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江戸幕府の財政悪化~享保の改革前~
享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?
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徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました 他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした そのうえ 米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり 米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです 結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました 社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません これが根本的な原因です 商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、 縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです
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- Willyt
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江戸時代の幕府の財政がすべて米を売った代金で賄うという前時代的なシステムを明治維新まで変えることがなかったことが幕府財政悪化の根本です。 元禄に入ると既に日本は都市を中心に商品だけでなく第三次産業が大きな役割を果たすようになっており、武士から町人に至るまでその支出の中にサービスへの対価の支払いが大きく膨らんでいたのに、そこから財源を確保することを全く怠ったことが最大の過ちでした。 経済が膨らむと通貨が必要になるのは当然で荻原重秀は小判の改鋳によってそれを克服しようとしたのは実に正しい対応だったにも拘わらず、天下の惡人のように幕閣がこれを追求したのは無知もいいところでした。金兌換の紙幣にすればよかったのですがね。そこまでは当時としては無理だったでしょう。武士といえどもサービスに対する出費は膨らむ一方なのに給料は全く増えないので借金でこれを賄うというムチャクチャな対応が武家社会を借金まみれにしてしまい、商人に頭が上がらない情況に立ち至ったのは全くもって無知からでたことでした。取引高税を取ればどうってことなかったのですよ。 その揚句にバカな老中が出て来て倹約令です。これは橋龍がやったことと全く同じで景気が一気に冷え込み、庶民は塗炭の苦しみにあえぐことになりますから、そんなものは長続きするわけがないのです。だから元の黙阿弥になるのは目に見えていました。そんなことの繰り返しで明治維新に至るのですが、それは経済に対する幕府の無策が庶民の心が徳川幕府から全く離れてしまっていたのでいとも簡単に崩壊してしまったということです。 今NHK教育TVが最近見つかった加賀藩の武士の家計簿の分析を紹介していますが、そのあたりの事情を見事に説明していますよ。 江戸の町で一番沢山いた職人は何だかご存じでしょうか? なんと植木屋なんですよ。これはもう純粋にサービス業ですよね。江戸時代は既に情報化社会に入っていました。だからこそ明治になるとたった27年でキャッチアップしてしまったのです。
NO2です。すみません。間違えました(_ _。)・・・シュン…… 綱吉の後が影が薄いので彡(-_-;)彡ヒューヒュー
- nik670
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スカパーで「徳川吉宗」が今放映されていますが 8代になってから「享保」と元号が変わりました。 吉宗が将軍になる前から財政難でした。でも当時 吉宗は紀州藩主だったので紀州藩の建て直しを行 いました。 紀州藩が財政難になったのは、5代将軍に紀州に きてもらうための御成御殿を作ったり、紀州藩の 藩主、次の藩主が次々に亡くなっての葬儀代、 さんきん交代の費用などでした。 吉宗が紀州藩主になってからは倹約倹約で、将軍 になってからも大奥の人数を減らしたりしていま した。4代将軍がまつられている寺が火事になっ ても再建しないで、3代と一緒の寺に奉れ!みた いなことも言っていましたよ。 財政難は大河ドラマ見る限りでは少なくても5代 将軍時代からは始まっていました。
- fe-shokugyou
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ちなみに、吉宗は八代目で綱吉は五代目です。
- fe-shokugyou
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研究者ではありませんが。 基本的に、武士の給料は『石高制』といい年貢米の年毎の米価次第で給料に差が出るという不安定な制度だった。 「米価安の諸色高」 幕府財政事情の悪化は、幕府直轄の鉱山の産出量減少、鎖国による朱印船貿易の停止、度重なる江戸での大火の処理による出費が主たる原因であり、なにも吉宗のころに突然なったわけではありませんよ。 また諸藩については、幕府からの度重なる土木工事(普請)への出費の命令や、一年毎の参勤交代による巨額の出費がかさみ商人から借り入れを繰り返しながら生活していたわけです。 「米価安の諸色高」とは、安い米価に対して生活必需品や米以外の食糧の値が高いということです。 廃刊になっていなければ、小学館「学習漫画・日本の歴史」でそのあたりの記述があると思われますので、多分質問文の中身は解消されると思いますが? それと余談?ですが、下の方の回答内容は事実誤認です。歴代将軍を含め徳川家のことが出ていますので、下の参考URLを見てください。
吉宗の前将軍は綱吉ですね。そう元禄時代!好景気に沸いた、金銀が街中にあふれ物の値段は、異常な値上がりを続けていた……えっ!?何時代だっけ?江戸時代だよね、まさか日本の平成パブル時代では、ないかと思えるような時代の後に将軍として登場(=^・^=)したのです。そして現代まで続いています。時代は、繰り返すを地で行ってます。全部では長くなりますので省略!
- yakyutuku
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>上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか? 貨幣経済の浸透も勿論すすんでいたと思いますが、有事の米という感じで戦があれば米価はそこそこでも、永らく戦がないと米価は退潮傾向を示すのではないでしょうか?多分、「米価安の諸色高」は家康死亡以来一貫した傾向と思います。
お礼
的確に回答していただき、ありがとうございました!URLも参考にさせていただきます。