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壇ノ浦の戦いで源氏はどうして舟戦をいどんだのでしょうか?

壇ノ浦の戦いは海での舟いくさとなりました。 この戦いは舟に慣れている平家に有利です。 どうして源氏側は、不利な戦いをいどんだのでしょうか? よろしくお願いします。

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noname#113260
noname#113260
回答No.4

この戦ですが、日本史上初めて「戦闘員とは何か」を問われる戦でした。 これまでは槍や刀を持つ武士こそが戦闘員であり、船を操る水手・舵取は武器を持っていないので、非戦闘員とされてきました。 現在の戦争でも民間人を殺すことは国際条約に反する行為で、国際社会から非難されますが、この時代も非戦闘員である水手・舵取を殺すことは感心しない行為として武門の恥とする考えが主流でした。 義経は「軍船を操舵している以上船乗りも戦に参加している」として、無防備な水手・舵取達を射殺し、船を操舵不能にしました。 平家方は幾らなんでも武士の誇りが許さないと、従前の戦闘を行ったので不利となり、敗れ去りました。 また源氏方には周防水軍、串崎水軍、三浦水軍が加わり、平家方の阿波水軍の田口重能(成能)の内通や、平家に好意的だった熊野水軍も参加を求めてきたので、勝算はあったと考えます。 ただこの戦は戦略的には義経の失敗で、頼朝の指示は「三種の神器の奪還」でしたから、負けない程度にあしらっておいて、九州で陸戦を挑み熟柿が落ちるように追い込み、三種の神器を取り返すべきだったかと。 ちょうど足利義満が吉野から三種の神器を奪還したように。 義経は優秀な将軍ではあっても政治家ではなく、ちょうどオーストリア攻略一歩手前で宰相メッテルニヒに進軍を止められたドイツの名将モロトケのような感じかな。

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  • Yabukoji
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回答No.5

 平家が制海権を握っていたのは「屋島の戦」までで、「壇ノ浦」の直前には傘下の河野水軍、熊野水軍によって既に源氏の水軍力が上回りつつありました。 従って、源氏が舟いくさに挑んだ理由は、 ・海上の戦いに勝たなければ平家を討つことが出来なかった。 ・水軍力でも平家に負けないと思った。 の二点だと思います。  私が下関のガイドさんに聞いた「壇ノ浦」は500艘(平家)対850艘(源氏)の戦いだったそうです。

  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.3

歴史オンチな上にうろ覚えなのですが……。 2003年6月11日に放送されたNHK『その時歴史が動いた』のテーマが「源義経、大水軍を奪いとれ! ~壇の浦の戦い、奇跡の逆転劇~」でした。内容は既にNHKのHPから消えているのですが、私の記憶では、圧倒的に平家が有利だったにもかかわらず、常日頃、平家の横暴さに嫌気がさしていた数々の水軍が、土壇場で寝返ったので、油断していた平家の隙をつく形になった、というものだったように思います。いかにも元海賊らしい水軍の心意気だと感じて印象に残っているのですが。 どなたか補足していただけると、私の中でも点と点がつながると思います。

  • yamiyo
  • ベストアンサー率29% (185/633)
回答No.2

義経の戦術は奇襲戦法といわれる『常に敵を攻め続ける・一気に敵を攻め倒す』という当時では新しい戦術だったと言われています。 壇ノ浦の戦いは、関門海峡という潮の流れ(動き)の早い水路であった為、その潮の流れを利用した源氏(義経)が有利に戦いを進めることができたようです。

  • ycat0816
  • ベストアンサー率12% (13/108)
回答No.1

過去2戦(一の谷、屋島)で、いずれも平氏は海上に逃れました。 本当に平氏を葬るために、海上戦を挑む必要があると判断したのでしょう。 そのため、熊野、村上水軍を味方につけるなど、 有利にする作業は行っています(記憶では、船数は源氏の方が多かったように思います)。

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