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(春秋時代)東周と諸侯国との関係は?

東周と諸侯国との関係が分かりません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E4%BB%B2  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%91%A8%E5%88%97%E5%9B%BD%E5%BF%97 これらの記事から判断して、権威も統治能力も失墜はしていたものの、形式的には「戦国の七雄」を含む諸侯国を束ねる形で「周」が君臨していたように思えます。こう考えてよいですか。日本の室町幕府と戦国大名みたいな関係と思ってよいですか。 よろしくお願いします。

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回答No.1

 地歴教育の専門家として回答します。  東周の権威失墜に関しては、ウィキペディアは極論と言えると思います。  確かに、古くの周王朝の権威性からすれば、格段に落ちたとしても、その権威性は、 戦国時代の室町幕府くらい(それ以上)の意味はあったと考えるべきでしょう。  形式的には、春秋時代とは、諸侯・群雄が突出した権力を持たず、相互牽制した体制と考えるのが妥当で、東周は統治権力の正統性を権威付ける唯一の存在としての価値があった、という理解が妥当でしょう。  最近の政治学の動向では、暴力(軍事力)を重視して、権威(大義・法規範)に関する体制維持の効果に関して配慮がかけていることが多くようですが、  単なる暴力(軍事力)は体制を創造・破壊するだけのものであって、 体制維持は、権威(大義・法規範)に立脚したものと考えるべきでしょう。  つまり、圧倒的権力(暴力)を掌握した諸侯が、最終的に権威を奪取するために東周の存在が重要だったわけです。  もっとも、戦国時代になって権威もクソもなく実力主義だけで中華が形成できると考える時代になると状況が変わります。    ところで、春秋時代の権威について解説する必要性がありますが、 それを具体的に説明するのは難しいと思います。  簡単に説明すれば、中華の正当王朝は伝説の夏・殷・周と続き、周の継承者が正当な中華王朝という理解があります。  王朝交代の歴史観です。これは、中国に限らず権威と考える傾向です。  ただ、今の中央集権社会の国家イメージで考えるものではなく、単なる部族連盟社会の権威なので、強烈な支配力ではありません。  イメージとしては、緩やかな同盟体の盟主が、周王朝です。 もっとも、中華の歴史において、同盟盟主の意味は対外勢力に対する代表としての意味が強く、対外的影響力が国権の権威に繋がることなどからも回答できます。  現代社会の国家でも、他国の承認によって国家が成立する(国家承認説)が国際法として採用されていますから、  周の権威は、対外的な支配権力の承認と考えるのが自然かもしれません。  補正しておく必要性がありますが、日本の室町幕府・戦国大名の関係では、朝廷という国内権威の承認です。  一方、中華社会は、国内権威ではなく対外権威の意味もありますので、少し異なります。  海を国境とする国家である日本は、外国勢力の国家承認の権威が必要ないので、少し単純化できると思います。  ちなみに、この国家承認に関しては、現代の国際法課題でもありますが、日本人の感覚には馴染まないかもしれません。

sono-higurashi
質問者

お礼

http://www.h3.dion.ne.jp/~china/china2-2.html  その後、このページを見つけました。お蔭様で、これとご回答とを併せ読むことによって少しイメージが固まりました。 理解の幅と深さに違いがあるにせよ、まぁまぁご回答の言わんとするところは読み取れたように思います。 春秋時代を通じ勢力の伸張、縮小はあっても、東周は中国の統治権力の正統性を権威付ける存在であったこと、如何に戦国時代とはいえ大義名分や権威が無価値ではあり得ないこと、対外勢力に対して周が中国を代表する存在であったこと、これらのことは自分なりに分かったように思います。周と他の諸侯国との関係は、言わば由緒ある老舗と新興勢力との関係にも似て、何処とはなしに周は中国の臍の緒的な存在だったのだと思います。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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