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なぜ「紙一重」なのでしょうか。

この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてると思うのですが、「二律背反」は「紙一重」というのは何ゆえにでしょうか? 泣いたあとすぐに笑うことができるし、幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。この間はなぜ表裏一体なのでしょうか。 上手く説明できなくて済みません。補足させていただきますので、哲学や宗教のみならず様々な分野からの意見をお待ちしております。

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回答No.38

>「ああこれでつらい私の人生も終わってくれる」と思ったくらい。小学生の分際でね(笑)。 本当に親って何なのでしょうね。これを考えるとき「神」って何なのだろう?と考えが移って行きやすいです。どんなに辛い家庭でも子どもは逃げ出すことができない。どんなに虐げられた者でも、この世界から逃げ出すことはできない。 私は世間でよく言われる「自分が生まれて来た意味」を求める手間はかけずに済みます。はっきり見えているからです。『大きな惑星』がfrauさんにしか見えなかったように私にしか見えていないようではありますが。しかし意味は見えても、価値があるのかないのかは、さっぱり分からないんです。 >それでも敬虔なんでしょうか 無神論者よりは、少なくとも私よりは十分敬虔です。無「神」論者ですからね、これだって、サルトルがカミュを揶揄したように、なかなかのもんですよ。一等キョーレツなのは「眼中にない」ってやつですから。これはこれでまた大いに不審ですがね。 >でも神様、もう少しお手柔らかに…。 全くですよ!製造者が製造物に対して責任ゼロなんて納得できますか? 『大地震や大津波を起こすんじゃない、こりゃ!』 と言いたいですが、ヒトに 『トイレ行くなメシ食うなオナラするな!』 と言うのと同じなのか知らん。 善悪の彼岸なんてお構いなしでしょ台風の目みたいなものなんだったら。ひょっとしてヒトに善悪の概念があるってことは「神」にもあり得る? 『地獄極楽この世にあり』 どん底でもがいてたころ、吹く風にさえ怒りを募らせていました。で、最初に書き込みした回答文には 『神様なんて、どわいっ嫌いです!』 って書いたんです。で、 『あ~あ書いちゃったよ~』 とか思いながら投稿しようとして吹っ飛ばされました。いいもん、私は「仏様」の背中にかくまってもらうもん! やはり私は御釈迦様に倣って「神」も修行修養が必要な発展途上の存在としたいです。 でも、やっぱり分かんな~い??? 長々と、ああでもないこうでもないと言ってた割には、これが結論なんですね・・・。ふっ、やれやれ。 すっかり長居をしてしまいました。楽しかったです!!

frau
質問者

お礼

さて、「つれづれ」やグチはマジでここらへんで終わることにいたします。長い間お付き合いくださりましてありがとうございました。そしてお疲れ様でした!! さて、最後に…。白雪姫さん、前の回答で「このカテにもう来られない」とおっしゃってましたが、えーっ何で!って思ってたんですよ。でも最近いくつかの投稿でお姿見かけました。なんだー、いるじゃん。でも「哲学とは○○である」という意見に対してだけは、こころ穏やかではないようですね(笑)。 確かに哲学は数字で出せるものではないです。そうしたらソクラテスの代で解決されています。そしてその思想を否定したり、否定された思想をこれまた肯定したりそれを否定したり…。時代を経てえんえんと繰り返されてきた思考スパイラルの、醍醐味だと思うんです、「答えがみつからない」ことは。 確かに数学はどんなに遠回りしても答えは一つのところに行き着く。その過程を楽しむ人もいれば私のように数字アレルギーな人にとっては(←赤点免れるために父に山小屋に閉じ込められて特訓うけたせい)。確かに「我想う、ゆえに我あり」も一つの答えかもしれないけれど、私が最近ある質問に対してした回答に「自分のフィルターによって世界はいかようにも変化する」と投稿したのですけれど、哲学や心理学はまさにそんな世界だと。もしPCのように二進法で決まる世界ならこんなに混沌とはしていない。逆にPCほど不安定な道具はないと日頃から感じていますし。 ただカテゴリの選択、そして質問の内容については、投稿者の方も様々な考え方もあるでしょうし、新たな質問であっても、過去ログでは見つからない微妙なものだと思います。例えばパソコン関係のQAサイトのように、あまりにも初歩的で回答がわかりきっている質問だと検索を勧められるのがオチかと思いますが、哲学のように回答者も答えを共に探し続けるカテでは、まったく同じ質問であっても、まったく同じ回答がくるとは限りませんよね。私も様々な質問で日々勉強させてもらっています。単純な問いほど奥が深いし。 ですからあまりご立腹なさらないほうがよいかと、いらぬおせっかいを感じてしまいました。 心配しています。何かあったのではないかと。勝手な想像ですみませんが…。 このコーナーではとても充実した時間を持たせていただいて感謝しています。ありがとうございました!!

frau
質問者

補足

(ANo.37の続き) そうですね、子供は大人の奴隷だと思います。肉体的経済的精神的すべてにおいて。精神世界では「子供はそんな親を自ら選んで生まれる」そうです。では虐待されて数日の命を殺されるのも意味があるのか?私は前ここでそのような質問をしました。でも輪廻転生の法則からいえば「時間」ではないのでしょうね。「意味」なのでしょうね。でもまだ親を親とも認識する前の時期になぜすぐに「帰宅」しなければならなかったのだろうと。出るところ間違えた?まさか。だとしたら私が選んだとはいえ、間違えたと思いたいのですが、でもそうしたら「意味」ではなくなってしまうんでしょうね。今私がこうして私であるのは、彼らのもとに生まれる必要があったからでしょう(肉親を反面教師として。世間を教師とするために)。古来からのことわざでは「三つ子の魂百まで」とありますが、最新の発達心理学でもそれは裏付けられています(よく思うのですが、ことわざって、後になってその真実性が明らかになりますよね。不思議。面白い)。親なる存在が肉体の原点だとしたら、精神の原点は影響をこうむるけれど、それに気がつくのは魂の目覚めだと思います。そこからが本当の誕生、第二の生だと。その出産を手伝うのが例えば悟りや愛や、カウンセラー。私はまだいづれにも出会えていませんが。 親という存在の、子に対するあの万能感はいったいどこからくるのでしょう。健康な命を与えたから、後年もずっと健康でいる、だから病気になったときには信じられないという理論なんですよ、うちの親は。責めるべきはウイルスでしょう(笑)。あたしだって免疫さがるときありますよ。虐待する親は虐待されてきた子であるという連鎖もあるようですが、それは身体的虐待ならず、精神的、思想的虐待もありますが、まさに負の遺伝。そんなところに許容の余地(子からのやさしさ?)はありますが、ではこのやさしさも、正の遺伝だとしたら、それこそこの拮抗状態はどのように処理したらよいのでしょうか。とくに「母性本能」を信じて疑わない母は免罪されるとなれば喜びましょう。しかしその裏には平気で子を捨てることのできる魔性が潜んでいることも知っています。子は親のその顔の使い分けを見破ることがうまいんですよ。知りたくなくても「勘」が働く。……

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その他の回答 (40)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

参考程度に どちら向きにも向上のよすががあるからでしょうね。 つまり、幸福の先にも、不幸の先にも同じダイヤモンドがあるという意味でしょう。多くが幸福論を説く、一方、シエクスピアは不幸論を説きますが、行き着く先が一緒であれば、二律背反と見えても、表玄関と裏玄関, あるいは、右回りか左回りの差ということですね。幸福、不幸にもレベルがあるので、時々の感情レベルは、天から地、上から下という紙一重ですが紙一重でどちらの門をくぐるかは本人の知恵しだいということですね。つまり、どちらでもいいということでしょうね。不幸のどん底を割れば妙なる幸福があり、幸福の先にも妙なる幸福があるということですね。大略、仏教は幸福論、キリスト教は不幸論という話でしょうか。二律背反がわかりやすいからでしょうね。

frau
質問者

お礼

「どちら向きにも向上のよすががあるから」 二律背反のことを考えるとき、必ず思い浮かぶ映像があります。「ほらふき男爵」を映画化した「バロン」という映画なのですが、海で遭難した男爵一行が海の底に落ちていってなぜか水面にあがったらそこは別の海の海上だったというシーンがありまして、いつもこの言葉とこの映像がリンクします。 昔見た映画なので詳細は実は確かであるかどうか自身ないのですが…。また確認してみます。 「紙一重でどちらの門をくぐるかは本人の知恵しだい」 それこそ神が私たちに問われる「知」や「善」でしょうね。「中庸」という概念もこの二律背反のふたつの要素から成り立つと思いますが、結局人生は二者択一の旅なのでしょうか。白黒つけたがり、中立という立場になかなかなれない未熟な私ですが、拮抗状態の中にあえて立つというのは、やはり秀でた人だと思います。 参考になりました、ありがとうございました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.9

度々すいません。 やっとfrauさんのご質問の真意が 少し分かってきたように感じたので 私なりの考えを一度まとめさせて下さい。 まず、私はfrauさんとは違う見方で 世界を見ています。 私は、この世は表裏一体から成り立っているのではなく 実態はもっと恣意的な混沌としたものだと見ています。 もし仮に神がいたとしても 神(の行為)には根拠がないと思っています。 神に根拠はない。しかし、人は根拠なしには 生きていけない、といったところでしょうか? 真偽の程は分かりません。 私も、もし神様とか仏様とかが居て天国に行けたら まず最初に聞いてみたいものです。 ともあれ、私たちにとって 世界を混沌のまま受け止めることは 非常に困難であると思う。 どうしても、善悪といった対立項を軸にした 差異の体系として理解したがる。 なぜか? 生まれた瞬間の意識は、混沌の極みだと聞く。 まあ、確かに、何が何だか分からないだろう。 しかし、すぐに「自己」と「それ以外」を区別する。 まだ「自己」なんて明快な意識ではないのでしょうが・・・ そして、「それ以外」の様々を体験しながら 「受け入れたいモノ/受け入れ難いモノ」に分けていく。 #6さんの仰る >感覚に縁って渇望と嫌悪が起こる。 と同じことですな。 例えば、生まれてすぐに、授乳がある。 最初は母乳だったとする。 母乳しか経験していない場合は、それが全てだ。 やがて人工乳を与えられたとする。 そこで初めて多様性を経験し、差異を知る。 それまで母乳しかなかった(食の)世界が 母乳と人工乳に広がり 好き/嫌いに(恐らく)二分される。 好き/嫌いの幅は経験と共に広がり 言語の習得によって体系化されていく。 早い話が「不味い」を経験して初めて「美味い」が 分かるようになります。 不幸を味わって初めて幸が相対的に理解されます。 悪を感じて初めて善を思います。 悪を知らなければ、この世は単一ののっぺらぼうな フラットな舞台としてしか認識できない。 そういうことではないでしょうか? あらかじめ二律背反が存在しているのではなく 人が世界を二律背反として理解・認識していくのだと 思います。 以下、蛇足。 >人の魂はもともと一つだったが二つに割れた。 古代ユダヤの密教は世界を4つの階層に分けました。 最上階は「神性界」と呼ばれ、ここでは私達の魂は 神人とひとつになって全ては調和を保っています。 その下は「創造界」と呼ばれ、ここでは魂が個々に分離し 「他者」を意識し「自我(ego)」が芽生えます。 その下は「形成界」と呼ばれ個々の魂は「男」と「女」に 分かれます(旧約聖書では形成界=「エデンの園」とされます)。 そして最後に私達の住む「物質界」があります。 ここでは男女の魂が肉体を獲得し、故に様々な「自意識(欲望)」で 悩まされるようになります。 昔の人はこうやって世界を理解していった。 しかし、二律背反・表裏一体だけでは理解しきれなくなるときも来る。 だから仏教のように、一旦「空」と見なすような 思想が生まれたのでしょう。

frau
質問者

お礼

>生まれた瞬間の意識は、混沌の極みだと聞く。 生まれたての赤ちゃんは「真理」を知っていると読んだことがあります。ということは生きる過程で真理(イデア)の世界から遠ざかり、記憶も失われていくのではないかと思います。ということは「死」というのは帰ることであり、「恐れ」の対象ではなく故郷であり救いであるかと思います。 また、赤ん坊が生れ落ちた瞬間に「泣く」のはこんな汚れた世の中に放り出されたからだという解釈もありますが、これはシェイクスピアも自身の小説の中でセリフにたくしています。 私は「はじめに形ありき」という観点でした。なるほど、見方によっては人間が「恣意的」に経験したことがあとになって「二項」として意味づけられるということは、前者は演繹的、後者は帰納的な考え方でしょうか。 創造界での「自我(ego)」はフロイトのいう「自我(ego)」と同じことなのでしょうか。フロイトがそのような宗教観から精神分析の世界にも適用したのでしょうか?興味深いですね。 再度の投稿、嬉しいです。ありがとうございました。

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noname#8357
noname#8357
回答No.8

相互に矛盾しながらもお互いに同じ権利を以って主張しあえば,それが自己の内部においてはおこれば葛藤になり,外部においておこれば口論になり,喧嘩になり,高じて殺し合いになる. それが人生における苦となる. その対処として 1. 理論武装を含む力により相手を封殺する. 2. 法律を作り,根本的な解決には至らず不満を残すかもしれないが相互不干渉とする. 3. 両者が納得する形での揚棄 4. 苦からの解脱と真の生. と,とりあえず思いつく上記四つを挙げてみます. 心的な苦からの開放につながるのは,3と4であると思います. 4について言えば 二律背反.それを第三者なるものが観て,相互の主張が真であると認められる場合, その第三者はそのどちらにも荷担しない沈黙なる状態にて それぞれを生かしながら成り行きを見守っていくという状態にならざるを得ない. 自己の内部において そのどちらの立場にも立って観られるという状態が観自在. 実生活の中において, その観自在なる状態でどちらか一方にこだわり続けること無く,凝り固まる事無く自己の内部において保って生きれば 現象界の存在の五種類である五蘊(色:物質及び肉体,受:感覚・知覚,想:概念構成,行:意思・記憶,識:純粋意識)の一切は,空だと説かれたことが解る. それを知ることができるのは,生きた肉体が有ればこそであり,それを離れてそれを知ることはない. 悲しくて泣く時もあればまた笑う時もある. 老いや死は誰にでも必ずやってくる. しかしまたその朽ちた肉体は土にかえり,己が生きる為に食してきた植物が育つ養分となっていく. こうして真理に目覚めた仏陀の中の或る者は菜食主義者となり,己と植物との生の循環系を志向し,己の生を全うしようとした. 生きているから苦があり,また生きているから,それら苦から開放され心の平安に住する境地があることを知る. それは決して心が無感覚や無感動になるということではない.むしろそうした内観により感性は今までの自分より研ぎ澄まされていくものだ. どちらも法に目覚めた者,仏陀と呼ばれるが, 小乗仏教の阿羅漢は,二律背反による他者との対立や論争を極力避け,自らの心の平安に安住する. 大乗仏教にいう菩薩は,二律背反における他者との論争をも辞さず,苦からの解脱と真の生を説き,両者の平安な生の創造を志向する.それ故に目覚めた菩薩は世の為政者と対峙する. 以上.問いの二律背反と紙一重の回答にはなっていませんが. ありがとう.

frau
質問者

お礼

葛藤はそれこそ二項対立の生々しい感情ですよね。 悟りを開くというのは、拮抗の極限に至ったためでしょうか?そのきっかけになるのはやはり「苦」なのでしょうか? 西洋の宗教は唯一絶対神であり、規律的、形而上的、神話的です。対して仏教は生きている現実の中に問いを求められるというか、その先駆者(といってはお釈迦様に失礼な言い方ですが)が、到達した先からこちらに優しく問われているというイメージです。 私はどちらかというと哲学としても仏教になじみやすいですね。心のツボにストンとはまりやすいというか。 私もなろうとしているのですが、なかなか菜食主義者にはなれません。もちろん肉を食べてきた習慣は容易に変えることは難しいですが、これも執着、「苦」ですね(笑)。でも野菜も生き物なわけです。これはこのカテで別の方が少し前に質問してましたよね。同じように悩む私も、菜食主義者に徹することを躊躇させられる…いや、これは開き直り、言い訳でした(笑)。 参考になりました、ありがとうございました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.7

>「一元論二分法」についてもう少しお聞かせください。 一元論は、一神教のような 一つの価値観だけで一切を説明しようとする考え方です。 例えばキリスト教は、神を唯一絶対とし 神の意志に沿うものを「善」、そうでないものを「悪」と 二分してしまいます。 それを、私は「一元論二分法」と呼びました。 この世を善/悪、幸/不幸、白/黒、などに二分してしまうのは 価値判断の基準を「神の意志に沿うか?」のように 一元化しているからですよね? 神がまず存在し、信じるか/信じないか、の 二者択一を迫っているわけですよね? 論理的により厳密な解釈をすれば この世を善と悪などの二項対立で捉えるようなモノの見方は 象徴二元論というべきかも知れません。 http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/a/97/m25.htm ここで論理学的な解釈論をするのは ご質問の趣旨からずれてしまうと思いますが 幸と不幸は「二律背反」ではなく 単なる「二項対立」、というか それ以前に単なる「反対語」であるだけなのでは?と思います。 >でもその連続性は実は存在していないもの、と >いうことなのでしょうか。 幸福が続いていると感じるか/否か、は その人の気持ち次第ではないでしょうか?と私は考えます。 一方、人の不安定な気持ちや感覚とは別に「真の幸福」 「幸福の本質」のようなモノを想定する考え方もあります。 幸福の連続性の存在とは、そのようなモノを想定していませんか? 本質とか真理といった「絶対存在」を想定するのは 早い話が「イデア論」です。 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/idea.html ともあれ、frauさんの質問の整理に向けて 少しでも参考になれば幸いです。

frau
質問者

お礼

「二項対立」のURLは難しいながらもとても興味深いです。とくにインドの一元論、二元論と項目を立てて説明してあるのがよい!私はこういうのが大好きです。 ところで…。 うーーーん、質問しておきながら本人がわけわからなくなってきました(笑)。 つまるところ私は「何故?」という問いは「イデア論」に集約できるような気がします。というのは「存在」「生きる意味死ぬ意味」「哲学」などは神のみぞ知ることだからです。 瞬間に永遠を感じる人もいれば、刹那だ、と感じる人もいます。水のような連続性も、大地のような確固たるものも、「真実」と感じられます(と感じなければ生きる意義を見出せません)。その真実は「ふたつのもの」に左右されているのだとして、その幸福とは不幸の反射であるとしたらふたつのものはいつも背中合わせでなくてはならないのだろうか?と。つまり神が人に与えた課題はやはり対極させる要素がなくてはならないのだと思います。でなければ憎しみを感じたときにその対極である愛(これには異説もありますが)を学び、不幸な状態であるのならば幸福にむけて努力することをするという人が人としての営みをするときに必要というか、すでに背景として成立しているのが「ふたつのもの」であると思うのです。 あれ、なんだか話が別方向にいっているような気がします(笑)。この後にもお返事くださっていますので、続きはそちらにします。

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  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.6

お礼をありがとうございます、再度の3です。 再度挑戦させてください。私もこういう問題は好きなんです^^。 私は以前も投稿させていただいてますが、 仏教(お釈迦さま)大好き人間なので、仏教的な解釈を心がけています。 苦のメカニズムを系統的に説いた、十二縁起説というのがあります。  1 無知に縁って反応が起こる。  2 反応に縁って意識が起こる。  3 意識に縁って心とモノが起こる。  4 心とモノに縁って六つの感覚器官が起こる。  5 六つの感覚器官に縁って接触が起こる。  6 接触に縁って感覚が起こる。  7 感覚に縁って渇望と嫌悪が起こる。  8 渇望と嫌悪に縁って執着が起こる。  9 執着に縁って生成のプロセスが起こる。 10 生成のプロセスに縁って誕生が起こる。 11 誕生に縁って老いと死が起こる。 12 そして嘆き、悲しみ、心を体の苦しみ、諸々の苦難が起こる。    こうしてありとあらゆる苦が生じる。   ・・・です。 で、「二律背反」は、ちょうど#7に該当すると思うんです。 「剣」の例でいえば、渇望と嫌悪が、防御と攻撃です。 だって、幸せになる為には、嫌いな人を排除しなければならないんです。 で、「私にとって何が幸せか?」「私は誰が嫌いか?」というのは、 個人に縁って違います。 個人の感覚に縁っているんです。 ですから、「剣」とか、事象に二律背反が存在するのではなく、 感覚にこそ二律背反が存在しているんだと思います。 感覚は、煎じ詰めれば、この身体に縁って起こっているとしか良いようがないです。 ・・・・う~ん、精一杯の回答です。楽しませていただきました。 読んでいただいてありがとうございました。

frau
質問者

お礼

Syo-yaさんのご回答は他の投稿でもよくお見かけしますが、いつも楽しく読ませていただいてます。 またひとつの投稿に同時に私の回答と一緒になることがありますよね。 私も宗教としてではなく、哲学として仏教がもっとも好きです。心のツボにストンとはまるというか…。 「二律背反」は私のメインテーマです。もし神様とか仏様とか、天国に行けたらまず最初に聞いてみたいことです。 丁寧なご回答ありがとうございました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.5

#4です。 何か、小難しい回答になってしまったので、追加。 二律背反がなぜ表裏一体であるか?は それが「等しい合理的根拠をもって主張された 二つの相矛盾する命題」だからです。 二つの相矛盾する命題だから「表と裏」に見えるのであり 等しい合理的根拠をもつから「一体」に見えるのです。 例えば「泣く」と「笑う」は 感情に起因する生理的反応を「二分」した用語だから 表裏一体に見えるのだと思います。 「幸福」と「不幸」、「攻撃」と「防御」も然りです。 ちなみに、この回答は「記号論」の視点によるものかな?

frau
質問者

お礼

自分でも難しいことを自分に課してしまったな、という質問でした。 イメージとして、あるひとつの反応があれば、それとのコントラストをもたらせるために、その両端も存在する、存在せざるを得ないのではないか、単にそれだけだったと思います。 その起源は神対悪魔(善対悪)かもしれません。 例えば神様はご自分の住まわれるような美しい世界だけをこの世に模倣したと意図したことかもしれないけれど、ご自身の対極に位置する悪魔とよばれるような悪の存在が反射的に自分の世界をこの世界にも映しだした結果かもしれません。 初めにいずれかがあった、でもそれでは世界は面白くならないし、誰も学ばなくなるとも思います。だから二つの相反することは必然であると。必然であるし、この法則があるからこそ救いもあるような気がします。 >等しい合理的根拠をもつから「一体」に見えるのです。 そうかもしれません。でも「見える」のではなく私としては「ひとつ」だと思います。 例えばこんな話があって、「人の魂はもともと一つだったが二つに割れた。人生は、生まれるとき別れたもう一つの片割れを探す旅である」という話というか、哲学というか、そんなことをきいたことがあります。 これも二律背反の根源ともいえると思います。 補足ありがとうございました。

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noname#155689
noname#155689
回答No.4

二律背反(Antinomie)は「大辞林 第二版」によれば ◆二つの相矛盾する命題である定立とその反定立が  等しい合理的根拠をもって主張されること だとあります。 #3さんが >「紙一重」というのは結果論だと思います。 と仰っていますが >「二律背反」はなぜ存在するのだろうか? も、二律背反という事象がまず存在するのではなく ある状態を「二律背反」と名づけただけだと思います。 思うに、 >「二律背反」は「紙一重」 という前提に誤謬があり 加えて「紙一重」と「表裏一体」と「二律背反」を 同意とするのもどうか?と思います。 さらには >この世の中のことはふたつの要素で成り立っていてる というのも疑問です。 それはキリスト教的に代表される 一元論二分法の論理観です。 そもそも、この質問が一元論二分法の論理観に 基づいた質問だと思います。 >幸福も不幸も見方次第ではいずれにも移行できる。 仏教的論理観に基づけば 幸福も不幸も、単なる「関係性」に起因する 瞬間瞬間の価値判断でしかなく 固定された「幸福」とか「不幸」といったものはない、と考える筈です。 現代哲学においても、「幸福」とか「不幸」は単なる「差異の体系」に過ぎず 幸福や不幸といった概念に「根拠はない」と考えます。 http://d.hatena.ne.jp/suousan/20040726

frau
質問者

補足

「一元論二分法」についてもう少しお聞かせください。 初めて聞く文言ですが、「一元」とは二次元、三次元などの次元のことで、「二分法」とは二律背反と思っていますがそうでよいのでしょうか? 快楽、幸福などの普遍的なものは瞬間的な積み重ねだと思います。でもその連続性は実は存在していないもの、ということなのでしょうか。 ありがとうございました。

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  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.3

的外れな回答かも知れませんが、挑戦させてください。 まず「紙一重」というのは結果論だと思います。 (結果論:事が起きたあとで、そのわかっている結果を前提としてあれこれ論ずる無意味な議論) ですから何とでも言えるんです。 二律背反が紙一重の性質を持っているのではなく、 結果を論ずる人達から紙一重が生じるんだと思います。 例えば「剣」は、攻撃と防御を混在してもっています。 攻撃だけでもないし、防御だけでもないんです。 それを「あれは攻撃だった!」「いや!防御だった!」と結果を論ずるから紙一重が生じてくるんだと思います。 論じなければ「ただの一太刀」なんです。 う~ん、難しい・・・・^^; いずれにしても、別の次元の話だという気がします。

frau
質問者

お礼

難しい話題でごめんなさい。 「剣」について、とても参考になりました。その中でも「攻撃」と「防御」というふたつの要素がありますよね。「紙一重」というのは確かに結果論かもしれませんが、「紙一重」を省き、「二律背反」はなぜ存在するのだろうか、という疑問です。 ありがとうございました。

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noname#9272
noname#9272
回答No.2

私もよく、この世の、表裏一体について考えることが多かった気がします。 うまく言えないです。 でも、人間が生きる、、、ということと、大切な関係があることに、、、気がついた! と。(笑) 人間は、本来なら、原始時代のように、未知な世界に産み落とされて、自然界のまっただ中、 何も規則やルールもない、何の仕切りもない空間に存在するところから始まり、その、何しても良い 自由、なのに、何していいか不安で仕方ないところから、好き放題して、そのたびに問題が起こり、 喧嘩、争いを重ね、知を養い、ルールや規則を作って現世に至っている。 ということは、人間にとって、生きるテーマの基本的なものは、中庸を知る、、、 バランスをうまく掴んでゆく、、、ということなのではないか? と思ったんです。 それによって、幸せ、平和が感じられる。 知を備えていない状況において、人間はとかく、両極端、に行動しがちな不器用な生き物です。 悟り得ていない人間は、すぐ両極端に生きがちで、欲深く、上り詰めることを良いことと考え、 自分と種類の違う人を見下したり、服従させようとしたり、犠牲やリスクも考えずに、争いばかりをする。 さまざまな人がいます。 いろいろな職業や趣味を みんな持っています。 それは何でも、構わない。 この中庸を学ぶために、何か手段が用意されているだけ、、、。 それがお医者さんの技術であったり、先生であったり、俳優であったり、公務員や政治家であったり、、、 最初は頂点目指して、Topに這い上がろうとするけれど、それゆえについて来る、犠牲、人間の心のさまざまな闇、争い、、、 そんな体験を通し、きっと、何が一番大切なのか、を人は悟る。 さまざま、、、ですが、みんな、学びとっているところで行き着くものは、そのバランス、、、真中のところ、、、 を極めているのではないか、とある時、感じました。 そういうこと、特別なことをせずして、平凡なところでわかる人もいれば、特殊な環境の中で、死ぬまで気がつけない人もいる。。。 神様が人間に与えた試練とテーマなのかな? わけわかんなくなってすみません。。。

frau
質問者

お礼

人は「中庸」を悟るために生きているということですよね。結局それが最も難しく、古代の哲学者がうたっても、諍いの本能による歴史が、人類をもっとも進歩させたものかもしれません。「中庸」は安定していても、停滞でもあると思います。 いつか、文明や文化が淘汰されるときがきたら、そのときこそ「中庸」が生きるのではないかと思います。 難しい質問ですみません。ありがとうございました。

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回答No.1

嬉しさがあるから、悲しさが存在するんじゃないですか? ウラがあるから、オモテがある。 オモテだけのものなんて存在しませんよね。 悲しさだけだったら、それがフツーなんですから泣いてもしょうないです。 両端とまではいかないまでも、ものごとには「幅」というものがあってその中を往ったり来たりしている。 中庸とかいう考えもそこから来ていると思うのですが。 考え方ですが、中庸があるから極端もある。 そう考えれば、「ちょっと嬉しい」のとなりに「ちょっと悲しい」があるとするなら、悲しさのすぐとなりに嬉しさもあると考えたのでは? この幅が紙切れ1枚分程度しかないと表現したのでは? 紙切れ1枚で両者が二律背反と言い切ってしまうのもどうかと・・・ あくまで両者の間隔を紙切れ1枚分と言っているだけで、反しているとは限らないと思うのですがネ。 いかがでしょうか?

frau
質問者

お礼

両者の間にあるのは「中庸」。これは同意します。 よくいう「天才と狂気は紙一重」というのは、両者には差がない、といっていることだと思うのですが、両者の間の振り幅はあっても、紙切れ一枚分ということもあるわけで…。 この振り幅が二律背反と思っているのでなく、二律背反はなぜ表裏一体なのか?といったほうがわかりやすいでしょうか。難しい質問でごめんなさい。 ありがとうございました。

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  • 人生は紙一重ですか?

    まだ20年しか人生経験がありませんし、幼稚で拙い考えと文章で、勝手な自分語りが入っていますが、お暇がある時にでもご意見など頂きたいです。最近色々なことがあって人生について悩んでいて、考えるようになりました。 元気だった人が突然事故に遭ったりや病気になって他界する。 大恋愛で一緒になって幸せに暮らしていても浮気された。 社会的にも経済的にも高い地位にいた人が、厳しい生活をせざるを得なくなった。 ポジティブで明るい人が、メンタル系の病気を患ってしまう。 上記のような例はかなり極端だとは思いますし、当たり前だとは思いますが、先がわからなくてどうなるのかわからないのが人生だと思います。 また、不幸だと思われていたことが、結果的に幸福につながっていたり。 だからこそ幸せな状態の時に慢心したり、不幸な時に落ち込み続けることは、どちらもよくないことですよね? 幸福と不幸は紙一重で、明日の自分はどうなるかわからないから、常にニュートラルな気持ちでいたいと最近は思うようになりました。 高校生くらいの頃はお金とか物があれば幸せだとか、彼氏がいたり結婚することが幸せだとか思っていました。 もちろん、そういう考え方の人を否定する気は全くないですし、人それぞれの価値観を尊重したいとも思っています。 でも最近私は、健康でご飯が美味しく食べられて、布団で眠れて、会いたい人に会って笑いあったりなど、綺麗事と思われるかもしれませんが、そういう些細で当たり前なことが、すごくありがたくて幸せなだなーと思うようになったんです。疲れてるんですかね? 友達とはあまりこういう話はできないので、このような場で勝手な自分語りのようになってしまいましたが、これから先の生き方の参考のためにも、色々アドバイス頂きたいです。読んで下さってありがとうございました。

  • あらゆる学問は結局は慰めにしかならないのですか?

    幸せであれば人間、これに越したことはありません。 人生は幸を探す旅です。また愛を求める心も原動力になっていると思います。 でも世の中不幸でも成り立ってます。また数的にはそのようが多いです。(幸福の条件も数も両手で数えられるが、不幸は多種多様だと思います) そこで宗教や哲学、心理学などの分野が生まれます。幸福になる技術や学問としても成り立ちます。 でも不幸に疲れたような私には慰めにしかきこえません。確かに辛いことがあったときに立ち直る参考になります。「人は皆神様で、相手を通して自分を知る」という言葉を見つけまして感動もしました。また「人生は苦しみを通して己れを学ぶ」などと言われても、「幸福になることは罪ではない。皆同じように平等である」という言葉もあります。先人達の格言には気持ちよく啓蒙されるのですが、それぞれの格言には矛盾があるように思われます。結局人はなんで生きているのか?という問題に立ち返るのですが、皆さんは矛盾だらけの世の中をどのように思ってらっしゃいますか? 素直ではない私に何か助言をください。

  • 同じ現象なのに言葉ひとつで印象が変わる。

    言い方ひとつでずいぶん印象が変わることってよくありますよね。 長所と短所が紙一重の言葉の組み合わせに、魅力を感じます。 私は「無謀」と「果敢」は表裏一体だと思います。 「執念深い」と「根気よく」も、同じことではないでしょうか。 あなたの思う、「良く言えば〇○・悪く言えば××」の組み合わせを教えてください。あなたの考えでなくても、何かで見聞きしたことでもかまいません。 また、上記のような対になる言葉が列挙されているサイトがあれば、教えて頂きたいです。 お手数ですがお願いします。

  • 自分を好きになれない人は、人から愛されないって・・・・・

    こんにちは。 最近「自分を好きになれない人は、人から愛されない」と時々聞くのですが、誰が使い始めたのでしょうか? 自分に自信が無い(好きではない)人は、どう自分を可愛がるように思っても、むなしくなるだけだと思うんです。 また、自分の良いところを探そうとして、あまりにも自分の悪さを再確認してしまうとか・・・・・・。 「慎重である」は長所ですが「慎重で踏み出せない」は短所で、紙一重、というか表裏一体?あるときは長所、あるときは短所です。 自分に自信のない方はどうしてもネガティブになってしまうってことが、分からない人の言葉の様に思います。 そんな言葉より「私はあなたが大切です」って言ってあげて欲しいのですが・・・・・・。

  • 幸福とは?

    「幸福」とは、一体なんでしょうか? ずっと考えているのですが、正体がわからぬままで、時折他人に「幸福?」と聞かれても、「わからない」と答えるばかりです。 私が生きてきた中で、思ったこと、感じたことは、「幸福感」と「幸福」は別ものではないかということと、「幸福」は相対的なものではないのではないかということです。これはあくまでも私の感性が創ったイメージなので、論理的に説明することは難しいのですが…。 私の日常、人生の中にも「幸福感」は、少なからずあります。(美味しいものを食べた時や、眠りにおちる瞬間や、美しいものに触れた時等々…) しかしながら、「幸福感」は瞬間的な感覚であり、持続性に乏しく、「幸福」と呼ぶに足らないものではないかと、そう思っております。 「相対的なものではない」というのは、私の中に幻想が含まれているのかもしれませんが、「幸福」は何かと比較して見出すものではなく、“そのもの”が発するもの、もしくは“そのもの”が証明してくれるものではないかと、そんな気がしています。(頭の片隅には“絶対的”というイメージが…) 少なくとも、私は不幸な感覚や状態と比較して、「ああ、幸福だなぁ」とは思えませんし、他者と比較して得たとしたら、それは優越感ではないかと、そう思っております。 皆さまの考える「幸福」をお聞かせください。尚、私は哲学書などを読んだことがないに等しい、頭の中で堂堂巡りを繰り返しているだけの素人ですので、ご回答の際にその点を考慮していただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 私の考える幸福の定義は、誤りか意見をください。

    先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。 http://okwave.jp/qa/q7099980.html いろいろな意見があるのですが、 私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」 と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。 何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。 「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。 そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと思います。 (↑「健康マニア」は例外 これは幸福とは何なのか?などを哲学的に考えにふけってしまう「幸福マニア」も含む) 幸福も同じです。幸福な人間は幸福を「意識」しません。 決定的な不幸が襲わなくとも、平凡で安全な何不自由ない生活を送っているが、 なんとなく満ち足りない。物足りない。 そう感じると、幸福を「意識」するようになります。 つまり、そう言う人は幸福では無いと言う事です(比較の問題でその程度なら、劣悪な環境で生活している人たちからすれば、幸福度は決して低いものではないでしょう) 幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きると思います。 健康と同じように。 と言う考えでいたのですが、そのような回答を述べている人がいませんでした。 もしかしてこの考えは誤りなのでしょうか? *因みに私の幸福な人の定義「幸福を意識していない人」と言う「意識」という言葉がポイントです。 これを「幸福を求めていない人」と言う言葉だとニュアンスが変わります。

  • 冷たいのか優しいの紙一重な彼!

    彼(32)は、私(26)が飲み会に行くのを極端に嫌がります。その度に喧嘩になります。 私は彼氏だから甘えてたり、迎えに来てくれる安心感から気が抜けて酔ってしまいます。でも彼は(私が酔ってしまうのを)すごく嫌がります。飲んでもしっかりしてくれれば良いと言います。 努力すればできると思います。でもそれは=お酒を飲んだら酔うのは当たり前=そういう時に彼には甘えられない=もう酒は飲めない!とい事だと思います。 先日、どうしても出席しなければならない、会社の大事な飲み会があり、何時に終わるかわからなかったし、また喧嘩になったらいけないと思い、迎えを断り自分で帰ると言いましたが、何時になってもOKだからと言い、彼が迎えに来ました。しかし案の定ケンカです。 もう帰れると彼に伝えてから少し長引いてしまい、待たせてしまいました。急いで出たのですが彼はご立腹で私を置いて、帰ってる途中でした。何とか呼び止め、謝りましたが彼の気持は治まらず 『もう無理、こういうの耐えられない』別れよう的な事を言われたので、私も酔った勢いで『なんで?これで別れにつながるの?最低!とかひどい男!』とかひどい言葉を言ってしまい大ゲンカに発展しました。 一連の流れを見ていた私の上司達は(男性)後日『もう別れたがいいかもよ』と言いました。 私と彼は仕事場は違いますが、お互いの上司が親友同士なので、彼と私との事も上司達はよく知る存在なのです。 彼は普段の時、いつから始終、私を心配して過保護なまでにかまってくれます。色々な所へ連れて行ったり、会う時は必ず彼が迎えにきて、送り届けてくれます。そういうのも会社の人達はよく知っているだけに、 『いい奴だから付合うのは何も言わないけど結婚は考えたがいいよ。』とまで言われました。 ギャンブル・女遊び・夜遊び・一切しない人です。それにすごく家族思いで仕事もできる人で皆から信頼されています。だから好きになり付合いました。彼も結婚まで考えてると、私を大事にしてくれていました。それなのに、このくらいの事で別れまで結び付けた彼の考えがあまりにも許容範囲は狭いなぁ。と感じました。 良い時は、毎日連絡もマメで心配だから俺が守ってあげる!って感じですが、喧嘩したり悪くなると、それが嘘のように私がどこで何してようがパタッと連絡もなくなります。あげくには、この前のように待たされたのと私が飲んでしっかりしなかった事に腹を立て、置いて帰ろうとしました。だから上司達は、『確かに私が待たせたのは悪いけど、自分が迎えに行くと言っておきながら、本当に守ろうと思うなら理由がどうであれ、例え何時間待たされても彼女を送り届けてから、喧嘩なりなんなりすればいい。あまりにも彼は無責任すぎるよ。普段の○○(私)に対する行為は一体なんだろうね?酒が入っててしっかりできないから彼氏が受入れて支えてあげなくちゃいけないのに。肝心な時に守れてないよ!街に一人置いて帰ろうとするなんて!なら始めから自分で帰って来てと言えよ』と大激怒でした。 私も悪かったけど、上司にそう言われて考えさせられました。 今はまだ彼と別れたくなかったので、私が謝り和解しました。 でもよく考えると私が謙り、全部悪いのは私。飲んでも自分がしっかりせねば。彼氏がいるからと今まで甘えて子供になっていた。反省するよ。と私が言ったのに対し彼は『そういう風に思ってるなら、これからはうまくやっていける』と言い、私も納得のいかないまま仲直りしました。でもそれって完全に自分は悪くないと思ってますよね?やっぱり私が治さなきゃうまくいかないのかぁ・・・今の私を受け入れお互い非を認める事での和解ではないんだなぁと思うと、私はストレスが溜まっても飲んで酔っ払う事無く、しっかりして彼に接さないといけないのかと思うと、なんだか切なくなりました。 今思えば、彼は出会ってすぐ、お互いの事よく知らない間から私と結婚するつもりで、そういう言葉を発していたし、Hとかも気をつけていたけど、ちょっと危ない時があったので、計画的に結婚・子供と考えているから、出来ちゃった結婚は絶対にしたくない。と私が言った時も、 『俺は出来たら出来たで結婚すればいいと思う。ただそれだけだよ!それはそれで順序は逆だけど喜ばしいことだよ』という意見を出会って数か月の頃から平気で言っていて意見が食い違い口論になった事もあります。今思うと、すごく無責任に感じてなりません。どんな性格かもまだわからないのに、よくそんな事言えたな?って とにかく、仲直りはしたものの、やはり別れるべきなのでしょうか?私がまだ離れたくはないと思う感情は好きだからではなく情なのでしょうか?彼のいい面もいっぱいあるから、どうしていいのか解りません。 長文ですいません。皆様なにかアドバイスをお願いします。

  • あいつは紙一重

    ある人に、「あいつは、考えることが人とは違うし、将来は大物になる要素を持っているな。けど、あいつは紙一重だからな…」という事を言われました。 これってどういう意味ですか?? 紙一重の意味がいまいちよくわかりません。どういう事か詳しく教えていただきたいです。 お願いします

  • 宗教を信じる人の心理は?

    高校一年です。 最近「人」と言うのに嫌気をさしてきました。 人間は皆違う価値観を持ちそれを他人にどう受け入れてもらおうか探り探り生きていると思うんです。・・・自分はそう生きています。 でも世の中理解できない人ばかり・・・。例えば世の中には「神」と言う存在を本気で信じてる人がいる。なぜそんな物を頼りに生きるのか・・。もし本当に「神」と言われる存在があったとしても、それは何も救いはしないし助けはくれない。本当にそんな万能な存在がいるのなら皆幸福になってると思いません? 宗教なんて人が作った幻想でしかない。そんなくだらないものをなぜ本気で信じようとするのか・・。宗教は「意見の違い」を表面化してるだけ。だから戦争が起きる原因になってしまう事だってある。 「宗教」と言う安易のものを信じたせいでどれだけの血が流れどれだけの不幸がおきたか・・・。根拠の無いものを信じる事はとても危険で、一歩間違えば脅威でしかなくなる。宗教と言う呪縛が無くなるだけで、今起きてる混乱がどれだけ消えるだろう・・・。 人は他人を本当の意味で理解するのはたぶん無理だと思う。でも他人を理解しようとするのをやめればそれこそ「対立」が表面化しそれが大きくなるとどんでもない事になる。 宗教に限らず相手の考えを拒絶し続ければいつか災いが起きる。この文を見てどう思ったか聞かせてください。出来れば「ここは違うだろ」と言う意見が聞きたいです。自分は「皆が満足できる世の中」が正しいと思っています。それを実現する第一歩が宗教をなくす事だと・・。 あなたはどんな世界が正しいと思いますか?