主体の成立を、監獄で象徴させています。「監視塔を中心に円形に配置された獄舎。すべての獄舎の扉・窓は、中心の監視塔に面している。監視塔の視界は三百六十度。しかし半透明ガラスがはめてあって、囚人たちからは監視の獄吏を見ることができない」という状況。ここに置かれた一人一人の囚人は、獄吏が自分を見ているのかどうかわからないわけです。見られていないかもしれないし、見られているかもしれない。こうした中で、囚人たちは「見られているものと考えて」行動するようになります。つまり、監視の獄吏を内面化して、「自分で自分を見張るようになる」ということです。これが主体。…ここでの主体は、それ自体で自立的なものではなく、否定的に作り出された非実体でしかない。主体なんて、こういうもんなんだ、というのがフーコーの議論です。おおざっぱですが。ニーチェの場合、「それでもなお主体であるためには」という志向が残っていますが、フーコーに至っては「自分自身の主人である」という意味での主体になることに不可能が宣告されているようです。
三番目。心理学的なもの。
これはずいぶんと話題になっているようです。今のところはフロイトですか。超自我はたしかに「自己の内面に入り込んだ他者」だというふうに、stomachmanさんと同様に僕も理解しています。利己的遺伝子の利他的ふるまいにたとえたのもわかりやすい。
ただ、フロイトって、人間観がペシミスティックなんですよね。けっこう早い時期からタナトス(死の本能)なんてことを言い出している。死の本能? そんなもん、あるんかいな? …僕の私的な考えでは、自殺願望・破壊衝動・闘争欲求などなどは、人が置かれた状況や、その人の精神状態などによる因果関係で大体は説明できるものであって、そういうのを「死の本能」なんて言って実体化するのはおかしい…と思うんですが。…これ以外にもエディプス・コンプレックスとその克服を通じた超自我形成過程の説明には、明らかな男女非対称がある。噴飯ものと言っていいくらいムチャクチャな議論…どうもフロイトは、あんまり信用できません。スキナー(アメリカ・行動主義心理学)あたりになりますと、「説明のための虚構にすぎない」とか言ってバッサリ切り捨ててます。都合のいいつじつま合わせ。そういうとこ、あると思います。フロイトには。
で、mori0309さんの「真実在=高め、導くもの」という捉え方で言うと、近いのはユングが挙げた元型の一つ「自己 (Selbst。Egoではなく)」や、あるいはエリクソンの言う「自己同一性(アイデンティティ)」でしょうか。両者とも、純粋な科学としての心理学というより、少し倫理学に片足を突っ込んだようなところがあって、「生きる目的」みたいなものを提示しています。一言で言えば「自分らしさを作っていく」みたいなことですが。これらになりますと、フロイトよりは自我の能動性に大きな役割が認められているように思います。周囲の社会と自我とが、相互媒介的に作用して作られる「理想の自分」、そしてそれに近づこうとする生の営み、という形。「存在は本質に先立つのだ! 自分の本質は自分で作れ!」というわけです。でも、これって、先に挙げた「文学的主題としての自分」と同じようなものですね。なんだかなあ…。
あ、ちなみに言うと、僕はフロイト以上にユングは信用してません。その筋の人にはメチャメチャ怒られるでしょうけど、あれ、エセ科学だと思ってます。トンデモ系の方々にとって居心地のよい砂上の楼閣。「集合的無意識? あるわけねーじゃん、んなもん」「シンクロニシティ? ぐーぜんだよ、ぐーぜん」というのが僕の立場。おもしろいのは認めるんですが。
さて、最後に四番目。
身体論です。身体論と言えば市川浩さん。精神と肉体を単純に二分するのではなく、渾然と一体となった相において人間を眺めてみるというものです。この立場の議論になると、身体というのは必ずしも「皮膚に包まれた肉体」という客観的な実在とは一致しません。鷲田清一さんが『普通を誰も教えてくれない』で使っている例ですが、例えば、怪我をして杖を使い始めたとき、どうしても違和感を感じるけれども、慣れてくるにしたがって、「感覚」が杖の先にまで伸びていく、なんてことがあります。他にも、公共の場所(図書館など)で、いつも自分が座っている席に他人が座っていると、なんだかムカつく、とか、テレビ中継でヘリコプターから撮った映像を見ると、自分も飛んでいるような眩暈を感じる、とか。要するに、「身体」は、意識の状態いかんによって、可塑的に広がったり縮んだりする、ということです。
「単なる思い込み」かもしれません。が、これはこれで、自分というものありようの一つにはちがいないでしょう。
第一部は、これでおしまいです。長くて本当にごめんなさい。で、結局、何が言いたかったかというと、「真の自分とは…?」という問いの立て方だと、ざっと挙げただけでも上記のような多岐にわたる領域のどこから考えたらいいのかわかんなくなっちまう…ってことです。議論が進むにつれて、だんだん明らかにはなってくるのでしょうが…。
問いの立て方って、けっこう大事です。問いの立て方次第で、思いもよらぬほど生産的な思考が生まれる場合もあれば、逆に、何かを決定的に見えなくしてしまうことだってある。…という、そういうことを言いたかったわけです。
二部は機会を改めます。そっちは短くて済むはずです。
- 回答No.23
レベル14
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(1014/1775)
stomachman、今度は回答ではなく応援です。
わーい。また走り出したぞ! 質問者別回答数ランキングならmori0309さんて絶対グランドマスターですね。
mori0309さんは「これは議論の場ではないのでは」と心配していらっしゃいますが、いやいや、いろんな意見があり、いろんな観点がある。それがみんな回答なんですよ。こういう使い方ってアリです。
皆さん楽しんでます。心おきなく議論を展開してくださいね。
- 回答No.24
レベル13
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(98/698)
横からちょっと一言・・・
ここのファンになってる一人です。
皆さんのようにたくさんの言葉をつかって、表現できませんが・・・
ただ、なぜかここの質問に対するレスが気になるんです。
stomachmanさんは、次にどう切り返してくるんだろうか・・・とか
他の人はまたどんな意見を掲げてくるのか・・・
一人一人の意見に対して、mori0309さんはなんて答えるんだろうか~?
ここをのぞきにくるとどれもコレも『ふむ、ふむ・・・そんな考え方もできるんだ!面白いぞ!!』なんて、読者気分です。
真面目に語られているstomachmanさんもこのまえどこかで、成人式の事に関して
少し触れておられた中で、射撃の腕前がどうのといってられたのが・・・・
すっごいジョ―クの利くお茶目な面があるんだなって・・・・ウケました。
そんなこんなもあわせて、読んでて楽しんでいるものもいるので
できることなら今しばらく閉じずに続けていってください。
体力がいることとは思いますが・・・・
割り込んで勝手なこといってごめんなさい。
- 回答No.21
レベル11
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(98/357)
stomachmanさんにお答えします。
感性と感情。私は感性⊇感情と見ています。
理性とは意思・知性に関する点
感性とは欲求・感情・情緒に関する点
(新明解国語辞典・第三版[三省堂]1981より引用)
と言われています。
理性・感性以外にも実際にはtabioさんのおっしゃるように本能も加わります。
本能は生きるための欲求を与えます。これがなければ理性・感性だけでは人が活動をする根源的理由がありません。ですから理性・感性は本能を制御してはいるが、支配まではしていないでしょう。
私は「真の自分はこれだ!」と言い切れるほど単純だとは思いません。理性・感性・本能等が渾然一体となったものが真の自分だと思いますし、それは形あるものでもないと思います。
昔は非常に嫌いだった「我思う。故に我あり」という言葉が非常に的を得た表現であり、また、仏教の全ては「無」というのも正しいと考えます。
- 回答No.20
皆さん、すさまじいほどの回答を寄せられているんですね。
私など、及びもつかない論理的なお説ばかりです。
ただ、真の自分とは「良心」ではないかとありましたので、
私なりの思いを寄せてみます。
「心」というものを考えたときに、特にその構造を考えたとき、
私は重層構造をなしているのではないかと思うのです。
簡単に言えば、ラッキョかタマネギのようなものです。
まず、表皮に理性というものがあります。
表皮をめくれば、感覚・感情という層が出てきます。
それをめくれば、次に本能という、とても分厚い層が出てきます。
本能という層をめくれば、心の一番核となっている「魂」
というものになります。次はありません。
人間は生まれてすぐ、誰も教えていないのに、
母親のオッパイにムシャぶりつきますよね。
これは本能のなせるわざです。
エゴ(利己)と言い換えてもいいかと思いますが、
この本能は肉体を維持していくのに絶対に必要です。
赤ちゃんはやがて、五感(感覚)が発達していきます。
同時に感情も芽生えてきます。
その後、3歳か5歳ぐらいまでに前頭葉が発達し、
理性の原形が形成されます。知恵熱が出るのは、そのためです。
この時点で、私の言う「心」のベースができあがるのです。
以降、人は成長するにつれ、置かれた環境、または考え方などによって、
エゴの層、感覚・感情の層、特に理性の層の厚みを増していきます。
老年期に入ると、今度は逆になります。
まず、理性が薄れてなくなり、感覚や感情だけで行動したり、
ものを言うようになります。怒りっぽい老人が多いですよね。
また、感情や感覚に固執するあまり、世間から頑固だと言われたりします。
もう少し齢を重ねると、その感覚や感情も薄れてなくなり、
本能だけがむき出しになります。ボケ老人が、今ご飯を食べたことを忘れて
「ご飯はまだかいな」と言ったりしますね。本能だけになってしまったのです。
本能がなくなれば、もちろん死を迎えるわけです。
さて、ここで本題に戻らなければなりません。
今言う心の重層構造のなかでは、最初から存在して、齢を経ても消えないもの
がありました。「魂」というものです。「魂」と言えば、ヘンな捉え方をされ
かねないので、「良心」と言い換えてもいいかもしれません。
または、キリストが言うならば「愛」、仏陀が言うならば「慈悲」というもの
です。あるいは、「真・善・美」なるものと言ってもいいかもしれません。
しかし、先ほどから言っているように、この魂というものは、三層の分厚い皮
で覆われているために、なかなか表に出てきません。ただし、これがフイに表
面に出てくることがあります。真なるもの、善なるもの、美なるものに触れた
ときです。
坐禅やヨガなどで悟りに至ったとき、つまり、真なるものを知ったとき、
随喜の涙がこぼれると言います。
また、何年か前の冬、アメリカで飛行機が離陸か着陸に失敗し、凍てつく川に
墜ちたことがありましたね。あのとき男性の乗客が、子供だったか女性を先に
救出させ、直後に沈んで亡くなった事件がありました。テレビを見た人は、
おそらくほとんど全員が、善なるもののあまりの美しさに、理屈抜きに深い感
動をしたと思います。
あるいは、美しい景色を見たときも、人はなぜかしらん、涙をこぼすときがあ
ります。
長くなりそうなので、端折ることにして……。
つまり、そういうものが真の自分だと、私は思うのです。
蛇足ながらに────、
言葉遊びになるかもしれませんが、ヨガの世界では、悟りの境地に達したときのことを、真の我に達したという意味で「真我」に至ったと言うそうです。
もっと続けようと思いましたが、ちと疲れてきたので、この辺にしておきます。
- 回答No.18
レベル14
ベストアンサー率 57%
(1014/1775)
nonkunさんに質問。
理性・感性に対して感情はまた別物だと思うんですが、nonkunさんのお説では、感性と感情は区別されないんでしょうか?
- 回答No.19
レベル14
ベストアンサー率 25%
(873/3452)
> そうですね。「真の自分」とは「良心」のことであり、それは個人の脳のなかの具有物ではなく
> 社会の人々と共有しているものなのですね。そういう気がしてきました。世の中の人々は、皆、
> 良心によってつながっているのですね。
> (心理学や大脳生理学に、このしくみの説明を求めることはできるのでしょうか)
これは社会学の分野です。
また、心理学で扱うものの中に認知機構の分野があります(心理学という言葉を挙げるわりには不当に軽視している雰囲気を感じますが)。
どうも心理学をオカルトっぽく捕らえているように見えてしまっているのですが…
自分の都合の良いものだけで一刀両断しようとしているあたりもオカルトっぽいです。
> 小林秀雄サマは「そういう思想は人間の生きる勇気を奪う思想だ」とおっしゃっておられまする。
小林秀雄を知らないのですが、それも社会との相対からの“派生”の上に、主張に対する論理的説明がなされていない単なる感情的な言葉の引用に見えます。
「真の自分」に対する質問なのにおかしくないですか?
ところで、
(人類)愛 = 慈悲
こう言いかえれば抵抗を感じる人は減ります。
P.S.
「オカルト」と書いて気づきましたが、「それはエクトプラズムだ!」といいながら、エクトプラズムを説明しない疑似科学と同じ様相を呈しているなと思いました。
科学ではエクトプラズムとは何だろうと仮説を立てたり研究する行為自体であって、「それはエクトプラズムだ!」といった時点で科学では無くなるんです。
#24519のNo.77538あたりが少し参考になると思います。
- 回答No.25
Mori0309さん忙しそうだから…ちょっと待ってたんですが…いっちゃおうかな…なんか…止まってるし…
つーわけで、いきます。
まず、ユング問題から。
僕の知る限りで、mori0309さんの言う「真実在であるような真の自分」というものに、もっとも近いイメージを持つのが、ユングの語る「自己 Selbst」であると思われます。個人的な好悪は抜きにして、説明します。
「自己」は「元型 archetype(注)」の一つで、数ある元型のうち、比較的後年になって提起されたものです。特徴は、
・数ある元型の中でも、「ペルソナ」「アニマ(アニムス)」「影」と並んで、人格の中で中心的な役割を果たすもの。
・人格全体を組織的に統合する原理としての役割を果たすものであり、人格の目的である「個性化(自己実現)」に大きく寄与する要素である。
・先天的な形で集合的無意識の中に刷り込まれているが、ある程度「個性化」が進展するまでは潜在的なものであり、これが顕在化するのは中年期以降であることが多い。
…といったあたり。
注目していただきたいのは、まず、「自己」が「自我 ego」とは区別されている点。自己は自我に対して、無意識のレベルから絶えず「個性化」へ向けた働きかけを行っていますが、自我がこれに気づかず、無視していると個性化が円滑になされない。逆に、自己と自我が親和的関係を結べている場合、人格は高いレベルで完成されていくのです。(仏陀とか、イエス・キリストがそういう人だったそうです。)
また、「ペルソナ」とも区別されます。「ペルソナ」は「仮面」という意味で、要するに「他人向け・社会向けの顔」、対外的人格の要素です。この「ペルソナ」という元型に、経験の内容が加わっていって、人格の「外面」が形成される。そういう意味では、フロイトのいう「超自我」に重なる部分が大きい。
言い換えれば、ふだん自覚できている「自我」とは別のもので、しかも「自分の中に内面化され再生産された他者」でもない、ということです。どうです? Mori0309さんの「真の自分」イメージに近いでしょ?
もし興味が持てるようでしたら、ユング関連の書籍でもひもといてみてはいかがでしょうか。日本国内では河合隼雄さんが第一人者で、信頼が置けます。わかりやすいし。簡便なものとしては、C・ホールとV・ノードバイ共著の入門書があります。ユング自身の著作も、たいてい翻訳されています。難解で、しかも高価ですが。
ただし、ユングに関して著述している人たちの中には、アヤシイ人たちもいっぱいいます(僕自身は、そもそもユングからしてアヤシイと思ってる)。懐疑的精神・批判的精神をお忘れなきよう。
さてしかし、「オッカムの剃刀」ってのがあります。「同じ程度に合理的に説明することができるのなら、余計な仮定や仮説が少ないものの方が正しい」という論法。これはこれで濫用すると危険なのですが、しかしいくらなんでも、ユングにはこの剃刀で切れる要素が多すぎる。体脂肪率50%超のデブデブであります。「中年期以降の《自己》の顕在化」にしても、
「あー、年とれば、誰だって人間丸くなるわなー」
…で、済むのではないか、と。それを、例えば、中年のオヤジになってただ単に世間に妥協して俗物になり果てた(ああ…なんか、自分で書いてて痛いぞ…)場合には、「うーん、あんまり《自己》じゃない…」と「診断」し、逆に、突然人間愛に目覚めて職をなげうって「国境なき医師団」に参加し、弾の飛び交う中で点滴チューブを運びまくる生き方を選んだりした場合には、「おお、これこそ《自己》!」とか「診断」する…。…要するに、後から取ってつけた主観的評価なのではないか。後から見て「うーん、立派だ」と思える要素を実体化・擬人化して「自己」と呼んでいるに過ぎないのではないか。
「説明のための虚構 explanatory fiction」が、これを糊塗するための別の「虚構」を呼び、かくして「虚構のための虚構」が暴走している世界、それがユング心理学の世界だと言ったら言い過ぎでしょうか。
ユングの話が長くなりました。すいません。頭の中で電波が「書け、書け」と言うもので…。
ここで少し話を一般化します。少々、視点を哲学よりにズラし、前にuploadした書き込みも踏まえて「自分」論の私見も示すことにします。ですから、Mori0309さんへの直接の回答からは、ちょっと逸れてくるところもあります。
まず出発点となる、そしてある意味で(僕なりの)結論でもある一言をば。
「《自分》とは、《自分》の、ある特殊な状態である」…です。
古来、多くの哲学者たちが指摘してきたように「知」の始まりは「驚き」です。当たり前に見ていたものが、何かの拍子に異形の姿で立ち現れる。で、「なんだこりゃ?」と「知」が働き始める。「自分」というものについても、同じなのではないでしょうか。おそらく、人間誰もが成長過程のある時期に問うていることでしょう。「おれって、何者?」「あたしって、誰よ…」と。
その時、何が起こっているのか。まず、強さの多少はあれ、「自分」というものについて驚いています。当たり前の自分が、当たり前でなくなっているのです。起きて、メシ食って、学校行って、帰って、遊んで、フロ入って、寝る。そういう、半ば自動化された日常の、単線的で平板な、しかし安定して危うさのない、そういう状態から、「自分」がどこかで逸脱しているわけです。
きっかけはさまざまでしょう。かーちゃんに叱られてとか、カノジョにフラれてとか、職場の人間関係で悩んでとか、日本の将来に漠然と不安を覚えてとか、世界の現状に悲哀を感じてとか、宇宙百三十億光年の広がりに茫然としてとか…いろいろでしょう。Mori0309さんも、たぶん、「自分」をして「自分」を主題化せしめるような「何か」を、感じるか経験されるかしているのではないですか? SEとして多忙な毎日を送っている、その日常の間隙に、ふと入り込んだ不安の種…みたいなものを。
といって、僕も人生相談モードに入りたくはありませんので、そっちのことはmori0309さん自身に考えてもらいたいと思います。
とにかく、他の対象と同様に、「自分」なるものも、そうした驚きに媒介されて主題化されてくるということです。
ところが、その「自分」というヤツ自体は「他の対象と同様」ではない。他の対象と違って、「客観」の札を貼った棚に収めきることが、決してできない。「今、自分が何を考えているかを内省する」とか、ある程度はできます。でも、「内省されている自分」を「内省している自分」は、「客観棚」にはしまえません。もっとがんばって問いつづけても、しまいきれない「自分」は残ります。(山口雅也さん『ミステリーズ』所収の短編ミステリーに、似たような話があります。けっこう面白かったです。)
そうした、「自分」をどんどん削っていって「客観棚」にしまい込んでいくという「本当の自分」へのアプローチは、きりがありません。こういう感じに、問題が無限循環に陥ってしまう場合、たいていは問いの立て方自体が間違っているのであり、やり続けても意味のある結果は出ないものです。実際、この「削って削って」の結果出てくる「自分」なんて、抽象的で無内容な観念でしかない。「自分という、自分の一つの状態」にすぎない。まぎれもなく「自分」の一部であるものを捨象した残りかすでしかない。
じゃあ考え方を逆にしましょう。削っていく引き算ではなくて、全体をつかむ方に。つまり、「自分とは?」などとは決して主題化しようとしないような、ふつうの日常的な状態まで含めて「自分」と捉えてみましょう。
この状態では、「自分」は「自分」にとって透明な、「見えない」ものになっています。意識されないということです。周囲の世界と自分とが、ごく自然に噛み合っていて、まったく齟齬がない。ノーテンキに生きています。「自分」なんか意識しない。…でも、これだって、まちがいなく「自分」の一つの状態です。ここでは、いわば、もう「自分」なんていない。「自分」がそこに溶け込んでいる「世界」だけがある。つまり、「削って削って」をやって、凝視された一点としての「自分」とは、まったく対極的な様態の「自分」の在り方ということです。
さて、これで両極端が出揃いました。これら両極端の状態の間を、「自分」は行ったり来たりしているわけです。
こうした両極端の状態を取りうる存在としての「自分」は、「量子のようなもの」と比喩的に表現するのが一番わかりやすいのではないかと思います。「波動でもあるもの、粒子でもあるもの」と。「量子は波である」と表現すれば、それは間違いではないが、一つの抽象であり、「量子は粒である」と表現すれば、これも間違いではないが、やはり一つの抽象です。人間も同様ではなかろうか、と。例えば、横浜スタジアムの外野席で突然ウェーブが起こり、それが伝わってきたとき、愛するベイスターズが勝っているので気分がノリノリになっているozapanは思わず腰を浮かせてしまうわけです。また、ゆうべ殺虫剤で弱らせたゴキちゃんを、そのままにしておいて今日ふんづけてしまった。あーなんてバカなんだ、オレは…と、苦く深い自己嫌悪と共に「自分」と直面するozapanも一方にはいる。が、そのどちらか一方だけが「真のozapan」ではない。どちらか一方に固定して捉えることはできない。
そういう意味では、世界に溶け込んでいる間に「自分」の中に入り込んできた他者の要素も、広く捉えれば、やはり「自分」にはちがいない。
「みんな…僕の中にいるんだね…」
…なんだか、エヴァンゲリオンの最終回のようなオチになりましたが、そういうことだろうと思うのです。
要するに「自分」ってそういうものなんですから、ある考えを抱いたとき、「本当に自分の考えなのか、それとも、自分の中の他人が無意識的に影響しているのか…」とか、あんまり考えない方がいいのではないかと思います。考えるだけ無駄でしょう、おそらく。そんなこと考えるより、その考えを進めたり、検証したり、練り上げたりすればいいんです。何かうまくいっているときは、むしろ、その事柄の中に「自分」が溶けている方が普通でしょう。音楽家の故・武満徹さんも、「自分が」曲を「作る」のではなく、音が「向こうから語りかけてくるのを待つ」のだと言ってました。逆説的ですが、そうした形で「自分が消えている状態」のときこそ、「自分」が最高に輝くこともあるのだと思います。
さて、短く済ませると言いつつ、長くなりました。どうも…書き始めると止まらなく…で…電波が…みんな電波が悪いんです。電波のせいなんです。うう…
注:元型というのは、個人の意識レベルでの経験によって獲得された「内容」を得て発動する、集合的無意識に刷り込まれた「器」のようなもの。「老賢人」とか「大地母神」とか「永遠の少年」とか「悪魔」とか「英雄」とか「樹」とか「太陽」とか「風」とか、もう、やんなっちゃうくらいいっぱいある。これらの「器」が経験を通じた「内容」を得て発動するというのは、例えば、「英雄」の元型を持った人がネガティブな経験を重ねると、ヒトラーみたいな人になってしまうとか、そういうこと。…なんだかなあ…。
- 回答No.26
レベル14
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(1014/1775)
stomachmanがユングと言いたくて言えないのは、そのトンでも性のせい。(「元型」は何でもアリみたいでどうも....オカルト系の話に至っては「やめてくれぇ。」)さすが、ozapanさんの解説は分かりやすいや。でも「電波」は、やばい病気の初期症状ですから病院に行きましょうね(^^;
さて、mori0309さんご注文の、ゲーデルに関連する、自己言及の困難性についてちょっとやってみましょう。たとえ話から。数は数字で表す以外にも、その性質を言って指定することができます。「最小の素数」だとか、「最初の完全数」だとか。「2の平方根」なんてのは、性質によってしか表せませんね。では数を自然数に限ることにして、P:「23もじいないではあらわせないさいしょうのかず」って幾つでしょう。使う言語を指定すれば、この命題Pの意味は厳密に定まります。実際、使う文字をひらがなと数字に限定して、「あ」「い」.... 「8」「9」「ああ」「あい」「あう」... 「さいしょうのそすう」「さいしょうのそすえ」「さいしょうのそすお」..... と並べていけば、23文字以内で表せる数が網羅できます。(数学的言語を定義することで、これをホントに厳密にやるのも可能です。)実際Q:「1もじではあらわせないさいしょうのかず」ならそれは10ってことですね。Pを満たさない数を網羅できる。その個数は有限(<(使える文字の種類)^23)である。にもかからわず、もし命題Pで一個の数Nが指定できたとすると、その数Nは23文字以内の命題であるPで表せる訳だから、Pを満たさない。だからNはPが指定する数ではありえない。つまり、Pは数を指定しない命題です。もう一回Pを読んでみましょう。なんだかおかしいですね。
「自分」というものを考えている「自分」が、考えの対象である「自分」を対象化すること(ozapan先生の用語では「主題化」)には、究極的にはこれに似た困難性があります。意味があるように見えて実は何物をも指さない命題、というのが出てきても、ちょっと見分けがつきません。言語の意味を精密に定めてもこのざま(Pの例)ですから、用語それぞれが様々な分析・解釈を許すような状況では手に負えなくなるのは当たり前。その上、考えの対象である「自分」が静的ではない。動き回っているプロセスそのものなんですから。
自分じゃなく他人の心を考察すること(「超数学」に対応)は或る程度可能でしょうが、行動主義・機能主義的な壁、つまり主観的にどう感じているかを無視してしまうことになるのでは詰まらない。
どうやら、答を求めるのではなく、「わからなさ」をいじくっていろいろな蘊蓄を楽しむ、というのが正しい態度のようであり、自己言及するなら、この意味でこのシンポジウム(本来、酒酌みながら議論を楽しむこと)も誠に「健全(sound)」です。
次に、mori0309さんの仰る「真実在=高め、導くもの」て概念ですが、これは面白い問いだと思う。こうしてOkWebに質問を投げていらっしゃること自体、mori0309さんが、これが普遍的な、誰にでもあるものと考えていらっしゃることが分かります。ところが自堕落にやってるstomachmanは普通自覚しない。自覚した記憶もはっきりしない。いや、もともとないかもしれない。超自我やコンプレックスの影響を除くと、見あたらない。ことに「高める」という方向性がない。
信仰を持っていらっしゃる方(特に大人になってから(現世利益じゃない)信仰を真剣に始めた方)の場合には、多分「神」の概念がこの役割をしているんじゃないでしょうか。逆に言えば、宗教には(必ずしも悪い意味ではなく)思考停止の機能があって、「私は誰?」「明日はどっちだ?」みたいな悩みを吸収してくれる。mori0309さんがそういう状態にないことは明らかで、かつ、「高め、導くもの」を実感していらっしゃる以上、神道の神のようなものかな、と思ったんです。
そこで、まずは皆さんが自分の中にそういう存在を実感していらっしゃるのかどうか、それを知りたいと思うようになりました。どうでしょう?
- 回答No.31
レベル13
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(98/698)
<読者の声>
ちょこっとまえは、心配しました・・・・オカルトの世界に突入するの????と・・・
☆stomachmanさんのいうところの
>『セミオ-トマチックな自己全体・・・・・』<―――――(納得!)
さらなる展開を期待しています。mori0309さんが、どう返答するんだろうね?
手ごわいね、stomachmanさんは・・・・腕組みして怪しい笑みを浮かべて
mori0309さんの返答を待ってるような姿を想像してしまいました。
もしかしたら?葉巻でもくわえてたりしてね・・・・(洒落です!おこらないで!!)
このやりとりを生で見られたら、TVの「朝まで・・・」なんとかの
討論番組よりももっともっと、面白いだろうね―☆
がんばれ~~~~!!
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