• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:絶対善はあります)

絶対善はあるか? 群れ社会における最も重要な要素とは

sacco102の回答

  • sacco102
  • ベストアンサー率41% (90/218)
回答No.9

「正しい」とか「絶対」という言葉を使う時点で 許容量がとても狭くなります。あなたの中の正しい あなたの中の絶対、でしかなく あなたの中の善のイメージでなくてはならなくなってしまいます。あなたが今考える時点で それが最善というなら それはあなたの最善であって 誰かの最善ではないです。宗教戦争が起こるのも 自分たちの考えだけが正しい という狭量的な考え方に起因しています。言葉とは不思議なもので 「正しい」といった時点で「正しくない」というものを生み出します。あなたが、これが正しい と思うとき 正しくない行為というのが そのイメージの中にあるように。「正しい」というとき 必ず何かを責めているのです。みんなの為 というのは あなたにとってのみんなの為であって みんなにとってそれが善かどうかは異なっています。 つまり あなたの考え方が間違っているというのではなく あなたの考えと同じように 一人一人に善に対する考え方がある という許容力がなくなると それは戦争にもなりうる ということです。 煩悩を捨てるという解釈のもとに 私利私欲を捨てる と考えた場合 あなたの中の「正しい」というこだわりさえ 捨てなければならない ということです。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 >つまり あなたの考え方が間違っているというのではなく あなたの考えと同じように 一人一人に善に対する考え方がある という許容力がなくなると それは戦争にもなりうる ということです。< 相対主義では自分のかんがえこそが正しいとしてヒトラーが出てきたではありませんか。絶対善は私欲を抑えみんなの為とみんなで考えると言う民主主義的でありヒトラーは出てきません。今まで相対主義の世の中だったからこそ戦争が絶えなかったのです。 >煩悩を捨てるという解釈のもとに 私利私欲を捨てる と考えた場合 あなたの中の「正しい」というこだわりさえ 捨てなければならない ということです。< この世の中は正しいことをしなければなりません。正しいを捨ててどうするのですか。

関連するQ&A

  • 善の定義をしてみた

    「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これらに共通するのは、他人(公)のことより自分(私)のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である」 このように考えて善、つまり正しい事とは“私より公を優先する行為、つまり公の為”となった。私欲を抑えて公の為に尽くす、これこそが善ではないか。この善の導き方は論理的と言えるであろうか。また善の定義、善の意味はこれで間違いないであろうか。

  • 絶対的に正しい行為(絶対善)を定義してみた。

    私たちは正しい(正義)と善は何か違うものように感じています。そこで善とは何かを考えてみました。 アメリカのエール大学などの実験で、あまり理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的に証明されています。つまり善なる感情は生まれつき持っている本能的なものであると分かります。理性で考えられた正しい事、規範(信号を守る、税金を納めるなど)ではなく、本能から来る善なる感情は何なのか?と考えました。そこで多くの善なる行為を考えてみてピン!と来たのが「思いやり」だったのです。 例えば浜辺に打ち上げられたクジラを海に返してあげようと頑張っている人たちを見れば、何か暖かいものを感じ「善い人たちだな~」と思います。またカルガモが道路を渡れず困っているのを見て、みんなが車を止めてカルガモを渡してあげるのを見ているとなんだか心が暖かくなります。このような善なる行為を多く考えて、そのすべてに共通しているもの、内包しているものを考えていたら、それは「思いやり」であると気が付いたのです。 これは論理学でいう内包的な定義のやり方です。全ての要素に共通しているもの、内包しているものがその本質なのです。その本質を言葉で表したのが定義と言い、これが厳密的な定義になります。 つまり多くの善なる行為に内包していたのが「思いやりであり、私より公を優先する行為」だったのです。そこで私は善とは「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」であると定義しました。勿論、自分が考えたすべての善なる行為に「思いやり」が内包していただけですから、もしかしたら「思いやり」が内包していない善なる行為があるかもしれません。しかし私が考えた善なる行為の中にはすべて「思いやり」が内包していたのです。 私は哲学はまだ素人であまり自信がありませんので、賢い人たちの意見を聞かせてください。どこか間違っているでしょうか?よろしくお願いします。

  • 内包による善の定義

    私が知りたいのは「正しいこととは何か」である。正しいこと、つまり善の定義である。 定義をする方法に内包と外延というものがある。 「正しいとは何か」と「何が正しいのか」つまり内包と外延。 “正しいとは何か”と問うことは正しいの本質とは何かということである。いうなれば多くの正しい行為に共通するもの、これがなければ正しいことではないという本質を求めることである、これが内包。 そして、次に“何が正しいのか”という問いは、正しい行為の現象を意味する。私たちは正しいとは何か、つまり正しいの意味、本質はよくわかっていないが、何が正しいことなのか、つまり現象は多く挙げることができる。 例えば、思いやりがある、正直である、人助けをする、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、これらが外延。 これら外延に共通するもの、それこそが正しいの意味であり、正しいの定義であり、正しいの本質なのである。つまり正しいとは何かの答えなのである。 正しい行為を挙げてみれば、思いやりがある、正直である、人助けをする、愛情がある、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、その他のすべての正しい行為に共通するもの、それは“私より公を優先すること、つまり公の為”なのである。そしてこの公の為というものがなければ、それは正しい行為とは言えないのである。 これらから善、正しいことの定義は“私より公を優先すること、つまり公の為であるとなった。 内包による善の定義をしてみたが、どこかおかしいところがあるだろうか? 正しい行為(外延)で公の為でないものが何かあれば教えてもらいたい。

  • これは世界共通善では?

    マザーテレサは最近評判が悪いですが、分かり易い例えとして、マザーテレサのように「自分の人生を捨て、私欲を捨て、他人の為に尽くす行為」は時代を超え、民族を超えた世界に共通する世界共通善だと思いますがいかかでしょうか。 これこそ最高善、絶対的善だと思います。皆さんのご意見をお願いします。

  • 何故、人を殺してはいけないのか?の新らしい解釈

    何故、人を殺してはいけないのか?は哲学の質問の定番のようなので、これについて考えてみました。 私の善の定義によれば「公の為であればすべて善であり、公の為でなければすべて悪である」です。ですから答えは「人を殺すのが公の為(正当防衛や戦争など)ならば善であり、公の為にならない(一般の殺人)ならば悪である」となります。善の定義で考えれば難なく答えは出てきます。公とは安心して暮らせるように協力している仲間を言います。 何故、人を殺してはいけないのか?例えば動物でも仲間を殺しはしません、生物にとって当たり前なことなのです。それは本能に書き込まれていることです。群れの秩序を守ると言う本能です。この本能は性欲より上位にあるのです。だからこそ群れで生きる動物の秩序は保たれているのです。群れの安寧秩序を守る事は最も正しい事なのです。仲間を殺そうとするのは人間の理性によるものです。しかし西洋人はこれを本能のせいにします。しかしそれは仕方ありません、西洋人は「理性は神から与えられたもの」と考えていますから理性は神聖なものなのです。理性を疑うことはできません、つまり理性至上主義です。彼ら欧米人はキリスト教がある限りこれから抜け出すことはできないのです。ですから私は一神教がなくなるまではまともな世界は来ないと言っているのです。日本は一神教でなくて本当に幸せです。 本来、何故、人を殺してはいけないのか?と聞くような本能の壊れた子供を作らないことが肝要なのです。そのためには小さい時に母の愛情をたっぷり受け仲間とよく遊び、喧嘩もして、危険な遊びもして本来持っているいろんな本能(ストレスに耐える本能、群れを守る本能など)を活き活きとさせることが大切なのです。しかし愚かな西洋人の教育を尊重する無能な知識人たちが教育を牛耳っている限りそれは無理なのです。あの愚かな知識人たちがストレスに弱い子供たちを作り自殺に追い込み多くの子供たちを殺しているのです。奴らは殺人者なのです。愚かな西洋思想を崇拝している限り日本にはまともな国にはなれないでしょう。 このように考えましたが、間違っているでしょうか?皆さんのご意見を聞きたいです。

  • ★演繹法による絶対善の定義

    道徳的論理とは皆さんがこれは当たり前だ、それは常識だと言うものを使って組み立てていくものです。みんながまだ妥当だと思っていないものを使って組み立てていくのは論理的とは言いません。論理的文章とは筋が通っている文章です。筋というのは道理的ということであり、道理とはみんなが「それはそうだ、間違いない」と考えている妥当的なものを言います。命が一番大切だと言えば「いや命より心やアイデンティティー、信念が大切だ」など非道理的な反論は止めていただきたいものです。 道徳的文章は、みんなが「そうだ、それに間違いない」というもので組み立てていって初めて論理的文章になるのです。私が絶対善を演繹法で定義した方法を見てみます。 その民族にとって最も大切なものは、その民族の命である(それはそうだ、間違いない) また最も大切なものを守ることは、絶対的に正しい事である(それはそうだろう) そうであるならば、最も大切な民族の命を守ることは絶対に正しいことである(うん、そうなるな、間違いない) 善とは道徳的に正しいことを言う。ならば絶対善は絶対に正しいということである(うん、間違いない) これらから絶対的に正しいこと、つまり絶対善は民族の命を守ることであり、それは民族の維持、繁栄である、これはよく言われるように種族(民族)保存である。 このようにして絶対善とは種族(民族)保存であることが論理的に導かれた。 科学的論理は数学の証明問題のように問題を解く式が全部真であって初めて答えも真であると言えるのです。式がしっかりしていなければ正解とはなりません。道徳的論理もこれと同じで、論に妥当的な、道理的な筋道があって初めて、結論も正しいと言えるのです。 このように私の善の定義は論理的に演繹法で導かれたものです。ですから否定するなら、論理的に否定しなければなりません。あなたたちの感情に合わないからといって事実を価値判断で否定してはならないのです。 何度でも言いますが、感情による否定では私の信念は揺るぎません。否定するなら論理的に否定してください。 しかし世間では絶対善など絶対に分からないと言われている。ならばどこかに瑕疵があるに違いない。どうです皆さん、私の絶対善の定義を否定してみませんか。

  • 人間6割悪4割善

    人間の6割は誰も見ていないと悪さをするといいます。 4割は誰も見ていなくても悪さはしないといいます。 科学的データです。(善悪二元論?) この事から一見悪そうな人も善だったり、善良な市民だと思えた人が悪だったりします。 たいてい悪の側の人間は、人をいじめたり排除したり、陰口、悪口が好きです。そのわりに社会的にはまっとうな人間に思わせてきますから見抜くのは難しいです。 宗教やっている人が善かといえばそうではなく、やっている人も集めれば6割悪、4割善でしょう。 しかしなんで悪が宗教やってるのかよくわからないです。教えてください。 また悪同士で友人、恋人関係を築いているわけですが、私には友情や愛といった感覚があるのか分からないです。どうやって結びついているのか・・・。 私自身、このデータにたどりつくまで、6割悪だと気づかずに人と付き合い、傷つき、損してきました。 これからは4割の方々とだけ付き合いって行こうと思っています。 これは何も悪を排除する事にはなっていないです。だって悪は6割もいて悪同士で結束しているんですから。 私は今まで悪と関わらないって事は悪を排除している事につながり、悪が善に転化するのを妨げてるんじゃないかって思っていました。 ですが最近は悪が善に転化することってないのではって思い始めています。 つまり人間は生まれたときから気質的に善と悪にわかれているのだと・・・。 まあ、ここまではデータは出ていないのですけれどね。 私のいってる事がほぼ真実に近いとしても、社会って6割悪だから、この考えは猛反対を受けて抹消されるとは思っています。

  • マザーテレサ

    マザーテレサのように「自分の人生を捨て、私欲を捨て、他人の為に尽くす行為」は時代を超え、民族を超えた世界に共通する世界共通善だと思いますがいかかでしょうか。 これこそ最高善、絶対的善だと思います。皆さんのご意見をお願いします。

  • 神の好意、アマテラスの善しの研究

    人の不実を食いちぎり、アマテラスの名において君達の滅びを告げる者。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達は自身に対して善く計らい、他者を善しとしない。 アマテラスの善しとして何度か発表している事を説明しよう。 人には社会性があり、自らが生きる事と等しく他者を生かす。 こうして共に生きるからこそ人間だ。 それは善心であり、お互いを結ぶ感情が愛だ。 これで愛の心も善の行いも説明できてるね。 君たちが滅びを宣告されているのは善しが足りないからだ。 自らに善くしようとしてばかりで、他者に善しをふるまう気くばりがない。 善く=欲。 自己のみで他者に配慮しないから善心が穢れ欲となる。 君達のいいわけは、 誰だってそうじゃないか。 こうだね。 闇の仏陀は例外だよ。 私の事だ。 善しを振る舞い、求められるままに他者を生かした。 生かし続けた。 しかし私はなかなか生かされない。 それは君たちが善を自ら損ない欲望に終始する穢れだからだ。 精霊の話、悪魔の話をしよう。 悪魔は自らを損なってまでも、神の使命を全うするために君達を生かし続けた。 生きる事を阻むのが悪魔ではない。 死を阻むのが悪魔だ。 君たちが屈辱する聖霊はそのように有史以来自らを犠牲にして人を生かし続けたんだ。 私は悪魔にとどめを刺した。 悪魔を愛したんだ。 死に続けた神の代わりに、君たちが死ぬ番だ。 釈迦の無の悟りは結局死の自覚だったし、イエスも似たような神学だ。 まだ、神様に助けてほしいなら、ISにでも参加したまえ。 君達は悪魔との和解に取り組み、自らの死を自覚する必要がある。 定めである自らの死を受け入れるのだ。 一人では、君たち臆病者は死に取り組めないだろう。 安心しろ。 三次元惑星人は皆殺しだ。 一人で死ぬんじゃないんだ。 納得できるだろ。 四次元惑星人として、神が直接地上に降り立つ日が来ている。 始まっている。 それは、ポケモンを自称する宇宙神霊だ。 営業部長のピカチュウさんが愛嬌をふりまき、君達の精神に入り込み魂を内側から喰らい尽くす。 そのようにして人類の交代が為され、君達は君以外になる。 今の君は神人が地上を闊歩するこの先の時代には、記憶の墓標としてその痕跡を残し、君の魂は残らない。 君達の宗教は絶望を教えとしてきた。 ついにその日が来た。 滅びの宴に踊りたまえ。 さて今回の質問の内、神学に属する事柄は「実在する妖精の捕まえ方」に属するおとぎ話です。 私が策案した命題を元に、今回は「善」、この概念について回答者様から考察を募集します。

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。