• 締切済み

マザーテレサ

マザーテレサのように「自分の人生を捨て、私欲を捨て、他人の為に尽くす行為」は時代を超え、民族を超えた世界に共通する世界共通善だと思いますがいかかでしょうか。 これこそ最高善、絶対的善だと思います。皆さんのご意見をお願いします。

みんなの回答

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3667)
回答No.3

社会に貢献し、人々の為に生きることを自らのライフワークとしたのは、マザーテレサだけではありませんよ。 現実の世界を見回しても、政治や宗教に携わる多くの人々の中にも同じような人はいる筈です。 ガンジーやキング牧師のように、特に個人の名声や利益ではなく、純粋に平和や人道に尽力した人々の中に、そうした方々が多い。 ただ、マザーもガンジーも自分の人生を捨てたのではなく、その生き方自体が、まさに彼らが選択した人生だったのだと思いますよ。 無私ではなく、そこには明らかに生涯を通じて輝き続けたマザー自身が存在した筈ですから。 こうした彼らの行動が最高善であり、絶対善であることは、歴史が証明しています。

kurinal
質問者

お礼

nekosuke16様、ご回答ありがとうございます。 >「社会に貢献し、人々の為に生きることを自らのライフワークとしたのは、マザーテレサだけではありませんよ。 現実の世界を見回しても、政治や宗教に携わる多くの人々の中にも同じような人はいる筈です。 ガンジーやキング牧師のように、特に個人の名声や利益ではなく、純粋に平和や人道に尽力した人々の中に、そうした方々が多い。」 「立て板に水」というご回答で。 >「ただ、マザーもガンジーも自分の人生を捨てたのではなく、その生き方自体が、まさに彼らが選択した人生だったのだと思いますよ。無私ではなく、そこには明らかに生涯を通じて輝き続けたマザー自身が存在した筈ですから。」 あの「ヒトラー」もですね。 >「こうした彼らの行動が最高善であり、絶対善であることは、歴史が証明しています」 「「善」で突き進むと、どうやら危ない」ということでもありませんか?

  • tknkk7
  • ベストアンサー率11% (378/3311)
回答No.2

そう思います。

kurinal
質問者

お礼

tknkk7様、ご回答ありがとうございます。 ・・・質問文を読み返してみないと >「世界共通善、最高善、絶対善」 いかにも一神教らしいですね。

回答No.1

マザーテレサはその選択に迷うことなく無上の喜びを見出せる 精神レベルにあったからこそ、そうしたのです。 凡人にこれは該当しません。他人を助ける前に、或いは助け ながらも、まずは己の人格形成、欠点改善といったいわば修行が あり、自分の人生の真の幸福感を持続でき、余力が出来て 初めて、余ったエネルギーで他人への奉仕をするというのが 正攻法だと思います。 よく、滅私奉公の精神で他人のために生きることだけを過度に 強調したり、心理学や哲学等を学んで精神的に苦しんでいる人を 助けたい、不幸の本質を知りたいという人がいますが、そう言う 人の中には実は自分の人生が辛く、物事が上手く行っていない人が 案外多いです。 こういう人がボランティア的活動をしても、実は自分が救われ たいと本音では考えているので、他人を助けていると結局は 余計に自分自身が苦しくなり、長続きしません。 人間の究極の姿がまさにマザーテレサやマハトマガンジーらだと 思いますが、その境地に達するまでに普通の社会でとことん修行 しなければならない人がほとんどだと思います。私も含めて。 でも、その理想は忘れてはいけませんよね。

kurinal
質問者

お礼

boogie2489様、ご回答ありがとうございます。 >「凡人にこれは該当しません。」 失礼しました。

kurinal
質問者

補足

でもマザーテレサの行為は時代を超え、民族を超えた世界に共通する世界共通善だと思いますがいかかでしょうか。

関連するQ&A

  • これは世界共通善では?

    マザーテレサは最近評判が悪いですが、分かり易い例えとして、マザーテレサのように「自分の人生を捨て、私欲を捨て、他人の為に尽くす行為」は時代を超え、民族を超えた世界に共通する世界共通善だと思いますがいかかでしょうか。 これこそ最高善、絶対的善だと思います。皆さんのご意見をお願いします。

  • 善の定義をしてみた

    「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これらに共通するのは、他人(公)のことより自分(私)のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である」 このように考えて善、つまり正しい事とは“私より公を優先する行為、つまり公の為”となった。私欲を抑えて公の為に尽くす、これこそが善ではないか。この善の導き方は論理的と言えるであろうか。また善の定義、善の意味はこれで間違いないであろうか。

  • これは絶対善と言えないだろうか

    「我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。つまり絶対的に正しい事、絶対善は国民の命を守ること、つまり種族(民族)保存のことである、これは世界の各民族にも共通するから普遍性もある」 これは論理的に正しいであろうか。 また「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族保存である。ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事である。この大宇宙の意志を絶対的に正しい(絶対善)と言わずに何を正しいと言うのだろうか。ゆえに絶対善とは種族保存のことである」 これらの考えから“絶対善、つまり絶対的に正しいことは種族保存であるとなった。これらは間違いであろうか?

  • 性行為(セックス)を隠すのは世界共通?

    性行為は大抵ほかの人のいない場所で他人から見えないようにします。これは先進国などでは共通の価値観のように思えますが、果たして、世界的にみて共通のことなのでしょうか? 未開の民族などでは、結構おおっぴらにしてる等ということはありますか?また自分たちの子どもが見ることについては別に気にしないみたいな文化はありますか? ※いわゆるビジネスでの性行為ではありません ※祭事としての性行為はとりあえず除外してください 以上、素朴な疑問にお付き合い願います。

  • ★世界平和の父とは誰?★

    私は池田大作は絶対に、ありえないと思いますが・・・ 彼は、ノーベル平和賞ももらえないとおもいますが・・・ なぜなら、欲しいと思う人には絶対にやれないそうですから・・・・・・・ 強いていうならば、ガンジーでしょうか?・・・・・・・・・ そして、世界平和の母は絶対にマザーテレサさんですね?・・・・・・・・・・・・

  • 絶対善はあります

    私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。 この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。 そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれら愛、思いやり、慈悲心などに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。 「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。 その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最善の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。 このように考えましたがどこか間違っているでしょうか?

  • 絶対善が支配する世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。

  • 絶対善世界における悪の役割

    私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。

  • 内包による善の定義

    私が知りたいのは「正しいこととは何か」である。正しいこと、つまり善の定義である。 定義をする方法に内包と外延というものがある。 「正しいとは何か」と「何が正しいのか」つまり内包と外延。 “正しいとは何か”と問うことは正しいの本質とは何かということである。いうなれば多くの正しい行為に共通するもの、これがなければ正しいことではないという本質を求めることである、これが内包。 そして、次に“何が正しいのか”という問いは、正しい行為の現象を意味する。私たちは正しいとは何か、つまり正しいの意味、本質はよくわかっていないが、何が正しいことなのか、つまり現象は多く挙げることができる。 例えば、思いやりがある、正直である、人助けをする、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、これらが外延。 これら外延に共通するもの、それこそが正しいの意味であり、正しいの定義であり、正しいの本質なのである。つまり正しいとは何かの答えなのである。 正しい行為を挙げてみれば、思いやりがある、正直である、人助けをする、愛情がある、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、その他のすべての正しい行為に共通するもの、それは“私より公を優先すること、つまり公の為”なのである。そしてこの公の為というものがなければ、それは正しい行為とは言えないのである。 これらから善、正しいことの定義は“私より公を優先すること、つまり公の為であるとなった。 内包による善の定義をしてみたが、どこかおかしいところがあるだろうか? 正しい行為(外延)で公の為でないものが何かあれば教えてもらいたい。