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人は何故、人を殺してはいけないのですか?

天海祐希が主演する女王の教室というドラマがありました。 小学6年のできの悪い生徒を教える先生役でした。 その中で、生徒に「人は何故、人を殺してはいけないのですか?」 と問われる場面がありました。 今、私は的確に答えることができません。 この質問に対して、生徒にどう教えるべきでしょうか。(Q1) また「人を殺してはいけないとわかっていながらも人 はどうして人を殺すのですか」という問いに対しても どう対処すべきなのでしょうか。(Q2) 意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。

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  • syumon
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回答No.6

Q1~日本人の心の原風景にある神道では、一即多、多即一という考えがあります。この質問へのアプローチは様々な哲学的観点から出来得るのでしょうが、小生は神官の免許を持っている立場から、その観点で申し述べさせていただきます。さて、一即多とは、総ての事物に神が宿ると言う考え方です。つまり、我も神なら、彼も神と言うことですね。と同時にそれは等価を表わしてもいます。つまり、我が尊ければ彼も尊いのです。もう一つ踏み込めば、彼も我も同じと言うことです。総ての人々が神の分霊、分け御魂とも言えます。つまり、人を、他人を殺すと言うことは、自らを殺すことに他なりません。それによって様々な因果が起こると言うのは、それはそれで各宗教が示すところです。自分で自分を殺すと言っても、それは自殺とは異なります。この世の中にあなたが生まれてきた確固とした理由があるように、彼にもその理由、役割があります。その役割を総て無にしてしまうのが、殺人と言う行為です。本当の意味で死にたい人間など、この世の中にはいません。その生を摘み取ると言うことは、むごく又悲しいことです。ですから人を殺してはならないのです。 Q2~人を殺してはならないとわかっていたら、誰も殺しはしないでしょう。おそらくこの2番目の質問は、例えば戦争のような場合を言っているのでしょう。これに答えることは相当長くなるので割愛しますが、特異な状況においては、また違った答えが生まれます。唯一つだけ言えることは、どちらの場合も、殺した側には自分が生きている間中、深い後悔の念にさらされることだけは間違いの無いことのようです。

myfrend
質問者

お礼

syumonさん、難解な言葉ですが納得できました。自分がされたくないから・・という 思いは確かにあります。でもそれは実は人のエゴかなと思っていました。なので人 以外、例えば昆虫や動物のこともあわせて考えると?でしたが納得できます。 彼にも役割、理由があると言うのは人間としてのエゴとは少し違う特権?だと 思っていいのでしょうか。。 Q2は戦争のことを直接いった訳ではないのですが、そこまで考えてしまいますよね。 また、Q1とQ2を同時に聞いてしまい混乱しそうで失敗しました。

その他の回答 (30)

  • aozola
  • ベストアンサー率12% (72/563)
回答No.31

もう締め切っているのかもしれませんが、一応書いてみようかと、 Q1ついては、人を殺してはいけないのは何故か、人を害せば、結果として自分も害することになる、と思います、つまり人を殺すと、それは余程の理由がない限り自分や自分の人生をゆがめるのではないでしょうか、つまり人を殺すことにより、自分の存在をも殺すことになる、私はそんな気がしますね。 Q2については、人は短期的観点に立つ生き物だということ、毎日何年後のことばかり考えて生きる人はいないですから、人を殺すことは場合によってはその場ではメリットがあるかもしれませんが、長い目で見ればデメリットでしかない、が、人間は短期的に考えるわけで、その場の考えで動くことがあるので、殺すこともあると、そんな風に考えてますけど。

myfrend
質問者

お礼

aozolaさん、わかりやすい回答をどうもありがとうございました。ここで一旦、締め切ろう と思います。 A1.は人を殺すということは、まわりまわって自分自身を殺す(傷付けるや与えるも 一緒かな?)ことにつながっていくということですね。 A2.は人はどうしても短期的視点なもので、不利益なことがあると長期的にものを 考えずして行動してしまう結果そうなってしまうということですね。日頃からそう ならないよう訓練が必要ですね。  ///////////////////////////////////////////////////////////////// 皆さんの意見を大切に、その意見を伝えるとしたらどのような表現で伝える のがよいか考えたいと思います。 どうもありがとうございました。

  • Elst
  • ベストアンサー率33% (24/72)
回答No.30

社会の不利益になるからだと思います。 社会が必要とする場合は人を殺してもいいのです。端的な例が死刑ですね。 人を殺してはいけない、というのは、社会が自らを維持するために発するプロパガンダです。ですから人を殺したほうが社会の為になる場合は簡単に変節してしまうのです。 「それでも、死刑執行人や、侵略者と戦う兵士にもためらいや良心の呵責があるはずだ。」という主張もあるでしょう。そうですね。私はそんな役目を引き受けたくありません。しかし、世の中には殺人に快楽を覚える人間もいるのです。自分が殺されたって全然構わないっていう人間だっているのです。 (Q1)への回答 絶対に人を殺してはいけないわけではないが、通常これは許されない。これは社会の要請である。ただし、多くの人にとって、人を殺す行為は、いけないとか言う以前に嫌悪の対象であるから、このような質問は出てこない。もし君がそう思わなくても、社会は君が人を殺さないことを望んでいる。 (Q2)への回答 人を殺してはいけないとわかっていながらも殺すのは、それが殺す本人(または社会)にとって利益になると判断されるから。 ある殺人が私的な利益しかもたらさない場合、社会にとっては逆に不利益になることが多い。そのため、私的な利益の為に人を殺した者へは、社会がそれ以上の不利益(制裁)を与えることが普通である。これが私的な殺人への抑止力として働くことで、社会の利益が損なわれないように工夫されているのだが、制裁を受けてもなお私的な利益が勝ると判断されたり、制裁から逃れられる公算があるときには、私的殺人が行なわれる。 ある殺人が社会に利益をもたらすと判断される場合、すでに人を殺してはいけないという前提も崩れている。が、社会は普通、殺す役目を引き受ける人間に対し、利益(報酬、名誉、家族の生命の安全)を与える。なぜなら殺人は多くの実行者にとって不快な行為だからである。不快な行為であっても十分な見返りがあるからこそ、納得の上でこれを引き受けることができる。

myfrend
質問者

補足

Elstさん、こんにちは。回答どうもありがとうございます。 (Q1)への回答・・・わかりました。納得ですね。 (Q2)への回答・・・不快な行為であっても十分な見返りがあるから、人の尊い命を 奪ってしまうということなのでしょうか。つまり人の命の尊さ、人は何のために 生まれてきた等の教育や自分で考えることの機会がなかったということでしょうかね。

  • cyomin
  • ベストアンサー率10% (11/102)
回答No.29

小学生に答えるとして、 人は一人きりで生きていくのは寂しいから仲間を求めますよね。 本当は世の中の人、みんなが仲良く暮らしていければいいのだけれど、人は自分の考えと違う人を受け入れられなかったりして人を殺してしまう過ちを犯してしまう場合があります。 そうやって殺してしまうとそこには憎悪しか生まれません。残された家族や友達同士で憎しみ合って生きていくことになります。 だから人を殺してはいけないし、人を殺してはいけないと分かっていても殺してしまう場合があることを知っているから、人は人を殺してはいけないと決められているんです。 どうでしょうか?難しいですね。 ドラマは見ていないのですが、その先生はどのように答えたでしょうか? 興味があります。

  • ayakaf
  • ベストアンサー率13% (8/59)
回答No.28

ドラマは見ていないんですが…。 Q1 武者小路実篤「真理先生」の序盤に同じ問いがありました。真理先生が答えることにはやはり自分が殺されるのが嫌な人は少なくとも殺してはいけないと言うことです。私もそう思います。いつ死んでもいいや、とか、だからそんなこと言われても関係なく人を殺してもいい、とか、人はうっかりするとそんな考えに陥ってしまいます。私もそうです。ものすごく憎い人が出来ること、それってきっと誰にでもある。理由無く人を傷つけたいと思う人も、(哀しいことだけれど)中には居る。でも、本当にそうですか?死んでもいいですか?だから殺してもいいですか?死について、夢を見たり考えたり、或いは近しい人が現実に亡くなったりしたとき、「少なくとも私は」そんな考えが間違っていたことに気付きます。極端な話殺される夢を見たことがありますが、今までのネガティブな考えなんて(夢の中にせよ)全部吹き飛んで死にたくない!と思いました。人間は生き物です。「生きている物」です。「物」ではありません。本能的に死にたくないと思う。「どうして殺してはいけないのか」と問う人には咄嗟には理解出来ないかも知れないけど、また同様に、殺したくないもと思う。「戦争における人殺しの心理学」という本を読めばとてもよく分かります。実際「殺さなければならない」戦争時には、人を殺した兵士より、その前に自殺した兵士の方が多かったのです。(米軍が特殊なトレーニングでそれを「克服」して以来パーセンテージは逆転しましたが)本能レベルの話です。 「そんなこと問う方がおかしい、今の時代は変だ」とうちの親はしかめ面をしていました。ある意味ではそうかも知れません。でも、こんな時代なんです。全くこの問いを避けて通るのは、難しいことです。 所詮ルールなんて虚構です。問い詰めればきりがありません。「それでも」です。 Q2 ・正当防衛(本能) ・自分の利益(精神的なもの、漠然としたものも含む)を守る為(利益>人の命) あとは、そうしたことがないので、想像出来ません。

  • tkr1977
  • ベストアンサー率20% (80/395)
回答No.27

こんにちわ。 Q.1 多くの方が言われているように、究極の安全保障ですよね。 「私はあなたを殺さない、傷つけない。  だから、あたなも私を殺さないで下さい、傷つけないで下さい。」 って言う認識を社会を構成するみんなが持たないと、自分の身を守りきれません。 先ず、自らが「他人を殺しません、傷つけません」って姿勢を示すことから、この安全保障はスタートするのです。 Q.2 自分の身の危険を感じたから、他人を殺すなり傷つけるでしょうね。 理性のキャパシティー(余裕)をどう育むか。 私は、殺人者が近くにいたら怖くて不安になると思います。 故に、その不安を排除するために死刑はあってしかるべきだと思っていますし、他人の生きる権利を奪った人間が自分の生きる権利を主張するのはおかしいと考えます。 戦争にしても、自国の国民の生命が危険にさらされるなら、先制攻撃も選択肢の一つだと考えます。 もちろん、戦争にならないような外交は必要です。 だから、、、あなたのQ.2に対して直接的に答えるならば、 「自分の命が危険にさらされたから、人を殺しちゃいけないと思っていても、自分が生きるために人は人を殺してしまう。」 って感じでしょうか。 最終的に「自分の命が一番大事」ですから。

myfrend
質問者

お礼

安全を保障したいために最低限のルールをきめたということですよね。 (A2)は自分が生きるために・・・はやはり理性がどこまでその人間に育まれて いるかですよね。仮に究極の選択でここで人を殺さねば自分が殺されるという例外の 場面に限って、人を殺していいと自分が納得する。(ここで究極の場面である という判断を間違える人が多いような気がしますが) ということでしょうか。。

  • kneissl
  • ベストアンサー率30% (97/320)
回答No.26

まず、道徳や良心の問題ではありません。 この観念を持ち出すから、理解しにくくなる。 これでは、「道徳や良心のない人間は人を殺してもいいのか?」という問いに、答えられなくなる。 ルールです。 個人の自由が守られるための、最低限のルールです。 個人の自由が公理に反する時、それは法によって規制されます。 個人個人の自由を最大限効用化するためには、守られるべきルールが必要です。 その最たるものが、「人は人を殺してはいけない」です。 ですから、人が道徳や良心を持っていようがいまいが、人は人を殺してはいけません。それは、万人に自由を分配するための唯一の方法だからです。 でも、そのためにはもっと刑法が重くなくてはなりません。時効や刑法第三十九条は抹消されるべきです。現段階の日本では、ルールとしての規制も説得力としてはやや劣ります。しかし、道徳論や精神論よりはマシです。 最近、実に大きな難しい問題提起がなされました。 自殺サイトで自殺志願者とコンタクトを取り、殺害した男がいましたが、彼の行為は果たしてどこまでその罪を問えるでしょうか? 死にたくない人間を殺すから、各人の自由が損なわれるのですが、もし需給の関係(「死にたい」という需要と「殺したい」という供給)が成立すれば、果たしてそれが個人の自由の尊重であるのかどうか。 これは、ネット社会という人類史上初めて登場してきた事柄が引き金となっている事態で、前例がないだけにすごく大きな問題提起だと私は思います。 果たして、死にたい人間と殺したい人間がお互いの欲求を満たしあう行為が、罪に問えるのか? 殺人罪というよりも、自殺幇助とも言えそうです。すごく難しい問題だとも思います。 教育に携わる方なら、一度お考えになってください。 「人を殺してはいけないとわかっていながらも人はどうして人を殺すのか」 そもそも、人には人を傷つけたい、殺したいという欲求がある、ということは否定すべきでないと思います。 否定されるべきは行為であって、思想ではない。 ですから、人を殺したいと思うことは罪ではなくて、人を殺すということが罪なのだということを理解させる、そして、あなた自身も理解する必要があります。 それでもなぜ人が人を殺すかは、さまざまな要因があります。けっして、ひとつの要因だけで殺人が起こるのではないということは、説明するべきでしょう。 殺人者の人格を、特に非難するような社会的風潮が最近見られますが、実はその裏にはそれを生み出した社会というものがあって、けっして殺人者の人格や心理だけで殺人などが起こるものではない。それは事実です。

myfrend
質問者

お礼

kneisslさん、回答ありがとうございます。 「道徳や良心のない人間は人を殺してもいいのか?」・・・そんなこと いいわけないですよね。 生きていく上で最低限のルールとして位置づけるしかなかったのでしょうね。

  • Cidre
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.25

(すみません再度投稿してます。Cidreです) 成る程…エゴに繋がってしまう。一理ありますよね。 大人に対する答えでしたら… それは人間として「生きる」権利は人間誰しもに与えられた最も基本的且つ平等な権利だから。その個人の権利を奪ってはならない。なぜなら、それは最低限の社会の平和と安全と秩序を乱す行為だから…。 ですけど、子供には多分ピンと来ないですよね…。権利ってな~に?って事になるでしょうし…。 逆説的に、「じゃあ、あなたは人が人を平気で殺せる世の中や場所に住みたいですか?」「いつ誰かがあなたやあなたの家族を殺しに来るか、殺されてしまうか分からない、でもそれが当たり前とされる世界をどう思いますか?」と言う方法もありますけど… 何はともあれ、myfrendさんが色々と考えられて辿り着いた答えであれば、少なからず生徒さん達の心に響くメッセージになるのではないでしょうか…。  myfrendさんのご職業が実際に学校の先生かどうかは存知あげませんが、もしそうだとすれば、こんな風に一生懸命に考えてくれる先生が居ると知って、とても嬉しいです…。頑張ってください! (余談ですが、私の学校生活で、今でも懐かしく思い出す先生は、やはり真剣に生徒達に向き合って話しを聞こう、しよう、としてくれた決して「逃げない」先生でした。あの先生、元気でいるかなぁ?)

myfrend
質問者

お礼

Cidreさん、ありがとうございます。 >>(すみません再度投稿してます。 再投稿は全く構わないと思っていますよ。(私だけ?・・・) ところで、逆説的に説明するのはわかりやすいかもしれませんね。説明される側は 逆説的であろうが関係はないのですからね。 わかりやすくいろいろどうもありがとうございます。 あまり長くお店を開いていると帳簿をつけ忘れそうになりますのでそろそろ締めようか なあと思います。 それと今でも懐かしく思い出す先生はきっと元気でいますよ。。少なくとも私の恩師は 私の中でずっと元気で変わらずにいますよ。。

  • anemo5
  • ベストアンサー率25% (14/54)
回答No.24

もしも、あなたが人に教える立場の方でしたら、人の受け売りではなくて、 自分で見て確かめて、その多くの中から選び取ったことを人に伝えて行くのがいいのではないでしょうか? この手の問題は、哲学を勉強されては如何でしょうか?

myfrend
質問者

お礼

anemo5さん、回答ありがとうございます。 自ら見て確認するのはちょっとキツイです・・・f^_^; でも自分の言葉で 伝えることが大切ですよね。いかにわかりやすく自分で考えたことを伝えるか・・・ いい勉強になっています。

  • Cidre
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.23

既に沢山の方が回答されていらっしゃるので、もう必要ないかも知れませんが、一意見だと思い聞いて頂ければ幸いです。 myfrendさんがその質問に答える前に、まずは生徒さんに対して 『あなたが一番大切だと思うものは何?一番大好きな人は誰?』と聞いてみてはいかがですか? そして、『あなたの大好きな人が、ある日全く知らない人から殺されて、2度と会えなくなってしまったら、あなたはどう思う?』『一番大切なものが、ある日知らない人に盗まれてなくなってしまったら、その時あなたはどうする?』と聞いてみて、対処方法を各自に短く書かせてみてはいかがでしょうか。 そこで、子供達は子供達なりの答えを色々と考えると思います? 子供達に必要な事は、『自分で考える力』と『共感の心(他人の心を知る)』だと思います。これが欠如すると、地下鉄サリン事件や、残虐な犯罪に平気で加担・もしくは犯してしまうのだと思います。 大人がいくら考え、試行錯誤で良かれと思い出した答えでも、与えられた答えというのは、一時は感動しても、いずれ忘れられてしまうのではないでしょうか。 でも、自分で考えて出した答えは、中々忘れないですし、心のどこかに残るものだと思うのです。 誰にでも「大好きなXX(人であれ物であれ)」があると思います。 それがある日、自分の意思に関係なく他人から奪われる事への怒りや悲しみに想いをはせ、考えさせる事が出来れば、それぞれ生徒個人の感性にあった答えを与える事にならないでしょうか…? こういった質問には、より多くの意見がある方が良いのではないかと思い投稿致しました。 偉そうに聞こえましたらすみません…。

myfrend
質問者

お礼

Cidreさんの言われることは正しいと思います。わかります。でも、そうやって考えた 時、自分本位にならないでしょうか。正直言って難しいです。 そうしないために・・・ということが逆に、エゴに発展して・・・してしまう。 自分でも当初考えていたことから違う考えに変化?発展?しているのに気づき ました。また、もちろんいろいろな意見があり絶対的なものではないというのも 分かっています。だから、自分の考えも変化してもおかしくはないかなあと思い ました。 気づかせてくれたCidreさん、どうもありがとうございました。

  • syumon
  • ベストアンサー率45% (25/55)
回答No.22

皆様方のご回答を拝見させていただきながら、気がついたことがありましたので、直接的な回答になるかどうか・・・、追加させて戴きます。 「人を殺す」または「殺される」ことも含めて、死ぬと言うことをどのように考えるかが、根底になければ、どうもすれ違いの理屈になるだけのように思えます。中には死ぬことがとても怖いと、正直な意見を申されていた方もおいででした。 きっと小生も死ぬときにはどたばた、あきらめ悪く死ぬのではないかと、秘かに既に恥じ入っておりますが(笑)。  このような考え方は出来ないものでしょうか。 つまり、「死とは、現世の卒業」「死とは言ってみれば、この世の中で生きてきたことへの卒業証書」 それは、この問題のように、殺されるにしても、殺したことで死刑になるとしても、事故で死ぬにしても、病気で長患いをしながら死ぬにしても、天寿を全うするにしても・・・です。 私事で恐縮ですが、小生の母親はこの2年間、脳梗塞で寝たきりです。母を見ていると、まだ卒業できないのだな・・、と胸が塞がれる思いがします。それでも、意識があるのかないのか、肉体は懸命に生きようとしています。まだ生きていると言うことはきっと母なりに、自分の役割を果たしているのでしょう。まだ卒業証書が出ないのかもしれませんし、この世に気がかりなことがまだあり、卒業できないのかもしれません。そしてその理由はきっと、あの世で明らかになることなのでしょう。 「もういいよ、って言われるまで、人は役割を持って生きていかなければなりません」前にも述べましたように、その役割を他人が勝手に奪うことは、許されないことなのです。 宇宙にはとてつもなく大きな法則があるように思えてなりません。小生は神官の免許は持っていますが、神が人に罰を与えるとは思っていません。罰は自分が自分に与えているのではないでしょうか。人を殺せば自責の念が一生その人を責め苛むでしょう。それこそが、自分で自分に与えるとても重い罰なのではないですか。 こんな意見を言うと不謹慎と思われるかもしれませんが、殺された人間よりも、殺した人間に同情を禁じ得ません。だって殺された人間はどうあれ、卒業なんですから・・・。でも殺した人間は・・・・。 偉そうなこと書きましたが、本当に生と死は、人間にとっての解けない最大の疑問ですね。 回答の一助になれば幸いです。

myfrend
質問者

お礼

「死とは、現世の卒業」ですか。そして卒業するより卒業させた方が苦しいですと・・・ なるほどなあと思っています、syumonさん。 子どもにはまだ(苦笑)?教えれることはできませんが、私はどの様に死のうか(卒業でしたね) と死に向かって生きています。もちろん勘違いしないで下さいね。自殺ではないですよ。 まだ40すぎなのにこんな考え方をするのは変でしょうか。。 話題がそれてしまいましたね。(苦笑2)

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