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謝ってほしくはない

naechinの回答

  • naechin
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回答No.21

管理人さんからのご指摘があったとのことですので、今回は手短に。 >上記のわたしの私的な例でいえば、「例えそれが真実でも、言ってもどうしようもない事は、伝えないのが、大人の人間関係だよ」と、わたしの周りの誰もが言います。わたしもそう思います。 確かに、自己満足に過ぎないこともあるかと思います。その真実を明かされる相手の気持ちなどもあるかと思います。ですが、桶川のストーカー殺人の全容は、「真実を明かそう」と言う気持ちがなければ、警察の失態や被害者の本当の素顔が明かされることはありませんでした。諸刃の剣ですが、間違った使い方をしないように考えていくことが、やはり私には大事だと思います。伝えられたほうの気持ち等など考慮しないといけない点は、もちろんあります。それでも、私にとってはやはり「真実が一番正しい」です。隠すことが大事なときもあるのかもしれません。でも、やはり私はそう思うんです。 >実はこのつぶやきがどういう文脈から発せられたものかよく分からないのですよ。 人の気持ちのありようには、どんなものも影響は与えても、決定することはできないということが言いたかったんです。罪を行わないという気持ち・謝罪しようと思う気持ち・罰しようとする気持ち。悲しんでいる訳でも、斜に構えている訳でもなく、本当に純粋にそう「思った」としか言いようがないのですが、当たり前のことなんですけど、「人の気持ち」「心のあり方」それ自体が、ホントに難しいものだなぁって。 最後になりますが、masatoshi-mさんをはじめ、とても貴重なご意見を聞かせていただきましてありがとうございます。言葉足らずなところもあったかと思うんですが、有意義なお話ができたことをありがたく思っています。最後は、時間もなく、尻すぼみになってしまい申し訳ありません。それでは。。。

masatoshi-m
質問者

お礼

管理者様から「2、3日以内で締め切れ」との要請がなければ もう暫くnaechinさんのご意見をお伺いし、 今後の参考にさせて頂きたかったのですが、最早時間切れとなってしまいました。あれこれとお聞きしたい点も整理していたのですが、 それも今や皆反故となってしまいました。 またadelaideさんとのやり取りは非常に興味深く拝見させて戴いており、 機会があれば私なりの考えも表明させて戴こうと考えていたのですが、 最早手遅れのような…。 管理者様から「一部の人たちの議論のようになっている」 とのご指摘を受けましたが、 質問者の私がこうした意見のやり取りの中から回答らしきもの、 その手がかりとなるようなものを発見しつつあることまではご理解戴けなかったようです。でも「教えて!goo]の趣旨は趣旨。管理者様のご命令に従います。 残念ですが今回のこのnaechinさんへのお礼文と、 ご回答をお寄せ戴いたすべての皆様へのお礼文を最後に補足欄に書き込みまして、私のこのスレッドを終了致したいと存じます。 naechinさん、本当に何度もお付き合い戴き、深く感謝申し上げます。 naechinさんとは「人が人を裁くことのおごり」について 少しばかり意見を交わし合いましたが、事件への思いや、法曹界の抱える問題・ 矛盾についての見解はそう大差ないことを理解し合うことができ、 また確かな人生観の確立も伺えることができ、 ホントに充実した(私だけ?(^_^;))対話ができたと感謝しております。 また「人が人を裁くことはおごり」という言葉が良心的な裁判官の口から出ていたことも教えて戴けました。 そしてそれを聞いて私は「さもありなん」と深く深く納得できたのでした。 思考方法が官僚的、事務的になり、犯罪者を高みから裁くだけのような、 血の通わない《一部のばか判事》(←これはnaechinさんの言葉。(^_^;))には生じ得ない《葛藤》《懊悩》だからです。 その善良な判事はこの言葉を《判事心得・その一》として 長く後生の判事たちに伝えてゆくべきでした。 「但し、これを口外することは万死に値する」と言い添えて…。 adelaideさんとnaechinさんの論点を、まことに僭越ながら、私なりに簡単にまとめさせて頂くと つまりは以下のようになるのではないかと存じます。 adelaideさん  時に《真実》は残酷過ぎたり重過ぎたりして子供の心(時には大人の心ですらも)では支え切れない。従ってその辺りのコントロールはやはり我々大人たち(配慮すべき周囲の人たち)のすべき仕事だ。 naechinさん  いや《真実》こそが人間を鍛える。仮にその真実が子供(時には大人)にとって重過ぎるものであっても、その重さに耐える方法、考え方を教えてやることこそが真の教育なのではないか。 簡単にまとめ過ぎましたが、勿論論点は他にもいっぱいあって、 私もこの整理の仕方にかなりの不安を覚えています。 ですので、私の能力で拾えるところは極力拾いながらコメントさせて頂きます。 (でももうそれも少なめにしておきますね) 《真実》とともにその受け止め方をしっかり伝授できるならほんとに素晴らしいでしょうね。 そして事実それは親の責務であり、大人たちの義務でありましょう。 ですが現実を見渡したとき、即ち現実社会に即して言うなら、 あまりに親の責務を果たしていない親が多過ぎるし、 あまりに大人の義務を放棄している大人たちが多過ぎます。 そして仮に《真実の正しい受け止め方》を伝授したところで、 それが本当に正しい伝授の仕方なのか、 それが意図するところで正しく子供たちに捉えてもらえるのか、 という問題も生じて来るように思います。 一つの事実に多様な側面があるように、《真実》の姿もまた極めて多様で、 その把握の仕方は一筋縄ではいきません。 考え出せば何が一体《真実》なのか、 ということすら分からなくなりかねないほどです。 そうした意味では下手なタイミングで真実を語ることは非常に危険なことになりかねません。 >確かにそうかもしれません。ですが、必要な過程というのは一体、いつどこで発生するのかは、誰にも分かりえないことです。 分かり得ないからこそ慎重になる。 しかし、「それでも私はそこをチャンスだと捉えて踏み込む」というのがnaechinさんのお考えですね。 こういう種類の話は「何が間違いで、何が正しい」という判断はできません。 「善悪の彼岸」にあるものであり、 強いて言うならお互い意見の相違を認め合うことが大切なのでしょう。 その意味でそれぞれの見解の相違は正邪善悪を超えて認められ合うべきだと思います。 ここで問われるべき唯一大切なことは、 その信念に基づいて責任を持ってadelaideさんが、 そしてnaechinさんや私が親として大人としての責務を果たして行く ということでしょうから…。  私は皆目見当のつかないときには敢えて踏み込みません。 いくらかでも想像でき、予想ができるときなら別ですが、経験値に即して、 まるで判断できないときには一歩踏み込むことに慎重になり、臆病になります。 対象となるのは《生きて動く心であり、予想もつかないほどに微妙な心》だからです。 そして踏み込めない私は取り敢えずショックの度合いを減らす手立てから考えるでしょう。それが或いは「かつら」となるかもしれません。 >「おばあちゃんが一生懸命ガンと戦っている」というのがおきざりにされてしまっているような気がします。 これはとても大切なことを指摘なさっています。 「人は病気にかかるのであり、つらい厳しい思いをしてそれと闘うのだ。 悲しいことだけども、それでも頑張っているのだ」という姿を 子供たちに伝えることは大切なことです。 我々の子供の頃は多くの死を「家の中」で見かけたものです。 病院という建物によって隔離された「死」ではありませんでした。 死は日常であり、非日常的空間の中に収まっていたものではなかったのです。 残念ながらこうした経験が現代の社会では《隔離》されていますので、 子供たちも実感として《死》は《生》の延長上にある、 《生の一つの形》として了解ができにくくなっているようです。 こうした闘病の真実の姿はしかし直接的な映像としておばあちゃんの、 闘病による禿頭を見せずとも可能なはずだし、 いきなり病気の真の姿に迫るようなことをする必要がないなら、 ショックを和らげる方法を取ることもあり得るだろうと思います。 このことはnaechinさんも >このたとえ話にしても、おばあちゃんのお孫さんに対する愛情の一環だと思いますし、行為自体を責める気もさらさらありません。 と全面的にお認めになっていらっしゃるとおりですね。 しかし繰り返しになって恐縮ですが、naechinさんは更に一歩踏み込み 「髪の毛の抜けた頭」とともに真実に迫れ、とお考えになり、 adelaideさんは「いや、禿頭を隠し、極力ショックを和らげる方向で」と お考えになる。そのどちらが正しいかなんて判断できませんし、 する必要もありませんね。 大切なのはそれぞれの方法にそれぞれが責任をとることです。 しかしこの例え話の背後にはもっと本質的な現代社会の抱える問題点が控えている。即ち、「情報規制」…。 お二人ともこの点について意見を一にしていらっしゃいます。 即ち「情報の垂れ流しは甚だ困るし、迷惑だ」と…。 vitamin-powerさんも同様のご意見を寄せられていますが、 当然の事ながら「垂れ流しでよい」と考えている大人は、 それによって儲けようとしている者以外、皆無でしょう。 制限があるのは当然だし、また制限されているのが実状でもあります。 そして制限されて尚今の現実があるということです。 じゃあこれ以上の制限は無理なのか、これが制限の限界なのかと言えば、 頷く以外ないでしょう。これがいっぱいいっぱいです。 「儲けられるなら何でもする」という誘惑は余程強烈で、 人間的良心を軽く凌駕してしまうということなのでしょう。 足ることを知らなくなった、野に放たれた欲望は、 奇っ怪な笑い声をあげながら歪な形に膨れ上がっていくのです。 これもまた人間の真実の姿の一部として受け入れなければなりません。 その上で我々は一体何ができるでしょうか。 それこそadelaideさんやnaechinさん、vitamin-powerさんが何度もお寄せ下さった回答そのものの中にあると思うのです。 各人、方法に多少の違いこそあれ、やはり自ら人生や社会に責任を取ろうとお考えになっていらっしゃる方々ばかりですし、 その覚悟の表れとしてご回答の文章をお寄せ下さいました。 少なくとも私にはそう読み取れました。 >人の持つ残虐性を見つめた上で、それを抑止する能力を育てていかなければいけないです。それがない限り、所詮、上辺だけの成長で、そんな成長は、ちょっとしたことでメッキは剥がれ落ちます。意味がないですね。  これは意見そのものには全く異論はないですね。 それはおそらくadelaideさんも同じお気持ちではないかと思うのです。 やはり人間の残虐性は事実として過去も存在してきたし、今も存在しているし、 これから先も永遠に存在し続けるであろうからです。 この事実から目を背ける訳にはいかない。 しかしそれを抑止する能力を育てていくのにはそれに相応しい時期というのが人間にはあるのではないかとadelaideさんは、真実を暴かれる側の切ない気持ち(癌と闘病しているおばあちゃん)も忖度しつつ、疑義を挟んでおられるわけです。 どちらかと言えば私もその意見に賛成です。 繰り返しますが、賛成だからといってこれが正しいのだと言っているわけではありませんし、また言えるはずもありません。 強いて言うなら《責任感を伴った人生観》を確立しあった者同士の、 その人生観の相違だということでしょう。 そういう人生観を確立して、その上でお互い、自分自身の人生を引き受けている。 また引き受ける覚悟が問われているだけです。 >桶川のストーカー殺人の全容は、「真実を明かそう」と言う気持ちがなければ、警察の失態や被害者の本当の素顔が明かされることはありませんでした。 この辺りに来るとどうやらadelaideさんとnaechinさんの《真実》という言葉のニュアンスがかなり違ってきているように思われます(「いや、おんなじだ」ということならごめんなさい。(^_^;)…m(__)m)  真実を追求することはお二人とも大切なことだと仰ってるわけで、 しかしながら「それを伝えるべき相手を見間違えてはいけない」というのがadelaideさん。「いや事件の繰り返しを防ぐべく、なるべく多くの人が事件の真相を知ることが大切だ」というのがnaechinさんです。 とすると、ここら辺りはど~も議論がすれ違っていて、 噛み合ってないよーな…(^_^;)。 済みません。これでスレッドを締め切りますので、 お二人とも異論があるかもしれませんが、 私の勝手な決め付けをお赦しくださいませ。(汗汗汗…(^_^;)) >最後になりますが、masatoshi-mさんをはじめ、とても貴重なご意見を聞かせていただきましてありがとうございます。 naechinさん、こちらこそ本当に長い間お付き合い戴き、有難うございました。naechinさんにも感謝し切れない思いでいっぱいです。 naechinさんの、そのテンポアップな軽快でリズミカルな文章も心地よいものでした。 >言葉足らずなところもあったかと思うんですが、有意義なお話ができたことをありがたく思っています。 《言葉足らずの思い》は皆さん共有されている思いだろうと愚考しております。長々と書き込んで来た私ですらそうですので・・・(^_^;)  感謝しなければならないのは私の方です。 >最後は、時間もなく、尻すぼみになってしまい申し訳ありません。 いえいえ、これだけお付き合い頂けたのですからもう充分です。 また「尻すぼみ」はお互い様です。(^_^;)  今はただ、《永きに亘ったお付き合い》に深く感謝するのみです。 naechinさん、本当に有難うございました。 それでは管理者様とのお約束どおり今夜午前1時にポイントを発行して締め切りとさせて頂きます。(これにて私めは一旦失礼して、今からたんとたまってしまった仕事をば…(^_^;)) と、ここまで書いてきて管理者様よりメールがありました。 そうでした。うっかりしておりました。9日午前1時とは今日の夜のことではなく 昨夜のことでした。私の考えていたの日時では10日の午前1時ということになります。失礼しました。これから1時間後に必ず締め切らせて頂きます。 管理者様、あと1時間のご猶予を。m(__)m

masatoshi-m
質問者

補足

 今回の皆様とのやり取りを通じて私自身かなり救われ、癒されたようなところも少なからずあるような気がしております。事件から遥か遠い位置にいたはずの私ですら無意識に、知らぬ間に、こんなに傷ついていたのかと思うと、事件の近くにおられた人たちの心の傷は如何ばかりかと、またもや切なくなり、怒りが込み上げてきます。  今回の私の質問にご回答をお寄せ下さった皆様に深く篤く御礼申し上げます。また何かあったときにはこれに懲りずにお付き合いをお願いしたいと思っておりますが、多くの方から「もう勘弁してくれ」と言われそうな気も…(^_^;)  今回お寄せ下さったご回答はすべて私には良回答でした。それでも敢えて二つだけを選び取らなければならないのですから、く、く、苦しい…。なにとぞ私の《独断と偏見》をお赦しくださいますように…・ 皆様、またどこかで。 追伸 管理者様へ…「教えて!goo」の趣旨を充分把握できず、管理部の皆様に 思わぬご迷惑をお掛けしてしまったことをここに深くお詫び致します。 以後このようなことのないよう、注意したいと思います。 まことに申し訳ありませんでした。

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