絶対善とは何か

このQ&Aのポイント
  • 我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であり、その命を守ることが絶対的に正しいと言える。
  • 生物は子孫を残すために命を賭けてきた。その意志を大宇宙の意志と捉え、種族保存が絶対善であると考えることもできる。
  • 絶対善は普遍性を持ち、種族保存は世界の各民族に共通する価値である。
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これは絶対善と言えないだろうか

「我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう。この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことである。最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である。つまり絶対的に正しい事、絶対善は国民の命を守ること、つまり種族(民族)保存のことである、これは世界の各民族にも共通するから普遍性もある」 これは論理的に正しいであろうか。 また「ウイルスから虫、植物、犬や人間まで、ありとあらゆる生物が何億年もの間、命を賭けてやってきたことは何か、それは子孫を残すことである、これはいわゆる種族保存である。ゆえに、この大自然の、大宇宙の意志というのは、命を賭けて種族を保存せよと言う事である。この大宇宙の意志を絶対的に正しい(絶対善)と言わずに何を正しいと言うのだろうか。ゆえに絶対善とは種族保存のことである」 これらの考えから“絶対善、つまり絶対的に正しいことは種族保存であるとなった。これらは間違いであろうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.16

こんにちは。 ANo6です。 他人の判断を土台に論理的に考える事はできますが、(貴方にあった) 正しい答えが導き出せるとは限りません。 論理的な正しさは追及できますが、結論の正しさは又、別なものです。 論旨は倫理に関してのもので、倫理は正しい行いの規範を云うわけです。 ある行為の善悪についての判断をもとめ、それが幸福や快楽をもたらすか 否かに求められる必須な知識です。 倫理観の功利主義(イギリスの思想家ジェレミー・ベンサム) 「最大多数と最大幸福」と「カントの義務論」があります。 功利主義のスローガンでは、社会の利益を最大化するためには少数の人が幸福になる よりは、多数の人が幸福になる行為のほうが望ましく、より大きくなるのならば 不幸になる少数の人の事はおかまいなし。 一見ひどい発想のようですが、実は我々の社会はこの「功利主義」に基ずく 設計がなされています。他の例としては交通事故によって毎年死傷者が出るのを わかっていながら、私たちは便利さを優先させ、車社会を続けています。 このような幸福や快楽の量だけをとにかく重視するベンサムにたいして 高貴な快楽も下賤な快楽も区別しない豚向きな学説と批判したイギリスの 政治学者J・S・ミルが幸福や快楽の「質」に着目しました。 そして、「満足したブタであるより も、不満足な人間であるほうがよく、 満足したバカであるより、不満足なソクラテスであるほうが良い」と言って いて、これに従うならば量はすくなくとも、質さえ良ければ幸せと言う訳になる。 カントの「義務論」は「~すべし」のように正しい行いについては無条件の義務を 求める「定言命法」━━あなたの意志の基準が常に皆の納得する法則に合うように 行為しなさいと公式化されています。 もし~ならば~せよ、のように条件によって行動を変える「仮言命法」━━ 人間を決して手段にすることなく、目的として扱いなさい、と公式を提示。 これら2大倫理に対抗する、行為選択の基準を徳のある人間が行うで在ろう 行為に求める」徳倫理学がある。他には、応用倫理学/生命、環境、技術者、職業…

その他の回答 (15)

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.15

No.10,12,13です。 生存競争を勝ち抜くためには、ある程度の欲望が必要です。 しかし、人間は知性があるため、必要以上の欲望を持って、必要以上の富や権力を得ようとします。 その方が、生存競争に対して有利だからです。 しかし、際限の無い欲望は人間の心に苦しみをもたらします。 栄枯盛衰は世の習いです。 生まれたものが、必ず死ぬということをわかっていながら、それを押しとどめたいという欲望から苦しみが生まれます。 それがお釈迦様の教えです。 相手を滅ぼし尽くせば、自分の種族の栄華が永遠に続くという幻想のせいで、人類は戦争を繰り広げてきました。 拡張の余地がある時代は良かったのですが、そろそろ飽和点が近づいています。 これ以上種族保存のエゴを振りかざせば、地球環境破壊の限界点を突破して、人類は近い将来滅亡するでしょう。 人類は知性を以て、「足ることを知る」べきです。 「諸行無常」を理解することが、その一助となればと考えます。 あなたは、日本人の繁栄にしか興味が無いようですね。 地球人類全体の繁栄が無い限り、日本人の繁栄も成り立たないのです。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 この絶対善の定義は世界の民族に共通のものです。私は世界の平和を強く望んでいます。 諸行無常より種族保存は絶対善が世界の平和に寄与すると考えます。

回答No.14

素晴らしい質問ですね。 意思の世界、表象の世界、を考えさせられます。 間違えに気づくまで、色々と誤解しても良いと思います。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 >間違えに気づくまで、色々と誤解しても良いと思います。< その誤解を指摘してください。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.13

No.10, 12 です。 要は、善悪の定義ですね。 人間社会を発展させる方向を善、人間社会を滅ぼす方向を悪、と人間が決めたのです。 善悪は人間社会に限定される概念です。 実を言うと、私は大宇宙の意思が存在すると考えていますが、それは善悪を超越していると考えます。(単なる思い込みですが。) 善も悪もない、ただそこにある。 そして、人間のやることには、本来、善悪など無いというのが、私の持論です。 大宇宙の意思からすると、人間が滅びようが栄えようが、どうでもよい。 地球上の生物が繁栄しようが、滅びようが、どうでもよい。 いずれにせよ、我々の太陽が寿命を終えるとき、地球上の生命は絶滅するのです。 個々の生命は、生まれ、死んでいく。 地球上の生命全体(地球環境すべて)も、生まれ、死んでいく。 太陽ですら、生まれ、死んでいく。 大宇宙でさえ同様でしょう。 ただ、生まれ、死んでいくものに、善悪など無いのです。 「諸行無常」でしょうか?

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 >「諸行無常」でしょうか?< これは何かの役に立つのですか。私は良い社会にしたくて善を考えています。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.12

No.10です。 「論理的に導いたのですから論理的に否定してください。」 全く論理的ではありません。 種族保存=大宇宙の意思 この部分の論理がつながりません。 これを論理的であるとするためには、まず、「大宇宙の意思」が存在することを、あなたが証明しなければなりません。 尚、私が「大宇宙の意思」が存在しないことを証明することは不要です。 無い事を証明するのは、「悪魔の証明」であり、不可能とされています。 仮に、大宇宙の意思が存在するとして、あなたの前提からは、 生存競争=大宇宙の意思 が導かれると考えます。 生存競争に勝つことは「善」とは限りません、「必要悪」とも言えます。 正しい=善 絶対正しい=絶対善 この定義がおかしい。 正しいことが善であるとは限りません。 あなたの「正しい」とは、「正義」ですね? 「正義」ほど、いいかげんなものはありません。 正義の大義名分の元に、様々な悪が実行されたのは、ご存知ではないですか? あなたの言葉の定義は非常に恣意的です。 尚、回答者の100%があなたが論理的でないと言っています。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 大宇宙の意志は忘れてもらって、結構です。前文の補足みたいなものですから。でもあらゆる生物が何億年も命を賭けて行ってきたことを、ただしいとせずに何を正しいとするのだろうか、という思いがあって前文の絶対善が導かれたのです。 善の意味は道徳的に正しい行為ですから、ただしいことです。 正しいは勿論正義です。 今までは、皆さん、正しいの意味が分からなかったから、しかし絶対的善は種族保存の為、つまり種族を保存するために自分の命を捨てても群れを守るこれこそが正しい行為と分ったのです。つまり私欲を抑え、公の為に尽くすのが絶対的に正しい行為になるのです。各自正しいはそれぞれでは悪事がありましたが、正しいが統一されれば悪用はできなくなります。 いいえ恣意的でなく、前文は論理的に導かれたものです。恣意は入っておりません、どこかおかしい所がありますか?

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

こんばんは。 憲法には「国民」という文言が、散見されます。 「国民」という括りでは不十分でしょ、と思われる箇所があります。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 私も絶対善であると確信できないでいるから皆さんにお尋ねしています。 不十分と思われるところを教えてください。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.10

善悪とはそもそも、相対的なものだと思います。 地球環境の中で、人間の存在は、癌細胞または病原菌に相当します。 増えすぎて、宿主を破滅させる存在です。 視点を変えると価値が変化するものに対して、絶対などありえません。 種族保存は、自己保存のための「システム」に過ぎないと考えます。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 >善悪とはそもそも、相対的なものだと思います。< ですから私は絶対的に正しいこと、絶対的善を見つけたのです。 総合的に見てどちらが正しいかを考えればいいのです。 >種族保存は、自己保存のための「システム」に過ぎないと考えます。< 論理的に導いたのですから論理的に否定してください。

  • hiodraiu
  • ベストアンサー率15% (447/2819)
回答No.9

No.8です > 道徳的正しさは、科学的正しさとは違い、多くの人が「それはそうだな、それは常識だ」というものの積み重ねで論理的に考えていくのですから、極端な例で否定してはならないのです。 道徳的正しさと、科学的正しさとの違いは、そこじゃないと思いますよ。正しさを問う対象物が違うのだと思いますよ。もっと言えば、この質問の大元は「これは論理的に正しいであろうか。」と言ってますから論理的な正しさを問うているものですよね。道徳的とか科学的ってのは重要でないと思ってます。違ってたらごめんなさい。 極端な例で・・・の極端とそうでないものの境界を何処で引くのかは、誰が決めるのですか。曖昧な物差しで論理的な正しさは分からないと思います。 > また結論を導くプロセスが飛躍していると言われますが、どこが飛躍してるのですか、三段論法ではないのでしょうか、哲学は素人なものですみません。 No,2のコメントの4の話ですよね。 国民の命を守ることが、種族保存になるってことですが、種族保存の必要条件が不明瞭なまま結論付けられてますよね。質問者様が”科学的正しさ”に重きを置いて且つ説明するまでもないってことなら飛躍にはならないかもしれませんが、私的には、それが必要条件なのか十分条件なのか、他にも条件があるのか等の説明もなしに結論が出てきたので飛躍と感じました。

shinwood
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 種族保存と書いてありますが質問のところでは「つまり種族(民族)保存のことである」と書いてあります。種族保存は民族保存も言うのです。民族は国民ですからね。各民族の種族を保存することは絶対的に正しいことであると言う事です。

  • hiodraiu
  • ベストアンサー率15% (447/2819)
回答No.8

No.7です > あなた自身にとって一番大切なのは命でしょう、あなたの家族にとって一番大切なのは家族の命でしょう、それでは日本人にとって一番大切なのは国民の命となりませんか? 私にとってはそうだっとしても、家族を殺す人もいるのが現実です。定義する対象に例外が存在する以上「日本人にとって」って言葉が嘘になります。 > 結果として日本国民の命が一番大事になると思いますが・・・・。 結論を導くプロセスが飛躍していることは説明を書きましたが、そこについて何も触れないのは何故?この飛躍を埋めない限り、結論に強引に結びつけているようにしか見えないですよ。

shinwood
質問者

お礼

何度もコメントありがとうございます。 道徳的正しさは、科学的正しさとは違い、多くの人が「それはそうだな、それは常識だ」というものの積み重ねで論理的に考えていくのですから、極端な例で否定してはならないのです。 また結論を導くプロセスが飛躍していると言われますが、どこが飛躍してるのですか、三段論法ではないのでしょうか、哲学は素人なものですみません。

  • hiodraiu
  • ベストアンサー率15% (447/2819)
回答No.7

No.2です > 1、我々日本人にとって最も大切なものは国民の命であろう・・・これは正しいですか? 我々日本人ってのは総ての日本人ですか、国民の命とは総ての日本人の命って意味ですか。仮にそうなら、日本人が日本人を殺す事件が発生していますから、正しくないです。また命を奪うほどでないにしろ、嫌いな人の命を大切に思わない人もいると思います。 日本人とか国民って書き方は、日本人の総ての個人を指すものと解釈してますが、それで良いですか。総ての個人が同じ価値観ではないので、日本人は〇〇って書かれても、大概は例外が出てきて「正しくない」となりませんか。 > 2、この最も大切なものを守ることは絶対的に正しいことであ・・・これは正しいですか? 1が正しくないと結論付けた場合、この質問は成立しないですよね。 > 3、最も大切な国民の命を守ることは絶対的に正しい事である・・・これは正しいですか? 2と同様に、1が正しくないので成立しません。因みに、2との違いも分かってないです。2の「この最も大切なもの」と、3の「最も大切な国民の命」は同じものを指してませんか。 > 4、結論、つまり絶対的に正しい事、絶対善は国民の命を守ること、つまり種族(民族)保存のことである・・・この結論へのもっていきかたはおかしいですか? おかしいです。先の回答で書いた通り、飛躍してると思います。 結論を書く前に、種族の保存に必要な条件と、その条件が何故満たされていると言えるのか、が抜けてます。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 う~ん、やっぱりこれでは定義にならないでしょうか? あなた自身にとって一番大切なのは命でしょう、あなたの家族にとって一番大切なのは家族の命でしょう、それでは日本人にとって一番大切なのは国民の命となりませんか? >おかしいです。先の回答で書いた通り、飛躍してると思います。< 一番が正しく、二番が正しいなら、結果として日本国民の命が一番大事になると思いますが・・・・。

回答No.6

こんにちは。 絶対は、それを言う人の為に在り、 善は、それを言った人に存在する価値。 よって、絶対善は個々人にとって幸せ、 と云う事になります。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 > 絶対は、それを言う人の為に在り、善は、それを言った人に存在する価値。 よって、絶対善は個々人にとって幸せ、と云う事になります。< これはどんな論理から導かれたのでしょうか?誰か言っていたからですか?それは正しいのですか?正しいとは論理的に導かれたものです。勘ではありません。

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    無知の知について自分なりの考えを書いてみます。 ソクラテスは「当時の賢人たち、つまりソフィストは本当の善(正しい)とは何かを知らない」と言うことを知っていたのでしょう。また善(正しい)はよい意味の言葉にはすべて内包していて、善こそ全ての良い言葉(愛、幸福、尊厳、勇気などなど)の本質だと言うことも彼は知っていたのではないでしょうか。 例えば愛とは何か、平和とは何かを議論するにしても善いと感じる言葉にはすべて正しいが入っていなければなりません。正しい愛を語らねばならないし、正しい平和を語らねばなりません。嘘の愛、いい加減な平和を語ってはならないのです。ですから本来「正しいとは何か」を知らないで愛を語ったり平和を語ったりしても本当のことを語ること等できないのです。それは無意味とまでは言いませんが、大切な時間の無駄遣いだと思うのです。いろんな社会的問題に対して善の意味を知らないで物事を語るというのは空しいことなのです。ですから、私たちはまず何よりも「正しいとは何か?」つまり本当の善、絶対善を追及しなければならないのです。 ソクラテスは当時、賢人と言われる人たちと議論しても本質、絶対的正しさを知らない彼らを必ず言い負かせるという自信があったのでしょう。だって当時も善は相対的と考えられおり、誰も絶対善なんて追求しなかったし、善は人それぞれだと思っていたのですから。 ソクラテスは絶対的な善はあるはずだと考えていました。ゆえにソクラテスは「絶対的な善はあるはずだ、しかしみんなはそのことは知らない」と言うことを知っていたのです。「無知」とは、言うならば「絶対善を知らない」と言うことでもあるのです。善(本当に正しい事)を知らなければ本当のことは何も知らないのと同じなのです。問い詰めればやがてボロが出て論破できるのです。 しかしそのソクラテスでさえ「善とは何か」その本質は分からなかったのです。ですが善の本質を知らなくても、ソクラテスのように善という絶対的なものがあると考えるだけでも、善は相対的であると考えている人たちに比べて断然に賢いと言えるのです。 「無知の知」とは「善とは絶対的なものがあり、そのことを自分は知らないことを知りなさい」と言うことでもあるのです。ですがソクラテス自身本当の善を知らなかったのですから、彼が教えられることは「自分が善を知らないことを知れ」と言うことだけでした。ですからソクラテスの弟子たちも絶対善を知ることはなかったのです。 「無知の知」を現代に当てはめてみれば、「正しいは相対的である」と考えている人たちはソクラテスにやり込められたエセ賢人たちと言うことになります。つまり利口ぶっている無知な人たちです。 勿論、絶対善を知ったとしても、例えば「愛とは何か」などの本当の答え、本質がすぐに分かると言うことではありません。いわゆるこれはイデアですからそれを知ることは困難を極めるでしょう。しかし絶対善と言う視点をもってみんなで話し合えば、やがて「本当の愛とは何か」が見えてくることでしょう。 絶対善を知らなくても「絶対善はある」と信じるだけでも「絶対善などない、正しいは人それぞれだ」とうそぶく人たちよりも格段の知恵者といえるのです、それはソクラテスがすでに証明している事なのです。 私は無知の知についてこのように考えてみましたが、どうでしょうか? 何か意見があれば教えてください。

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~