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万葉集が編集された時代についての識字率?

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お礼率 95% (245/256)

万葉集は当時のいろいろな階層の人々の歌が収められているそうですが、下層階級の人も歌を詠み記述できるほど識字率は高かったのでしょうか。
詠み人知らずの歌は、不遇な貴族や役人が、暇が半分、拗ねた気分が半分で、「防人や農民等の下々の者たちはこのように世を思っているのだろう」と想像した歌のように思えるのですが・・
(だから、歌が低レベルだといっているのではありません)

回答 (全4件)

  • 回答No.4

ベストアンサー率 40% (903/2254)

No.3です。肝心なことを書き落としていました。中国雲南省などの「歌垣」(男女による歌謡の掛け合い)は少数民族の間で昔から行われてきた伝統文化ですが、彼らは昔は固有の文字を持っていなかったということです。

文字を持たない社会や文字が普及していない社会で、口伝えで文学性に優れた詩や歌謡が残された例は世界のいたるところにあり、日本の周縁部にもあります。日本の中心部の場合中国の漢字が伝えられたおかげで、比較的早い段階で、そうした口承文芸を表記に苦労しながらも文字化できたために、4000首以上が載せられた「万葉集」の中に民衆が詠んだ歌も採録することが可能となり、今に残ったのだと考えられます。これは大いなる幸運であったと言える一方で、「文字を知らない人が優れた和歌を詠めたのか?」というご質問のような現代人の疑問も、もう一方では生じさせることになったのではないかと思います。
お礼コメント
hurukame99

お礼率 95% (245/256)

重ねての回答ありがとうございます

>「文字を知らない人が優れた和歌を詠めたのか?」
これについては、自分は疑問をもったことはありません。「声を出してよむ歌」から「文字で書く歌」が派生したのであって、歌心は同じでも、表出は別物(優劣を同一基準で考えてはいけない)と考えています。
投稿日時 - 2019-04-27 18:33:19
  • 回答No.3

ベストアンサー率 40% (903/2254)

万葉集に載せられている歌は、「優れた歌」と認められた作品だけです。また現代人は誤解しがちですが、和歌の始まりは「声を出してよむもの」であって、「文字で書くもの」ではなかったと考えられます。

万葉集巻二十の「天平勝宝七歳乙未二月、相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌」という詞書のあとに遠江国の防人の歌7首(4321から4327)を記載した後で「二月六日、防人部領使(ことりづかひ)遠江国の史生坂本朝臣人上(ひとかみ)が進れる(たてまつれる)歌の数は十八首なり。但し拙劣なる歌十一首あるは取り載せぬのみなり。」とあります。

またこの後に相模国の防人の歌を3首(4328から4330)記載した後には「二月七日に相模国の防人部領使守(ことりづかひのかみ)従五位下藤原朝臣宿奈麿(すくなまろ)が進れる(たてまつれる)歌の数は八首なり。但し拙劣なる歌五首のみは取り載せず。」とあります。

この遠江・相模のほか駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵国の防人の歌など合わせて92首が巻二十には掲載されていて、そのそれぞれについて国ごとに報告した日付(すべてこの二月)、報告者の名前、最初に報告した歌の数、「拙劣なる歌」は載せられなかったことが書かれています。

巻十四のすべてを占める東歌には「○○国の歌」とあるだけで詠み人の名前はないものがほとんどで、選び集めた事情は防人の歌のようには明らかではありません。また歌の内容から民謡のように、集団で歌い継がれたと考えられるものもあります。

また万葉集の時代と現代とでは、和歌が社会で果たしている機能が大きく異なることに注意すべきだと考えます。古代では和歌を詠むことは、とりわけ「歌垣」などの場合には集団の中でのコミュニケーションの必須の手段であり、単に個人が文学作品を作ることではありませんでした。文字は知らなくても歌を人並みによめて(音声による表現で)相手に気に入ってもらえなければ、恋人もできないおそれがあります。

こんな切実な動機付けがあれば、当時の(防人を含む)若者は、意思伝達の大切な手段として上手下手は別として懸命に歌を詠もうとしたと想像されます。歌を詠む人の割合は、現代よりも高かったと推測され、庶民が詠む歌のレベルも、文字が庶民には普及していなかった古代社会の方が、現代よりも高かった可能性があるのではないかと思います。現代の庶民には万葉集に載らなかった「拙劣なる歌」さえ詠めないかもしれません。

余談ですが、中国の雲南省などでは山あいで「歌垣」のような催しが現代でも行われているということで、一般の青年男女が歌(和歌ではなくsongの意味)を交換している様子を以前テレビ番組で紹介していました。「家聞かな 告らさね」の世界が今でもあるということで、和歌の起源を考えるうえでも参考になります。
お礼コメント
hurukame99

お礼率 95% (245/256)

回答ありがとうございます

>和歌の始まりは「声を出してよむもの」・・・
同感です。
>集団の中でのコミュニケーションの必須の手段・・・・
教養のひとつだったのでしょうか。
>「家聞かな 告らさね」・・・・
「カノジョ~ メアド教えてよ」と訳して顰蹙をかったことがありますww
投稿日時 - 2019-04-27 18:06:40
  • 回答No.2

ベストアンサー率 39% (225/569)

歌の作者自身に識字能力がなくても、誰か識字能力のある人が歌の作られた現場(宴席など)にいて記録すれば、収集は可能です。
実際、巻二十の防人歌は、作者である防人の名に加えて、その歌を都に上進した引率の役人(防人部領使)の名、その役人から上進された歌の数、上進された歌のうち拙劣なものは載せなかったことなどが明記されています。作者の防人に文字を書く能力があったかどうかはわかりませんが、作者自身が筆記したものを都に送ったのではなく、上進者がまとめて筆記したものを送っていることは、仮名の文字遣いの特徴などによりわかっています。
ただ、おっしゃる通り詠み人知らずの歌に関しては、貴族などによる創作の可能性も否定できません。
お礼コメント
hurukame99

お礼率 95% (245/256)

回答ありがとうございます

、作者自身に提出させたものを、悪筆、誤字脱字が多い等で、そのままでは上進できず書式に従って収集係りの役人が清書したと想像していました。
「役人が歌を聞いて記述した」と考えると「もっと、ゆっくり」「今の部分をもう一度」「なんだ、その発音は?」などと役人が注文をつけながら記述する場面が思い浮かんでなんだか楽しくなります。
投稿日時 - 2019-04-27 16:51:32
  • 回答No.1

ベストアンサー率 29% (5277/17940)

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発見されている日本最古の落書きは、法隆寺の五重塔から見つかりました。推定されている年代は少なくとも673年ということです。万葉集が成立したのが780年頃とされていますから、かなり近くかつ万葉集より古い年代です。
ウィキペディアでは、もうこの時代からかなり字が書ける人がいたのではないかとありますね。
お礼コメント
hurukame99

お礼率 95% (245/256)

回答ありがとうございます

>もうこの時代からかなり字が書ける人・・・
なんか、人類の歴史のなかではすごいことのような気がする
話はずれるけど、お寺に落書きって、罰当たりのような・・・ww
投稿日時 - 2019-04-27 16:05:27
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