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現象学、構造主義、ポスト構造主義

趣味で哲学の勉強をしています。 フッサールの現象学まできて、その後の構造主義、ポスト構造主義の理解が今ひとつです。 現象学まではとりあえず理解できていると思います。 構造主義とポスト構造主義、 そして、現象学とポスト構造主義の違いについて わかりやすい説明をしてくださる方いらっしゃいませんか?

質問者が選んだベストアンサー

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noname#155689
noname#155689
回答No.1

ざっくり答えると 構造主義=サルトル(実存主義)批判 ポスト構造主義(デリダ)=形而上学(ロゴス)批判 となります。 この手の質問にいつも推薦する本がこれです。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166602519/250-6011669-4141802 我ながら変わり映えがしないなぁと思いつつ やっぱりこの本が一番楽しく読めるので。 欠点としてデリダが欠落してますが それは別途追えばイイと思います。 過去の回答でよければ、この辺も覗いてみて下さい。 http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=705290

tsuyoshii
質問者

お礼

ありがとうございます。寝ながら読めるんだったらいいですね。この本、ポスト構造主義のこともかかれているのでしょうか? 私の、構造主義の理解はおそらくそんなにずれていないようなきがしました。 構造主義からまたポスト構造主義へと、結局また、主体性に論点がもどってしまったのはなぜなのでしょうか? その際、現象学を批判的に発展させたというのはどういうことなのでしょうか?

その他の回答 (1)

  • sinfonia
  • ベストアンサー率42% (53/124)
回答No.2

現象学の一観点からデリダを批判した本が以下の URLにあります。 (つまり批判し返したかたちになりますね) http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7705-0179-X.html もしかしたら、tsuyoshi氏の現象学とポスト構造主義の 違いについて明確な答えを提供するかも、と思いまして。 多くが誤読・誤解されていると言われるフッサール現象学は、 理解の仕方がまた様々です。 個人的に竹田青嗣氏の書いたものが一番読みやすかった と理由で推薦してます。(批判する方も多いですが) 分厚い本ですので、後回しにして現象学とポスト構造主義の 大まかな対立形式が出来てから参照されても良いのかと思います。

tsuyoshii
質問者

お礼

私も竹田青嗣の本よく読みます。良い本を推薦してくださってありがとうございます。いろいろ勉強してみます。

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