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廃絶大名

よく似た経緯で廃絶した、館林家と甲府家ですが、館林家が藩主の徳川徳松が5歳で亡くなり、無嗣廃絶により除封されたのに対して、甲府家は藩主の徳川綱豊が本家の養子に入ったため、幕府に領地を還付しています。 こういった例は水戸藩の武田信吉や清洲藩の松平忠吉などがおり、この両者は水戸藩が頼房が清洲藩は義直と、それぞれの弟が引き継ぎ、家臣や領地も看板を変えただけでそのままと言うことと思います。 それに対して、前者の館林と甲府の両家は完全になくなり、館林に関しては後に初代藩主綱吉の甥清武が再興してますが、24千石で1/10にも及びません。 また甲府家はこれまでの例から言えば、藩主の実弟(清武)が跡を継いでも良いように思いますが、完全消滅。 紀州家などは藩主が度々本家の養子になりますが、そのたびに西条家などから養子を迎え、家としては廃絶と言うことも無く幕末まで続きました。 質問としては 1. 館林、甲府の両家は何故いきなり廃絶されたか。 2. 両家の家臣(藩の規模からすると少ないですが)はどうなったのでしょうか。 3. 尾張、水戸家の兄→弟という交代はスムーズだったのでしょうか。 4. 甲府家は何故後継者を出せなかったのでしょうか。 分かる範囲でよろしくお願いします。 特に松平清武は3代将軍家光の血を引く最後の男系子孫ですが、どうも影が薄いですね。 兄も同じように家臣の養子に出されたので、経緯も同じですけど。

noname#113190
noname#113190
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  • Pinhole-09
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回答No.2

 1.館林藩の場合は、藩主綱吉が兄の将軍家綱の養子になり、2才の徳松が藩主になりましたが、その後所領の半分を200人余りの旗本に分与させられました。      徳松の急死で後嗣なしの規定どうり廃絶、天領になりました。      幕府の財政事情によるものと思われます。      甲府徳川藩の場合は、4代目藩主の綱豊が叔父の将軍綱吉の養子になった時、領地返還させられたのは、綱吉の意向です。     綱吉が死んだのち寵愛していた、柳沢吉保が川越から甲府へ転封になりその後加増されました。     綱吉の厚志によりと書かれています。      ただその子吉里の代になり、突然大和郡山に減転封になりました。      吉里が綱吉の子といううわさが関係ありそうです。                       2.よくわかりませんが、もと藩主が将軍になったのですから、身は立ったのではないですか。  3、いずれも大御所家康の子ですから、家康の一声に逆らえる訳もなく揉めた話は聞きません。      大御所のいない所の相続は大変です。  4.  1.の通りです。

noname#113190
質問者

お礼

ありがとうございます。 結局、綱吉は甥の綱豊には好意をもてなかったので、優遇はしなかったのでしょうね。 御三家は家康直々の大名ですから、将軍の代替わりに貰う安堵状も不要ですから、特別なようですね。 歴史小説で、元清洲藩の家臣で、尾張家には仕えずに故郷で帰農した武士の話があり、このあたりも興味があります。

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  • 6dou_rinne
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回答No.1

ふつう分家大名が本家を継げば分家はなくなるのが普通で、徳川一門に限らず例はたくさんあります。 ですから甲府や館林のほうが一般的な扱いです。 ただ、分家といってもそれまでの歴史や由緒があったりする場合には本人が本家の養子に出ても他の者があとをついで存続するという例もあります。

noname#113190
質問者

お礼

確かに越前葛野3万石の松平頼方が紀州藩主になったり、下総守屋2万石の酒井忠明が下馬将軍と言われた父親忠清の跡を次いで領地を返上したなど、例は多いですが、甲府は35万石で、1661年に綱重が入部してから2代40年近い歴史があり、家臣も多かったのではないかと想像します。 栄転ですから、家臣の多くは藩主に従って幕臣になったと思いますが、全てと言うわけでもない気がしますが、家臣たちはどうなったのでしょうか。 また跡継ぎ候補も、同腹の弟がいたのですから、これだけの大藩を潰すと言うのも、ちょっと不自然な気がしました。 甲府徳川氏の支配と言えば、義直→忠長→綱重→綱豊と来て、次が柳沢15万石→天領ですから、仕える側も困るような気がします。

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