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高齢者の方
高齢者の方にお聞きしたいんですけど、 ☆若いころの仕事、戦争体験、ご苦労されたことなど教えてください。 あと、現在の生きがいや考えておられることなど教えてください。 今、高齢者の方について勉強しています。 もし、よろしければ教えてください。
- yuri_003
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Yuri_003さんよく聞いてくれました。一言ではとても書き切れません。思い出しても涙が出ます。60年も前の事だと言うのに、走馬灯のように浮かんできます。 1945年「昭和20年」サハリン(樺太)の北の方の大栄と云う小規模な炭鉱に住んでいましたが、6月頃から空襲警報が町内に響くようになり、その度狭い防空壕へ隠れました。 1945年「昭和20年」7月頃から次第に空襲警報の回数も増えて殆ど毎日のように夜中も防空壕へ隠れるようになりました。 おまけに鍋釜以外の金属類は、全て没収され、鍋など修繕しながら使いました。 本島(内地)との輸送は閉ざされ、物資も底をつくようになりました。寒冷地はジャガイモ・大根・人参・キャベツ・たい菜・燕麦しか収穫できません。 米・果物類は一切収穫は出来ません。現代のように冷蔵庫等保存場所が無く、野菜の代わり山菜を収穫して代用又干して蓄える形を取りました。 1945年「昭和20年」4月1日尋常小学校へ入学しましたが、4月だと言うのに雪が1M以上も積もっていて、短靴(ゴムで出来た運動靴のようなもの)を履いて行ったので、雪にぬかって、(足が雪の中にうずまる)靴の中はぐしょぐしょだった。 しかも半里(2KM)土の道に雪が積もっていることを創造してください。勿論除雪なんかしてない。学校へ着いた時は汗で体が火照り顔が真っ赤でした。 国語は片仮名でアカイ アカイ アサヒ アサヒでした。算数は1から100まで書いて読んでいました。体操は講堂(体育館)で前へ習え。回れ右。駆け足や軍隊のように並んで歩く練習が多かった。 1945年「昭和20年」(7月25から8月20日までの夏休み中の出来事だった。)日本は8月15日午前中ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした。午後ラジオで天皇陛下が放送された。大人の人は皆目に涙して、うつむいていたのを想いだす。 物資(米を含めて全ての物)は、いよいよ入荷しなくなった。秋には春に種まきをした。ジャガイモ・など野菜がとれたが、それとてすぐ食べ尽くす。 山菜を採りに、母と子供たちは山へ入る。殆ど毎日暖房は、石炭。それも毎日のように、ズリ(九州地方では、ぼた山。(石炭と一緒に出た岩石や岩石と石炭が層になっていたり、そのくずから石炭を選んで、モッコ(しょいっこ)のような箱で何度も半里の坂道を往復する。 1946年「昭和21年」春(5月頃)ロシア人が侵入してきた。(目は青く髪は茶色、動物のような感じがした)畑は没収され収穫は出来ない。父以外はロシア人の畑に強制労働(今のボランティア)にかりだされた。 残った母と子供たちは、山菜や石炭そして焚きつけ用の薪と白樺の皮採りに行った。小学校2年生だというのに遊んでいる間がなかった。 引揚者も多くなって、その後にロシア人が入居知るようになった。秋になって、私の家の隣にロシア人の若夫婦が入居した。挨拶に土足で上がり、喋ったが、チンプンカンプンであった。 美男・美女の若夫婦で私は好きになった。マダムが唄を歌いながら仕事をしている時、私は聞き耳を立てていて覚えた唄が、カチューシャだった。今でも原語で歌える。マダムはヤーチビダーンと云った(冗談で私の下手な歌を聴いていたね^^覚えていなさいよ^^と私をからかった。) 1947年「昭和22年」夏。祖母が他界して家族は12人になった。その頃から黒パンが配給になったが、ロシアは働かざる者は食うべからずで、父と長男の分しか配給にならない。後の者は蕗に高粱(コウリャン家畜の餌)を混ぜて食した。 1948年「昭和23年」11月やっと引揚が許され、北海道空知郡栗沢町字上美流渡の炭鉱へ居住する事になった。 落第して小学校3年に編入したが、片仮名と1から100までしか教わっていない、私は外国の学校へ来たのと変わりありませんでした。 当時は代用教員、高校卒業したばかりの若い先生が多く、私の身上まで把握できていなく、宿題を忘れ(忘れたのではなく出来ない)読み書きが出来ないと、ビンタそうしてあの寒いのに、廊下に立っていなさい。 考えた私は、友達の家へ行って辞書を見せてもらい全ての教科書の判らない漢字に振り仮名をし矢印をして、意味を余白にかいた。 勿論勉強もした。読み書き以外の、図工・音楽・体育・書道は人並みになった。次第に理科・国語・算数も好きになってきた。 1953年「昭和28年」中学2年卒業の時、図工・音楽・書道・体育・理科・国語・算数・は上位になっていた。卒業式の時クラスで只一人努力賞を受賞した。私の宝物です。 1959年「昭和34年」家庭の事情で全日制高校へ行けず、日中働いて、定時制高校(夜間部)を一里半(6キロ)の砂利の坂道を4年間通学して卒業した。 1961年「昭和36年」ある会社へ臨時入社した。成績優秀により正社員にする事を条件で、臨時で東京へ転勤した。夜勤明け現場の人が足りないと言えば、代行をして働いた。 1962年5月正社員に採用。賃金(給料)臨時時代とは比べものにならない、貯金をし体力もあったので無理もしていた。 1964年「昭和39年」東京の暑さと当時は冷房装置も無く冷たいものを食べ、それに車の騒音で夜勤明けの日中は眠れず、体を悪くして大手術をして後遺症が残ってしまった。 1965年「昭和40年」九州の福岡へ転勤した。かばってくれる人はいなく、又体を悪くして、大手術 現場事務から管理事務へ移転ところが、仕事が分からず、毎日勉強をした。 1975年「昭和50年」東京支社へ赴任ここでも勉強は続いた。独学(通信)日商簿記・財務管理・(学)産業大学の収支簿記から、複式簿記取引き仕訳決算を学び、決算事業報告書作成が出来るようになりました。 1982年「昭和57年」新潟支店へ赴任ここではRMS(レコーディングマネージメントシステム)とコミュニケーションを徹底させました。 1998年「平成10年」定年退職しました。その後福祉関係。書道教室をしていたが、体力減退で退きました。 2005年「平成17年」現在Gooで主に財務・会計・経理・簿記・起業・書道・外を回答アドバイスをして、楽しんでいます。 現代フリーターと称して、職を持たない若者が多いけど、社会保険にも加入せず、失業・病気をしたらどうするのだろう。将来年金生活出来るのだろうか?と心配しています。 若い人に自分のノーハウや培った事を教えて上げたいことが生きがい。今でも珠算出来るよ(加減乗除)をねW書道は教授の免許を取得してるよ。 このような質問をしたYuriさんってどんな人かメールを交わしてみたい。端折ったので読解してください。いい返事待ってます。
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