松平清武の謎とは?

このQ&Aのポイント
  • 松平清武は徳川将軍の候補に上がりましたが、なぜ歴史に埋もれたのでしょうか。
  • 松平清武が将軍にならなかった理由には、他家に養子に出た者は本家の跡を継げないという制約や身代が小さすぎることへの抵抗がありました。
  • しかし、松平清武は徳川家宣と同じ血を引いており、将軍候補に上がってもおかしくはなかったです。なぜ彼は歴史に埋もれてしまったのでしょうか?
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松平清武

徳川7代将軍は家継ですが、父親の家宣が臨終の床で 「わが子は幼いので、尾張吉通を次期将軍に」と指名したのは有名な話(翻意しましたが)ですが、この時は将軍候補に「松平清武」の名前はありません。 8代将軍は、本命紀州吉宗、対抗尾張継友で、大穴として水戸の話も出ましたが、この時も松平清武は候補にもなりませんでした。 巷間言われる理由として、一旦他家に養子に出た者は本家の跡を継げないという理由、また身代が小さすぎて諸氏が主と仰ぐのは抵抗があったとか言われています。 しかし兄の家宣は同様に新見正信の養子から甲府家を継いで将軍になってますし、家宣が西の丸に入る時に、吉宗が紀州家を西条家当主に譲ったように、甲府家の主を弟の清武に譲ってもよかったような気がします。 家光と保科正之は義兄弟ですが、家宣と清武は母親も同じ実の兄弟ですから自然と思います。 そう言えば吉宗までの将軍は、主が転出すると館林家も甲府家も断絶してますね。 8代候補の時は、伯父が甥の養子になるのは長幼の順に反するとの倫理的反対があったようですが、諸大名では父親が若死にした息子の養子になった(彦根の井伊家)例もあり、何か決定的な理由に欠ける気がします。 結局松平清武が徳川家宣と同じ血を引きながら歴史に埋もれたのは何故なのでしょうか。 将軍候補に上がってもよい気はします。

noname#113260
noname#113260
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回答No.2

 清武は家宣とちがい、成人したのちも越智姓のままでした。松平を名乗ることを許されたのは、兄の西の丸入り後のことです。この「養子に行った子」感が原因なのではないでしょうか。  家宣は新見家の養子といっても、これは父親が正妻を迎える前に生まれた子であるために世間体をはばかって新見家の子としたもので、たしか8歳くらいで松平姓に復し、そのまま家督を相続しています。一方で清武は、養子入りの事情は同じことですが、次男のことですからそのまま本家に戻すメリットもみつからず(部屋住みになってしまうよりは小なりとも当主のほうがいいのは決まっています)、ずるずると越智の人であったのではないでしょうか。  一旦他家に養子に出た者は本家の跡を継げない、というのはたしかにそれほど厳密な決まりごとではなかったのかもしれませんが、しかし越智家は越智家でそれなりの事情があって養子をとったものですし、越智の家として大名に封ぜられているわけですから、おいそれと当主をよそに出すわけにはゆきません。「寛政重修諸家譜」という書物の松平家の部分をめくってみますと、保科家、越智家は完全に「将軍の兄弟がたまたま養子に行った先(だからほんとうは松平じゃない)」として、すべての松平家の最後におまけのようなかたちでくっついています。養子に行った彼らの扱いは相当に低いと言わざるを得ません。すくなくとも編集方針としてはほとんど親藩(将軍家の一族)としての扱いですらないのです。  空いた甲府家をなぜ継がせなかったのかについては、御三家とはまた別だと思います。御三家はたとえ当主が将軍を継ごうが、家は家として継続してゆかねばならない。将来のためのそなえであるわけですから、勝手につぶれてしまうわけにはゆかない。将軍家―御三家のこの関係はそのまま、御三家―支藩の関係にもあてはまるといえます。ところが将軍直系の分家の場合、養子後かならずしも家が存続する必要はない。もともとあまった男の子を分家させただけであって、御三家のように「制度的に永続して万一の際の養子候補になる」という使命あるいは基本的な枠組みを幕府制度のなかで定められているわけではありませんから、当主と嗣子が将軍の養子になって家はからっぽになってもかまわないのです。いわば後の御三卿にやや近い存在ではないでしょうか。  いい例が思い浮かびませんが、ここに一軒の大店があって、十代前くらいにそこと暖簾わけした老舗の支店がある。本家に子がなくなったので支店から当主が養子に入ったけれど支店は支店でそれなりの伝統のある店だからつぶすわけにはゆかない。自分の後釜を決めないと養子に出られない。ところが大店の当主に子がなくて甥っ子かなんかにあとを告がせる場合、甥っ子にも継ぐべき家があるにしろ、先代が分家したばかりで本家と一体感がつよいし(その分伝統の重みはない)、かたちは養子入りでも本家と分家がもういちど合併するようなつもりだから、分家の後釜はとくに必要ない、という感じでしょうか。  将軍継嗣は、血筋だ、家格だ、ということに表向きはなっていますが、実情は御三家およびそのほかの有力候補者の政治的な争いです。最終的にはかけひきのうまい候補者が勝つ。将軍や決定権を持つ人間に「こいつ」と指名させるためにあらゆる手段を使うのであって、血筋・家格というのは最後に表面をとりつくろう建前に過ぎません。実際吉宗も家康に一代分血が近いというのが表向きの理由ですが、内実は紀州家の売りこみ作戦がほかの候補者を抜いてうまかったせいだと言われています。要するにそうした弱肉強食の競争のなかで覇をあらそいうるほどの実力(家の大きさも含めて)が清武にはなかったということなのではないでしょうか。

noname#113260
質問者

補足

結局は本人のやる気だったのかも知れませんね。 筋目では、尾張の継友が甥の五郎太の養子という事、年齢では水戸の綱條が老齢という事で辞退してますが、候補として推されてます。 一方清武は8代将軍を決める時点では、館林5万4千石の独立した大名ですし、家光の孫という唯一の本家の正統な血筋を引く男性ですから、本人に積極的なやる気があれば、大奥を初めとする勢力に根回しをして、有力候補になり得たかも知れませんね。 天栄院は多少その気もあったらしいですが、どうも周囲がのってこなかったような。 清武は小池一夫の「弐十手物語」での印象が強いのですが、大名暮らしに満足し、将軍になって責任を負うのは嫌だったのかも知れません。 家宣もそんな気持ちがあったような・・・。

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  • kouunlove
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回答No.1

松平清武は将軍候補に挙がったことはあります。 しかし越智氏に養子入りし、甲府徳川家の家臣となった事がるのと、45歳と当時としては高齢であったため落選したそうです。

noname#113260
質問者

補足

確かに8代将軍を決める時点では54歳ですからいささか年寄りの感はあります。 しかしながら62歳の天寿を全うしてますから、健康面を見れば、45歳(虚弱な家宣が継いだ年より若い)ならまだまだという気もしますし、兄は甲府家の家臣である新見氏の養子から甲府家当主を経て将軍に転じてますから、同じ血筋、同じような経歴の清武が何故・・と言う気はします。 新見氏も越智氏も家格としては大差がありませんし? 結果を見れば清武も子供がいませんから、彼を7代とし、ワンポイントにした方が、付き合いの長い白石達もよかったような気がします。

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