おはようございます。
あなたの質問にお答えします。
>>譜代奉公人は江戸幕末まで武士の家(関東含め)にもいた場合があったのでしょうか?
>>儒教の影響と幕府が禁止を出しましたけど
正確な史料はありませんが、私は、
「多分、いた」
と考えます。
なぜなら、譜代奉公人に限って言えば、「下男」「下女」は武士の家に限らず農村でも、「衣食住」や「日用雑貨」などは「現物支給」として与えられたが、「小遣い」も含めていわゆる「俸給」(給与)というものは、一切与えられていなかったのが現実でした。
従って、独立しようにも「先立つもの」がありませんので、主家からは離れられなかったのかと考えます。
さらに言えば、江戸時代では、幕府は「人身売買を禁止」した。とは言え、「裏」には「裏」があったのも事実です。
先に述べた「女衒」(ぜげん)などもその一例かと思います。
武家における譜代奉公人も、2~3代にわたって主家に奉公していた例も見受けられますので、幕府(目付など)から咎められても、「家族の一員です」「臨時の日雇いです」と答えられてしまえば、それ以上の追及はしなかったし、幕府も武家の家を一軒一軒詳しく調べ上げることは、とてもではないが、そんな暇はありませんでしたから。
また、譜代奉公人も「私は(私たちは)そうです」と名乗り出たりすれば、即刻「首」になったでしょうから、現代のように「退職金」などもあるはずはなく、明日からの生活は路頭に迷うことになったでしょう。
ただし、新規の売買による「永代に渡っての雇用(私物化)」などは大幅に減少し、次第に衰退していったとは思われます。
そして、時代とともに、人身売買的な「生涯に渡っての隷属関係」は次第に薄れ、農村などでは「小作人」などと呼び名を変えて存続したり、大農家あたりで「下男」「下女」を雇うにあたっては、双方での金銭取引(売買契約)をなくし、例えば、
男の場合では、二男、三男に生まれてしまい、婿養子の口もなく、さりとて「分家」をさせてもらえるほどの財力がなかったようなときには、口減らしのために、豪農や庄屋、ある程度の大農家などへ預けられたりしました。
女の場合では、かなり年齢が若い頃、およそ7~8歳位から、口減らしには違いないのですが、「行儀見習い」とかの名目で預けられたりしました。しかし、ある程度の年齢に達して嫁ぎ先などが見つかれば、主家を離れることもできました。
あなたへの「お答」になっていたでしょうか。
補足
譜代奉公人は江戸幕末まで武士の家(関東含め)にもいた場合があったのでしょうか? 儒教の影響と幕府が禁止を出しましたけど