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江戸時代の譜代奉公人

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お礼率 5% (5/93)

譜代奉公人は雇い主と結婚しなくて、譜代じゃない奉公人は名主、商人、郷士、武士と結婚する場合があると意味を調べてたら出てくるけど
譜代との差はなんですか?
両方農村にもいますよね?
それと譜代奉公人は江戸幕府が禁じてたとも書いてありました

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.2

ベストアンサー率 51% (833/1627)

おはようございます。
あなたの質問にお答えします。

>>譜代奉公人は江戸幕末まで武士の家(関東含め)にもいた場合があったのでしょうか?
>>儒教の影響と幕府が禁止を出しましたけど

正確な史料はありませんが、私は、
「多分、いた」
と考えます。

なぜなら、譜代奉公人に限って言えば、「下男」「下女」は武士の家に限らず農村でも、「衣食住」や「日用雑貨」などは「現物支給」として与えられたが、「小遣い」も含めていわゆる「俸給」(給与)というものは、一切与えられていなかったのが現実でした。
従って、独立しようにも「先立つもの」がありませんので、主家からは離れられなかったのかと考えます。

さらに言えば、江戸時代では、幕府は「人身売買を禁止」した。とは言え、「裏」には「裏」があったのも事実です。
先に述べた「女衒」(ぜげん)などもその一例かと思います。

武家における譜代奉公人も、2~3代にわたって主家に奉公していた例も見受けられますので、幕府(目付など)から咎められても、「家族の一員です」「臨時の日雇いです」と答えられてしまえば、それ以上の追及はしなかったし、幕府も武家の家を一軒一軒詳しく調べ上げることは、とてもではないが、そんな暇はありませんでしたから。
また、譜代奉公人も「私は(私たちは)そうです」と名乗り出たりすれば、即刻「首」になったでしょうから、現代のように「退職金」などもあるはずはなく、明日からの生活は路頭に迷うことになったでしょう。

ただし、新規の売買による「永代に渡っての雇用(私物化)」などは大幅に減少し、次第に衰退していったとは思われます。

そして、時代とともに、人身売買的な「生涯に渡っての隷属関係」は次第に薄れ、農村などでは「小作人」などと呼び名を変えて存続したり、大農家あたりで「下男」「下女」を雇うにあたっては、双方での金銭取引(売買契約)をなくし、例えば、

男の場合では、二男、三男に生まれてしまい、婿養子の口もなく、さりとて「分家」をさせてもらえるほどの財力がなかったようなときには、口減らしのために、豪農や庄屋、ある程度の大農家などへ預けられたりしました。

女の場合では、かなり年齢が若い頃、およそ7~8歳位から、口減らしには違いないのですが、「行儀見習い」とかの名目で預けられたりしました。しかし、ある程度の年齢に達して嫁ぎ先などが見つかれば、主家を離れることもできました。

あなたへの「お答」になっていたでしょうか。
感謝経済

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  • 回答No.1

ベストアンサー率 51% (833/1627)

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

★譜代奉公人
「譜代奉公人」は「譜代下人」とも呼ばれ、主家(雇い主)の家(離れや別棟であっても)に、場合によっては代々が住み込みで、雇い主の指図で田畑を耕したり、女の場合には雇い主の子供の子守や世話などに従事する者を指しました。主家からは「衣食住」が与えられた。
また、主家に住み込みをしながら、多少の田畑を貸し与えられて耕作に従事する者などもいました。「衣食住」は主家から与えられる場合と出来高によっては自活する場合とがありました。しかし、収益のほとんどは主家に収めなければならなかったので、貧しさは同じであった。

この「譜代奉公人」(譜代下人)の起源は、主に室町時代にあった「人身売買」により発生をした。
この「人身売買」は、災害や飢饉などで所有していた田畑から収入を得ることかできず、やむなく田畑を手放し、単身(自分一人だけ)であったり、夫婦、子供連れで「人身売買」により安住の地(雇い主)を求めざるを得なかった者たちであった。
初めの頃は、主に農民たちが多く、農業しか知らないため、主家と呼ばれる家々は豪農や庄屋が多かった。
そして、ただ単に「下人」(げにん)、または、「下男」、「下女」などとも呼ばれていたようであるが、やがては、地方によっては「家抱」(かほう)、門屋(もんや、または、かどや)、「庭子」(にわこ)、「名子」(なご)、「被官」(ひかん)などと呼ぶこともあった。

しかし、時代とともに、「年季奉公」(1年とか2年とかだけの契約奉公)や「日雇い奉公」なども出現するようになった。
例えば、酒作りなどでは「仕込み」の期間だけに人を雇う。などを「日雇い奉公」と呼びました。

従って、譜代奉公人は「奴隷」として位置づけられ、身分的には非常に低位であり、結婚などもそれに見合った低位の者としか結婚せざるを得なかった。
一方、年季奉公や日雇い奉公人は、現代で言えば「アルバイト」のようなものであり、身分的には「普通の農民」であったので、ある程度の制約はあったものの、極端に言えば誰とでも結婚ができた。

また、江戸時代に入ると、大名の参勤交代が義務付けられたため、農村や武家などに譜代奉公人も存在はしてはいたが、大名行列のためだけの荷物の運搬などをした「奴」や籠を担いだりする「六尺」(ろくしゃく)などの「年期奉公」が多くなっていった。
これは言うまでもなく、大名は今年江戸に向かうと帰りは来年になる。従って、2年契約の「年期奉公」と言うことになるのです。

さらに時代を経ていくと、大名家や旗本屋敷などを渡り歩く「中間」(ちゅうげん)なども出現をした。この「中間」は、例えば、大名が登城する際のお供で、大名行列などの時と同じように、挟み箱などを持つ「奴」、籠を担ぐ「六尺」などに従事した。

江戸時代中期頃からは「口入屋」と呼ばれるハローワークもできた。この口入屋は仕事を求める者はもちろんのこと、仕事人を求める商家や旗本、はては大名家までもが活用した事例も多々残されている。

そして、江戸時代に何よりもこうした「譜代奉公人」(譜代下人)を見直す制度となったのが、幕府より発せられた「人身売買禁止令」だったのです。
この江戸幕府の「人身売買禁止令」は、江戸時代としては「隷属関係」、つまりは、個人が個人(貧しい人)を「所有物」としては認めない。貧農者を救うという譜代奉公人(譜代下人)制度を断ち切ったのです。これは、将軍たちが手本とした「儒学の精神」からでした。
まさに、近代国家としては「当り前」なことではあったのですが、これにより逆に。例えば、江戸や大坂、京都の街には近隣から流入する「浮浪者」や「無宿者」が増える結果となったのです。
ですから、一例としては「女衒」(ぜげん=人買い)は、貧しい農家の娘を買い取って吉原などに売りましたが、「売買」とは呼ばず「奉公」と呼んでいました。
一方農村部では、「小作人」と呼ぶようになり、収益の大部分は主家が「搾取」していました。

結論としては、「譜代奉公人」の大部分は農村にいたが、当時としては都会と呼ばれる地域に出てきて主家を見つけることもありました。
補足コメント
sokoo0823

お礼率 5% (5/93)

譜代奉公人は江戸幕末まで武士の家(関東含め)にもいた場合があったのでしょうか?
儒教の影響と幕府が禁止を出しましたけど
投稿日時 - 2018-12-10 05:41:48
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