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卒業論文について
卒業論文で、お花見について書こうと思っているのですが、仮説を立てるのに悩んでいます。 お花見は奈良時代が起源とされており、平安時代には貴族の間で美しく咲く桜の花を見て詩を詠んだりし て親しまれていました。これらが元となり今の花見文化を形成しています。 しかし、今のお花見は飲食がメインになっていたり、桜を見るというよりかは皆んなと集まってワイワイすることが目的としている気がします。「お花見」はシチュエーションだけ利用している感じがするのです。昔と今を比べると花見の本質が変わっていると思うのです。 そして、昔の人は現代人と比べて視覚的に感性が優れている気がします。又、桜を美しいと感じる心が昔の人の方が優れており、“視覚的美学”が優れていると思うのです。 そこで、「花見の本質が変わっていると同時に人々の視覚的美学も変遷しているのではないか」という仮説にしようかと考えているのですが、論文をかくのは初めてなので、仮説がこういったものでいいのか分かりません。 ゼミの先生に今度仮説発表があるのでこれを言おうとおもっているのですが、どうでしょうか。 何かもっとこういうものがいいのではないかなどがあればアドバイスいただきたいです。
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- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
5番回答者です。補足質問を拝見しました。 > 私は生活美学のゼミに所属しています。 私が出た大学にはない分野なので、具体的な研究分野は分かりませんが、個人的には「日本がなぜ世界に冠たる美しい(公害などのない)国になったか」、「そういう国になるについてはどういう条件が必要だったのか」などという研究してもらえると、全地球的な意義があるんだろうな、と思うのですが。 洗剤や工場廃液の泡で沸き立っていたあちこちの死の川は、いまは鮎が遡上しています。道路にはゴミ箱さえない。 まだまだ廃プラ・放射能などで汚していますが、世界中がとりあえず日本のような状況にまでなれれば、地球も少しは良くなるんじゃないかと思っているもので、質問者さんのような方にはそうなる条件を研究して発表してもらいたいと思うのです。いかがでしょうか。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
仮説が仮説のまま終わっては論文になりません。仮説は間違いでした、という結論はもっとマズいですからね。「故に仮説は正しい」という結論でないといけません。あるいは「仮説=常識は間違いだった」でもいいですけど。 質問者さんがどういうゼミに所属されているのか分からないので提案はできませんが、お花見にはいろんな説があって、お書きのことから「花見の本質が変わっていると同時に人々の視覚的美学も変遷しているのではないか」と結論づけるのは難しいのではないかと思います。 花見は最初「梅」の花が対象でした。 山へ行って「桜狩り」してきた貴族の話を聞いて悶々としていた天皇(宮中から出られない立場)が、行幸のおり、途中で見た桜の美しさに感動し、宮中へ戻ってからも「また見たい」と思い悩んだ結果、宮中の庭の梅の木を全部伐採して桜を植えさせたのが「桜の花見」の始まりだとか。 天皇がやったことは、貴族も真似する。酒や果物、美味しい物を食べながら歌を詠んだりしたわけです。決して、正座して背筋を伸ばして歌を詠んだわけではありません。最初から花見には酒が付いていたと考えられます。 貴族がやることは、庶民も真似する。 庶民が桜好きになった決定的な理由は、八代将軍の徳川吉宗が質素倹約を進める反面、各地に桜を植えさせて名所にした、とくに、水防のため土手に植えさせて庶民に花見をさせて、「堤防を踏み固めさせようとした」ことが原因だそうです。 名所ですから、とうぜん酒や弁当持参で見物にくるわけです。それがこん日の「宴会」もどきの花見になって来たわけです。 今でも各地の大商人や地主などの博物館を見ると、そういう時に使う弁当セット(引き出しが何個か付いた箱に取っ手が付いていて持ち運びしやすい器具)や杯や銚子が収まった飲酒セットなどが展示してあります。 なので、別段花見の意義が変わってきたとか、美意識が変わったとか思えないのです。 なので、どうなんでしょう、お考えの仮説は選択ミスだと思われるんですが。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
1。眼科の卒論なら 視覚の変化 2。文化人類学なら 花見文化の変遷 3。歴史学の卒論なら 「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして」などから下記の貴族の行く末をたどる。 https://wakadokoro.com/dailysongs/%E3%82%82%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%81%82%E3%82%8C%E3%82%84%E6%A1%9C%E3%81%8B%E3%81%96%E3%81%97%E3%81%A6%E4%BB%8A%E6%97%A5/ などいろいろありそうです。 4。ご専門は何か知りませんが、まずゼミの先生に聞くのが、論文の始まりだと思います。
- NOMED
- ベストアンサー率30% (522/1726)
うーん 奈良時代ですよね その時代の貴族の花見は「梅」ですよね 当時、日本は遣唐使を介した中国との交易が盛んで、中国から伝わった物の中に梅があり、貴族の中では重宝されていました その証拠に『万葉集』に詠まれた桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首です 一方、貴族ではない庶民の花見が「桜」ですよね 「サ」は田の神様、「クラ」は神様の座る場所を意味しており、桜が咲くことは「神様が山から下りてきた証」と考えられ、みんなで集まり、お酒や食べ物をお供えしていたとされます その理由は、当時の人は桜の開花状況を見て、田植えの時期を決めていましたから、桜は鑑賞するというより、神様が宿る神聖な木であり、祭る対象となっていたのですね なので、貴族の「梅」と庶民の「桜」の花見がゴチャゴチャになっています ・・・というように、仮説形成のもと(スタート)が違いますから、もう少し足場を固めてから発想されたほうが良いと思いますよ
- citytombi
- ベストアンサー率19% (1721/8628)
花見の目的が変わったということでしょう。 昔は詩を読むための場、また詩の題材として季節感や刹那を表すものとして桜(花見)が利用されたものが、今は人が集うためのTOOLとして利用され、桜の下で飲むことで楽しみや喜びを分かち合う場として位置付けられています。 美的変遷で言えば、昔は詩を作るために必要で、今は人と集うために必要ということで当然違いはあるのでしょうけど、「愛でる」ということでは根本的にはなんら変わっていないような気がします。 したがって、昔は詩を作っていたから優れている、今は劣っているという仮説は成り立たないと思います。 視覚的感性や美学の優劣ではなくて、「詩を詠み合うのが遊び」という、そういう(桜を見て詩を作る)文化が廃れた・なくなったと見るべきでしょう。 それは視覚的美学が劣化したということではないと思います。 愛でるという価値観は変わりません。 もし「お花見」で仮説を立てるなら、インバウンドと絡めて「外国人こそ、視覚的感性や美学に秀でている日本人や日本文化に触れる機会として、お花見を利用している」という観点で、「外国人と日本人のお花見観」というような点で仮説を立ててみたらどうでしょうか?
補足
外国人と日本人の花見観というのは考えになかったので衝撃的でした。ありがとうございます。もし、その観点で仮説を立てるとすればcitytombi様はどのようなものを立てられますか?
卒論を審査するのはそのゼミの先生でしょ。 だったら、そのまま発表してアドバイスしてもらうのが一番でしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 私は生活美学のゼミに所属しています。 花見文化と美学を結びつけるものは何かないか探しています。自分自身が桜が好きでお花見は毎年かかさずしているので卒業論文で何か書かないかと模索していました。 やはり花見文化と生活美学は難しいでしょうか。。