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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:巨勢徳陀(? - 658年)が正一位?)

巨勢徳陀:正一位への昇進とその疑問

このQ&Aのポイント
  • 巨勢徳陀は正一位に昇進したとされていますが、その時期に疑問があります。
  • 冠位・官位制度の変遷によれば、正一位の登場は685年以降です。
  • 巨勢徳陀に関する資料からは、彼が正一位に相当する大繍であった可能性も考えられます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.2

こんにちは。 「巨勢徳陀(? - 658年)が正一位?」の質問内容を見て調べてみました。Wikipediaの「正一位」の記述以外に巨勢徳陀の正一位叙位を記述したものに「尊卑分脈」があり、「紀氏」の項の中に「(巨勢)徳陁」として「左大臣正一位」としてあります。「尊卑分脈」は根本資料の一つですから、尊重されるべきですが、この記述については頭注があって、「人、補任徳太作孫正一位、続紀作大繍」とあります。 そこで他の資料にあたると、「続日本紀」では上記のように「大繍」、「公卿補任」では「大紫」とあります。それぞれの官位相当を「国史大辞典」でみると、「大繍」は後の正二位相当、「大紫」は後の正三位相当とあります。以上の資料から考えると、巨勢徳陀の正一位叙位はなかったのではないかと思います。「尊卑分脈」の記述が一人歩きしたのではないでしょうか。 参考までに書き加えれば「大織」の冠位は後の正一位相当であることです。藤原鎌足が死の直前に「大織」の冠位を天智天皇により授けられたことは有名な史実ですし、鎌足を「大織冠」と尊称するほど、この冠位を授けられたのは鎌足一人ですから、実質正一位生前叙位ではなかったかとも思います。 根本資料とはいえ、2,3の資料にあたっただけですので参考程度に。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 わざわざ調べて下さったとのことで・・・頭が下がります。 「尊卑分脈」の中に描かれていましたか。 巨勢氏って「紀氏」だったのですね。 初めて知りました。 で、「続日本紀」では「大繍」、 「公卿補任」では「大紫」となっているのですね。 「大繍」は後の正二位相当、 「大紫」は後の正三位相当ですか。 うーん、そうすると、巨勢徳陀の正一位叙位はなかったと思われますね。 おそらくウィキペディアは「尊卑分脈」の記述から巨勢徳陀正一位としたのでしょうね。 「大織」の冠位は後の正一位相当なのですね。 なんでも7世紀から8世紀に生前に一位が与えられた者はいなかったということです。 鎌足の子の藤原不比等と石上麻呂が死後に一位となったそうです。 丁寧な説明をありがとうございました。 感謝いたします。

その他の回答 (1)

回答No.1

私の友人は自衛隊で働いていました。 任務が激務であったため、過労死しました。 葬式の後、日本国政府より正八位を戴きました。 友人は死亡していないはずですが、どうして正八位になれたのでしょうか? これが答えです。終わり!

noname#163492
質問者

お礼

ご友人が過労死なさったときには正八位という位がありました。 しかし、巨勢徳陀が死亡したときには正一位という位はなかったと考えられます。 なぜなら、巨勢徳陀が死亡したのは658年。 正一位という位が登場するのは685年の冠位四十八階以降です。 しかも、上記サイト正一位のところには 巨勢徳陀は【生前に】正一位を受けたと書いてありますね。 自信ありって・・・アナタ・・・

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