• 締切済み

江戸時代の村高

小生が生まれた村のことです。 ここは純然たる農村で、幕末には 村高250石、人口500人、年貢200石(年貢率は実に80%!!!)という形容しがたいほどの過酷な村でした。当時食糧は一人あたり年1石必要といわれていましたので、これでは年貢を納めてしまうと一人あたり1斗しか残らずとても暮らせません。しかし実際の生産量は夏作が1000石、冬作も250石程度あったようです。(やや凶作気味の時の推定値) 村高と5倍ほど差があったわけですが、村高と実生産量とは一般的にこれほどの差があったのでしょうか? (5倍の内容は、石盛が他村のほぼ半分だったこと、公畝が実面積のほぼ半分だったことによります)

みんなの回答

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.3

江戸時代の農村は一律過酷な年貢に悩まされましたから色々な脱税手段の工夫も発達しました。 年貢は最近の検地で決定され、それに応じた年貢高がきめられます。 この検地は役人が行うのですが、土地の生産力の上中下の査定にあたり良くないように査定してもらったり、隠し田という未登録の田畑を作り村高を少なくごまかすなどしました。 また災害があれば被害を過大に訴え村高の修正を求めました。 中期以降は金納制度も併用されたので、換金作物が栽培できる地方はこれに切り替えて差益を生じるよう工夫できました。 それやこれやで農村もかなり余裕のある生活を送れたのです。 村高と実態のおおきな乖離は珍しいことではありませんでした。 これを正すのは検地ですが、費用と労力がかかり役人の能力も低下していて強行する所は稀でした。

m-jiro
質問者

補足

ありがとうございます。 当時、1人あたり年1石の食糧と年貢5斗程度が必須で、この数値はどの村でもほぼ共通していたと思います。ところが近隣の村で一人あたりの村高(村高÷人数)を計算してみると1.5石に満たない村が数多くあります(当地方では8斗程度が多い)。 この計算をしている時に感じたのですが、一人あたりの村高が少ない村ほど免率が高いように思われます。 長くなるので小生の考えのみ書きますが、当時の村は面積や石盛を色々と細工していたこと、そして免率はだいたいどこの村でも実際の生産量の2割前後だったと思います。 貴兄のお考えはいかがでしょう?

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.2

まず村高というのは領主が村を把握するために設定されているもので実際の生産量とは一致しません。 八公二民の年貢率ということですから、実際の生産物の80%も取り上げてしまえば農民が生きてゆけないことは領主にもわかっており、そんなことをして村がつぶれたり荒廃して年貢が取れなくなってしまえば困るのは領主のほうで、そこはかなりのおめこぼしがありました。(田は全部把握されたとしても山畠や屋敷畠は除外など) また、村高を決める検地は江戸初期に行われたきりで中期以降検地を実施した(できた)ところはほとんどありませんでした。そのため江戸中期以降の生産力の向上は村高に反映されず、実生産力との間に大きな乖離ができたところも多くあります。

m-jiro
質問者

補足

ありがとうございます。 「村高」が実際の生産量と差があるのは承知していますが、実際にはどの程度の差があったのでしょうか?(全国的な一般論として) 小生のイメージでは平年作に対して7~8割と思っているのですが・・・

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  • cfq01250
  • ベストアンサー率26% (26/98)
回答No.1

漠然としすぎていますが、先ず、「村」ですが、現在又は、質問者が生まれた当時の行政区画としてのと、質問者が何かの記録で石高を調べた当時の「村」とが「同じ」とは限りません。むしろ廃藩置県等により、大きく異なっている方が自然です。次いで、その村が、どのような領地であったか。例えば千葉県の行徳地域、ここなどは、ホボ幕府直轄と言って良い地域でした。この様な地域では、石高は比較的純粋に計量されましたが、地域によってはそこを統治する大名の「威厳」「台所事情」ハテハ「農家の事情」なども作用したようです。然し5倍と言う数値は少し大きいかとも思います。この様な場合資料の出典が意味を持つ事となります。

m-jiro
質問者

補足

この数値は文化13年の明細帳に記載のものです。 小生が不思議に感じているのは公畝が実面積の約半分しかないことです。(ある研究者が検地帳にある86筆の田畑が現在のどの田畑か特定して面積を比較。結果、平均1.9倍の差を確認。他にも傍証があります)当時、面積については非常に厳格だったと思われるのに何故これほどの差が江戸時代を通じて是正されなかったのでしょう? 田畑の面積の差は近隣の村にもあるように思われます。

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