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丙午について

私は卒論で丙午について調べています。昭和41年に起こった出生率の低下については両親に聞くことが出来ましたが、それ以前の丙午についてどんな現象が起きたかについてご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。お願いします^^

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回答No.4

 60年にいっぺんですから、きちんとした統計があるのは明治39年と昭和41年くらいでしょう。明治時代はわりと戸籍管理がルーズなところがありますから、明治39年の出生率というのはウソかもしれません。女の子が生まれた家で、ごまかして翌年もしくは前年出生としてとどけた可能性もあるからです。  岡本綺堂の『半七捕物帳』に、丙午生まれの秘密を知られたのが身の破滅になってしまうと恐れたおかみさんが……という小説があります(「松茸」)。これなど江戸時代の世相をよくあらわしているのではないでしょうか。

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  • junt
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回答No.6

 丙午はエト60干支記年法で43番目で、丙は5行での火、午は12支に5行の割り当てからこれも火となり、このように火が2つ重なるので、丙午の年には火災が多いといわれました。また、丙午山(へいごさん)の牝馬が雄馬をかみ殺すという中国の俗信が、江戸時代初期に日本に伝えられ、1683(天和3)年、八百屋お七の事件がきっかけとなって、丙午の迷信は根強くいきわたってしまったのです。  丙午生まれの女子は、夫を尻に敷き、出世させないという女子結婚受難の迷信は今なお横行しています。  昭和41年の丙午には、出生がきわめて少なかったのですが、この迷信による不幸をおそれた産児制限と、親が届けを故意に遅らせたためだと言われています。

回答No.5

昭和41年の丙午出生減はテレビの影響です。丙午伝説と迷信がそれ以前から存在していたのは事実ですが、あれほどまでに出生減を招いたのは平日昼間の婦人向けテレビ番組で大きく取上げられ、当時の視聴者の主流であった若い専業主婦層が影響を受けた事が直接的原因とされています。

回答No.3

高校のとき、授業で習いました。 丙午の迷信で出生率が減少したのは、昭和41年のみです。その理由として、中絶や避妊の方法が普及したことがあげられます。それ以前は、そのような手段がなく、気にはなっても妊娠したら産むほかなかったようです。

  • sgi1962
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回答No.2

八百屋お七が丙午の生まれで そこから、そういう縁起ができたらしいです

回答No.1

丙午の出生数の減少率は、明治39年(12%)より60年後の昭和41年(27%)の方がずっと大きくなっていますね。不思議なものです。

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