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なぜ「紙一重」なのでしょうか。

Syo-yaの回答

  • Syo-ya
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回答No.20

たびたびすいません。m(_ _)m 「間隔」というのが、何を指しているのか判らないんですが、私なりの意見を言わせてください。 哲学と心理学は確かに融合するべきです。 縁起説でも判るように、この世の全ては、みんな輪のように繋がっていますので、トータルで考える必要があると思うからです。 「西洋医学(思想)は樹を観る」、「東洋は森を観る(全体)」と言われています。これも、いつかは統合されるべき二律だと思います。で、生理学というのも、欠かせないと思うんです。 例えば、私のような独身者でしたら、自分よりも若い夫婦が高級車に乗って、子供連れでいるのを見ると、やっぱり凹むんです。 「見る」から「凹む」までの間は、1秒間に100mという神経伝達の速さで瞬間で行われます。 「あ!」という間も無いほどの早さで凹むんです。自覚できないほどの速さです。 でも、その瞬間には、複雑な心のプロセスを処理しているんです。 複雑怪奇な心のプロセスを1秒間に100mという速さで処理して「凹む」という態度になるんです。 さらに姿勢も前かがみになったり、顔をそむけたりしますよね。 無色透明な真水が一瞬で「赤一色」に染まってしまうようなものです。 なんでかというと、自然界で生き残っていくためには、これくらいの神経伝達速度が必要なんです。 瞬間に、過去の経験や、相手の情報、現状・・・を処理して行動に移すように出来ているんです。 私達の脳にも爬虫類時代、下等哺乳類時代の脳がありますので、生存のための早さを持っているんです。 だから、さっきまで元気だったのに、急に悲しくなったりするんです。 「渇望」と「嫌悪」の間を揺れ動くんです。 でも、生理的にみれば、ちゃんと「因果」「縁起」になっているんです。 理由があって悲しくなるんです。根拠があるんです。 ただ、あまりにも、早すぎて、気がつけないだけなんです。 さらに、人間は目の前に無いことにでも反応してしまいますよね。 トラウマ、フラッシュバックが良い例だと思います。 過去の経験が、無関係に顔をだして、「今の私」の判断、行動に影響します。 これも上記の心のプロセスの一部になっているんです。 脳は神経細胞同士のネットワークで構成されていますので、経年と共にパターンが出来上がってしまうので、普遍な「私」が存在するように思えるんです。ですから人間の性格、発想、行動も因果、縁起で成り立っているんです。 先に紹介しました瞑想をやっていると、これが判るようになってきます。 経典にも「心のプロセスを感受しながら、呼吸をしなさい」とあります。 心が、一瞬、グワッグワッ!とするのが判るようになってきます(^^ カメレオンのように無常に変化していくのが面白いように判るようになってきます。 「判る」ということは、平常心の仕事なので、とても楽になれます。 心のプロセスに対する無知も消えてしまいます。 無知と反応が消えてしまうので、苦も消えていくんです。(十二縁起説) ですから、二律背反といえども、ちゃんと条件があって起こるので縁起、因果の法則のうちに在ると思います。 だって、もしなんの条件もなく起こるものならば、常在してなければなりません。 常在するということは、「実体がある」ということになります。 frauさんは西洋思想派なので、一本の樹から森全体を考察するんだと思うんです。 で、その結果、実体にいたると想うんです。 私は仏教の影響で、森に流れる普遍のメカニズムを通して一本の樹を見ます。 だから私には「実体」という観念はあまり無いんです。 あるとしても非言語的な世界であり、語るに及ばないと思います。 ですから主観的、人智的に「二律背反でこの世が成り立っている」とは、どうしても思えないんです。 「複雑怪奇」「混沌」だと思います。 でも、コンピュータは「0(OFF)」と「1(ON)」だけで出来てますよね。 例えば「あ」という文字は「001100100(適当)」といったような配列で成立してます。 ですから、もしかしたら、我々も、同じような原理に基づいているかも知れないので、 「実体」「創造主」「意思エネルギー」を否定するものではありません。 あと「停滞」ってもしかしたら「慈悲」の対義語かも知れませんね。私の勉強した限りでは、停滞という言葉はまだ出てこないんですが、あるとしたら仏教でいう「慈悲」ではないかと思いました。(「愛」が正解かも知れませんが・・。) 今後の考察に役立てば幸いです。

frau
質問者

補足

>哲学と心理学は確かに融合するべきです 同じ「ヒト」に関することですものね。 >frauさんは西洋思想派なので えーっ、そうみられていますか?いえいえ、実際違います。どちらかといえば思想は東洋派です。ただ、最近勉強しているユング心理学などでは東洋と西洋は深いところで素敵な融合をしているなと思いました。どちらかというと「意識的」なのは西洋の方でしょうか。東洋は長い歴史からのプライド(?)もあるのか、もっとどっしりと構え、何ものにも動じない強さと深さを感じていましたが、その感じ方を裏づけてくれました。 たとえば「因果」「縁起」だって仏様の世界の言葉ですが、刺激に対する過去の出来事の検索は分析心理学では無意識とのコンタクトというように説明しています。例えばコンプレックスはトラウマによって協力になった感情が、そのコンプレックスとなっている言葉(外部刺激)に対して敏感にならざるを得ないわけです。そのトラウマによって想起されるのがフラッシュバックですが、確かに私も経験上浮かんでは消える過去の映像はあっという間に過ぎ去っていきます。(そのついでに心に傷痕を残しながら…。) 「縁起」というのも心理学でいう「行動様式」ではないでしょうか。ある一定の思考パターンが繰り返されると、心は行動様式を作ってしまいます。無意識に抑圧された欲望と自我の葛藤が強すぎると、神経症などの精神疾患として現れます。 瞑想や悟りの意識を変性意識といいます。正確には無意識にまで「意識」を到達させたときその領域でなされる意識なので無意識的意識もしくは意識的無意識でしょう。方法としては催眠や自律訓練、また座禅や瞑想などで到達にいたります。すでにお分かりのように、思想や方法の、東か西の境界線はありません。むしろ西洋思想、医学のほうが1970年代以降、「西洋心理学のフロンティアのひとつ」として、自らヨガ、禅、スーフィズム、チャネリングなどの「至高体験」を中心にすえる思想にアプローチし始めました。それが第四の心理学「トランスパーソナル心理学」です。西洋医学の限界を感じられたのでしょう。 分析心理学はユングの学説ですが、ユング自身も東洋思想に傾倒していまして、ユングを日本に初めて紹介した京都大学名誉教授の河合隼雄先生が「仏教とユング心理学」という本を書いています。 例えば身体の健康について、私はどちらかというと部分的に診る西洋医学の方よりも身体全体を診る漢方療法やハーブ療法、ホメオパシーなどに興味があります。効果は遅く、気長に続けなければなりませんが、緊急時などは西洋医学の合理性が必要になります。また漢方も副作用はないといいますが、中には死に至らせる毒性の強いものもありますし、対症療法的な西洋医学の薬に副作用のないものもあるといいます。 いずれか、と偏るのではなく、その中庸にたって両者のメリットを選択するという姿勢をとるようにしています。これは、対社会に向かう姿勢としても通用することと思います。つまり人や事件を偏見や独断の判断で決めることのないように…。 >心のプロセス 臨床心理学ではこのプロセスをとても重視していますし、その過程を経る変容が癒しにつながることとなります。それなので >心のプロセスに対する無知も消えてしまいます というお釈迦様の悟り(=癒し)の過程としては、とても興味深いです。 >無知と反応が消えてしまうので、苦も消えていくんです。 この「十二縁起説」とはあの名言通りの「無知の知」ということなのかしら?と思ってみたり(笑)。

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