• ベストアンサー

徳川家重の生母 “深徳院” の第2子の幼名は?

9代将軍・徳川家重の生母 “深徳院” の第2子の幼名は何だったのでしょうか? https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BE%B3%E9%99%A2 上記のページによれば、深徳院は、 吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日[1]、赤坂の紀州藩邸において難産のため母子ともに死去した。享年26。 という事になっています。 その、正徳3年(1713年)に懐妊した深徳院の第2子の幼名は何だったのか?を教えてください。

noname#226792
noname#226792
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

すいません m(__)m Web上で調べてみましたが,和歌山県立図書館所蔵の,『南紀徳川史 第一巻』に,おそらく,紀州藩時代の徳川吉宗氏についての詳細が,載っているようです..徳川吉宗氏の側室;大久保忠直氏の娘;お須磨の方は,第二子は,死産だったようですので,多分,『南紀徳川史 第二巻』の,徳川家茂氏の兄の,死産された方の情報のように,死産された際の戒名,『○○院~~~~童子』などと,資料に,記載されていると思います..そこから 幼名も分かるのでしょうか‥‥すいません 詳しくありませんが,回答させて頂きました m(__)m 。

noname#226792
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 お須磨の方(深徳院)の第二子は、死産だったのですね。 https://books.google.co.jp/books?id=6Y3x_sQOdFUC&pg=PA317&lpg=PA317&dq=%E6%B7%B1%E5%BE%B3%E9%99%A2&source=bl&ots=hSEZdBoKvL&sig=legPPiJVCTniHlYpBNS27Ce4E2U&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjgn9iC8Z3UAhWFk5QKHXHrAEk4ChDoAQgJMAA#v=onepage&q=%E6%B7%B1%E5%BE%B3%E9%99%A2&f=false このページによると、戒名は体幻院みたいですね。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.1

zvwxomn さん、こんにちは。 池上本門寺にある過去帳を見るか、県レベルの図書館で紀州藩関係の日記を調べるほかないと思います。おそらく、過去帳には戒名が、日記には戒名とともに幼名が記されていると思います。 池上本門寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E6%9C%AC%E9%96%80%E5%AF%BA

noname#226792
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 深徳院が産んだ、徳川吉宗の本当の次男について

    徳川家重の同母弟である、徳川吉宗の本当の次男について教えてください。 徳川吉宗の本当の次男は、田安宗武ではないそうです。 徳川吉宗の本当の次男は、徳川家重の生母でもある “深徳院(お須磨の方)” が正徳3年(1713年)に産んだが、夭折してしまったそうです。 その夭折してしまった、深徳院(お須磨の方)が産んだ、徳川吉宗の次男というのは、幼名(若しくは戒名)は何で、また、生後どれぐらいで夭折してしまったのでしょうか? 深徳院(お須磨の方)が産んだ、徳川家重の同母弟である、徳川吉宗の次男についてわかる事を全て教えてください。

  • 徳川吉宗の側室について

    徳川吉宗の側室の内の3人、 家重の生母、深徳院 宗武の生母、本徳院 宗尹の生母、深心院 の中で、一番早くから吉宗に仕えていたのは、誰ですか? また、この3人の側室を吉宗に仕えていたのが早い順に並べるとどのような順になりますか?

  • 徳川吉宗の、男子を産んだ3人の側室について

    徳川吉宗の3人の側室 家重の生母、深徳院 宗武の生母、本徳院 宗尹の生母、深心院 を、徳川吉宗がより愛していた順番に並べると、どのような順になるでしょうか?

  • 須磨(須摩)は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのか?

    徳川吉宗の側室で、9代将軍・徳川家重の生母である "お須磨の方(須摩)" は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのでしょうか? 吉宗が紀州藩主になるよりも前でしょうか?、後でしょうか? お須磨の方(須摩)は、いつから徳川吉宗に仕え初めたのかを、教えてください。

  • 家重生母の“深徳院”の父・大久保忠直の地位の高さ

    9代将軍・徳川家重の生母“深徳院” の父・大久保忠直の地位や身分は、紀州藩士の中ではどれぐらいの高さだったのでしょうか? 高い方だったのでしょうか、低い方だったのでしょうか? 大久保忠直の身分や地位は、武士の中では高い方だったのでしょうか?低い方だったのでしょうか?

  • 深徳院と本徳院と深心院の実家の家格の高さの順は?

    徳川吉宗の息子を産んだ、徳川吉宗の3人の側室、深徳院(須磨)、本徳院(古牟(こん))、深心院(梅(うめ))の3人の中で、出自の家(実家)の家格が最も高かった人と、最も低かった人は、それぞれ誰でしょうか? (↓)下記の、徳川吉宗の息子を産んだ、徳川吉宗の3人の側室の中で、出自の家(実家)の家格が最も高かった人と、最も低かった人は、それぞれ誰なのかを教えてください。 (1) 須磨(深徳院):徳川家重(9代将軍)の生母 (2) 古牟(本徳院):徳川宗武(田安宗武、田安徳川家初代)の生母 (3) 梅(深心院):徳川宗尹(一橋宗尹、一橋徳川家初代)の生母 <参考 URL> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97#系譜

  • 徳川吉宗の次男(田安宗武ではない)について

    徳川家重の生母の深徳院(お須磨の方)は、長福丸(徳川家重の幼名)を産んだ後にも、もう一人男子を産みましたが、その男子は夭逝してしまったそうです。 その男子は、何という幼名で、どれぐらいで亡くなってしまったのでしょうか? その男子について、わかる事を教えてください。 また、同じく夭逝してしまった徳川吉宗の息子に、深心院(お梅の方)が産んだ 三男(その夭逝した次男をカウントしたら四男)の源三 がいますが、そちらは "三男・源三" とちゃんとカウントされているのに、何故、同じく夭逝した、深徳院(お須磨の方)が産んだ次男はカウントされずに、いなかったようにされているのでしょうか? 理由を教えてください。

  • 家重生母“深徳院”の父・大久保忠直と加納久通の関係

    下記のページによれば、 9代将軍・徳川家重の生母である“深徳院” の父・大久保忠直は、加納久通の縁者にあたる、とあります。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E7%9B%B4_(%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9%E5%A3%AB) 具体的には、大久保忠直と加納久通は、どういった関係になるのでしょうか?

  • 徳川(一橋)宗尹の生母・深心院 に関する事での質問

    徳川(一橋)宗尹の生母・深心院に関する事での質問があります。 (↓)下記の URL の Wikipedia のページによれば、8代将軍・徳川吉宗の側室で、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の生母である 深心院(俗名は梅(うめ)、久)は、 深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日)) という様に、深心院(俗名は梅(うめ)、久)の生年は、元禄13年(1700年)になっています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2 深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))は、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。俗名は梅(うめ)、久。父は谷口正次。院号が深心院。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2 さらにまた、(↑)上記のURL の Wikipedia のページによれば、深心院の “ 生涯” の部分で、 元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。 となっています。 そこで、質問があります。 深心院は、生年が “元禄13年(1700年)” で、「元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。」という事は、“わずか4歳で、和歌山城に奉公に上がって、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。” という事になるのですが、 “わずか 4歳で、和歌山城に奉公に上がって、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始める。” などという事が可能だったのでしょうか? どういった風(様)な事だったのかを教えてください。 <参考 URL> 【深心院】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2 深心院(しんしんいん、元禄13年(1700年) - 享保6年旧暦10月7日(1721年11月25日))は、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗の側室で、源三(夭折)、徳川宗尹(一橋徳川家初代当主)の母。俗名は梅(うめ)、久。父は谷口正次。院号が深心院。 生涯 元禄17年(1704年)3月に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母・浄円院付きの女中として働き始めた。 その後、紀州藩を継いだ吉宗の寵愛を受け、吉宗が8代将軍になると紀州藩邸から江戸城大奥に移り、享保4年(1719年)に源三(夭折)を産んだ。次いで享保6年(1721年)に宗尹を産んだが、同年に22歳で病没した。上野寛永寺凌雲院に埋葬された。戒名は深心院慈潭性水大姉。

  • 徳川宗尹の幼名は何故、小四郎 ではなくて 小五郎?

    徳川宗尹は、徳川吉宗の四男なのに、何故、徳川宗尹の幼名は “小四郎” ではなくて “小五郎” なのでしょうか? 徳川宗尹は、徳川吉宗の四男です。 だから、幼名は 小四郎 であるのが普通であるように思います。 徳川吉宗の次男・徳川宗武の幼名は、小次郎です。 そして、徳川宗尹の同母兄は、夭折してしまいましたが、幼名は “源三” でした。(↓) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%BF%83%E9%99%A2 享保4年(1719年)に源三(夭折)を産んだ。次いで享保6年(1721年)に宗尹を産んだが、 だから、徳川宗尹が、徳川吉宗の四男である。と考えられていた事は、間違いありません。 という事は、徳川宗尹の幼名は、徳川吉宗の四男であるのだから、(徳川吉宗の次男・徳川宗武の幼名が “小次郎” であるように)小四郎であって然るべきだと思います。 なのに史実では、徳川宗尹の幼名は、小四郎ではなくて、小五郎です。 これは何故なのでしょうか? 何故、徳川宗尹の幼名は、徳川吉宗の四男であるのに、小四郎ではなくて小五郎なのでしょうか? 考えられる理由を教えてください。