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丹羽長秀のその後。

uwf11pride30の回答

回答No.5

皆さんが詳しく書かれているので、私の方からは一つだけ、No3の方が書いた点について。 長秀は確かに所領や兵力においては格下に近いと言われるかもしれませんが、席順は信長の最晩年~清洲会議の頃までは柴田勝家に次ぐところにいました。秀吉や光秀の方が兵力は大きかったのですが、譜代の家臣である長秀の方が席順では上です。まあ、温厚な長秀のことですから、清洲会議では秀吉に上座を譲ったかもしれませんが。

PaloAlto
質問者

お礼

どうも、ありがとうございました。 秀吉が中国攻めの際に、大量の兵を率いていたとは言っても、その内の多くは、信長の命令で秀吉に従っていただけで、秀吉独自の兵では無かったですよね。その時々の役割で、たまたま秀吉は多くの兵に指揮を与える立場だっただけで、格は秀長の方が上と思っていました。信長が生きていた時代を考えると、信長の全ての武将は、みんなそこまで大きな独自の兵力を持っていたという印象は少ないのですが、、。

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