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楠木正成の正一位追贈について

たまたま、楠木正成のことをwikで調べていて、「明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。」という記述が気になりました。 「なぜ、南北朝期から600年も経過した明治になって、もてはやされるようになったのか???」、「なぜ、正一位を追贈されたのか???」……天皇を中心とした国家づくりの真っ最中でもあり、天皇の忠臣としての正成を偶像化しようとしたものなのか???、あるいは軍事の天才としての正成を男子国民のあるべき姿としての象徴に祭り上げることが目的だったのか???などと素人なりに空想してみたのですが……???……「下手の考え休むに似たり」で、やはり歴史に詳しい方に教えてもらうのが一番確実だと思うので質問させていただきました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90

noname#247736
noname#247736
  • 歴史
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みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2184/4838)
回答No.5

>なぜ、南北朝期から600年も経過した明治になって、もてはやされるようになったのか? 先ず、明治天皇(偽物説多い)の裁断で「南北朝時代は、南朝を正当とする」事になりました。 とすれば、後醍醐天皇に弓を引いた室町幕府及び足利家は「朝敵・国賊」となりますよね。 ※足利将軍家子孫は、爵位を受ける事が出来なかった。 ※天皇家の祭りである「葵祭」でも、室町時代は無視された。 反対に、命がけで南朝後醍醐天皇を守った豪族山賊・楠木正成は「忠臣」となります。 明治政府は、非常に不思議なんです。 幕末、孝明天皇から国賊・朝敵とされた公家・大名・武士・商人・浪人などが「明治天皇になると、忠臣」に変化するのですね。 三条実美なんか7卿は、国賊・朝敵として「追討令」が出ていました。 孝明天皇が急死(暗殺説あり)した後で、先に書いた通り忠臣扱いです。 徳川幕府・徳川将軍家も、一時期朝敵になりました。 まぁ、多くの国民は「天皇の存在を知らなかった」のですから「何らかの、パホーマンス」が必要だったのでしよう。 「天皇の為に、命がけで戦った」=「国民は、天皇の忠臣だ」 要は、誰にでも解りやすく説明出来る人物が楠木正成こと「楠公さん」だったのです。 戦術とか思想とかは、全く関係ありません。 余談ですが・・・。 幕末まで、歴代天皇は一度も伊勢神宮を参拝した事はありません。 突然、明治から天皇が伊勢神宮に直接参拝する事になったのです。 「天皇は、天照の子孫で現人神である」という事を、国民に知らせるのが目的。 時の為政者は、都合の良いように何でもします。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご回答で、幕末史の一側面が理解できました。 明治政府は、非常に不思議なんです。……明治政府もさりながら、久々に陽の当たった天皇なり取り巻きの公家衆にも当惑があったのかも???という気がします。 幕末まで、歴代天皇は一度も伊勢神宮を参拝した事はありません。……えぇ~~~、そうだったのですか。驚きました。「お伊勢参り」というと、江戸時代の庶民でも、一生に一度は行ってみたいというところでしょ。私も、ツアーで一度行ったことがありますが、身分が低いので、中に入れず、つまらなかった、有難さも感じなかった。笑 「ご都合主義の伊勢神宮」ってことですかねぇ??? 時の為政者は、都合の良いように何でもします。……そうなんですよねぇ。歴史を学ぶ意義は、「今を知る」ことだと思っているのですが、その「今」がなかなか分かりません。いったい何をやっているのやら。高齢者の凡人には、もう無理かも。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10491/32993)
回答No.4

>天皇を中心とした国家づくりの真っ最中でもあり、天皇の忠臣としての正成を偶像化しようとしたものなのか???、あるいは軍事の天才としての正成を男子国民のあるべき姿としての象徴に祭り上げることが目的だったのか??? そこらへんで概ね間違っていないと思います。ただし、そういうことがどこかに公文書として残っている訳ではないですから「そうだったんでしょうね」としかいいようがないと思いますけどね。 明治政府が一番苦労したのが「近代的な国民軍を作る」ことでした。江戸時代の(名目上の)軍隊は武士で、これは世襲制でありしかも忠節の対象は藩主でした。当時の人々の価値観もそうで、だから西郷隆盛が下野したら多くの人たちが隆盛についていったのです。「我々が忠節を誓っているのは西郷どんであり、日本政府ではない」というわけです。こういう個人的感情に基づく主従関係は、とても近代的ではないですよね。 一方、国民軍を作る以上兵士は武士階級だけでは賄えません。農民などにも広く負担をしてもらう必要がある。できれば国民皆兵にしたいわけです。ところが当時の価値観とすれば「戦うのは武士の仕事。なんで俺たちが戦わないといけないのか」と農民たちが兵役を担うことに強く抵抗したのです。兵士っていうのはゴロツキがやる仕事でもありましたから、軍隊に徴兵されると田舎の純朴な少年が軍隊で博打を覚えてロクに働かなくなったなんてこともしばしばだったので、余計に人々は抵抗したのです。 そういう中で「天皇に忠節を誓い、最後の最後まで天皇のために戦って壮烈に戦死した」というのはカリスマとしてインパクトは十分だったと思います。 ただ、当時の公家衆が正成に対して正当に扱ったのかというと全く理不尽な扱いしかしていませんでしたけどね・笑。当時の皇室としては、その負い目もちょっとあったかもしれませんね。「あんときは不当に扱ってごめんね」って・笑。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 そこらへんで概ね間違っていないと思います。……少しは日本史が読めるようになったのかなぁ???笑 明治政府が一番苦労したのが「近代的な国民軍を作る」ことでした。……「歴史にIFは禁物」だと、某教授が書いていましたが、維新後の日本の展開のことに思いを巡らすときに、「大村益次郎と江藤新平が生きていたら」と、ついつい「IF」を考えてしまいます。司馬遼太郎の小説の影響の受けすぎでしょうか。 軍隊に徴兵されると田舎の純朴な少年が軍隊で博打を覚えてロクに働かなくなったなんてこともしばしばだったので、余計に人々は抵抗したのです。……そんなこともあったのですか。歴史的な事件や事象の「背景」を知るということが重要なのはわかるのですが、一朝一夕には。泣 当時の皇室としては、その負い目もちょっとあったかもしれませんね。「あんときは不当に扱ってごめんね」って・笑。……笑・笑。正成の扱われ方が理解できたような気がします。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.3

>天皇を中心とした国家づくりの真っ最中でもあり、天皇の忠臣としての正成を偶像化しようとしたものなのか??? 単純にこれであってるんじゃないですか? 武士の世から天皇の世に戻したのは過去に後醍醐帝しかいませんので、その忠臣を明治にもてはやすのは自然の流れかと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 全く的外れでもなかったのですね。 武士の世から天皇の世に戻したのは過去に後醍醐帝しかいませんので、……気づきませんでした。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 僕は明治以後に生まれたので、これはほんの憶測に過ぎませんが、北朝系の明治天皇が、なぜ南朝側の楠木正成を持ち上げたのか、については下記もあります。  https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-12380048851.html  その動機は、下記の「1911年(明治44年)、いわゆる南北朝正閏論を収拾するため、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされ」までの一環かと思われます。   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)  

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 南北朝正閏論……北朝の正統性が、問題になったことがあるという程度の知識しかありませんでした。少し調べてみたのですが、かなり論争されたのですね。複雑ですね。素人には、ここまで、勉強しなくても、他にやるべきことがいっぱいあるというか、歴史に対する、素人の無力感を感じました。泣

noname#252332
noname#252332
回答No.1

 明治維新は生まれつきの身分の違いを少なくして海外と交易しようと言う五カ条の御誓文に代表される世俗の革命でしたが、その原動力の一部であった尊王思想、垂加神道のイデオロギー勢力もある程度の発言権を持ちました。彼らが、足利尊氏は悪で楠木正成が善ですよねぇとか、外国の宗教施設である寺は悪で日本古来の神社が善ですよねなどと主張して、一部は政策化されました。足利尊氏の木像の首を切ることさえ討幕運動のひとつでした。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 世俗の革命でした……考えてみたのですが、「世俗」という意味が理解できませんでした。 足利尊氏の木像の首を切ることさえ討幕運動のひとつでした。……調べてみたのですが、「足利三代木像梟首事件」というのがあったのですね。参考になりました。

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