江戸幕府は、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』を作成しています。二種類ともに記載対象は大名・旗本・医師・同朋・茶人などで、御家人は基本的には対象外でした。『寛永諸家系図伝』では概ね諸家から提出された内容を、そのまま記載したような面があり、逆に『寛政重修諸家譜』は諸資料の突き合わせにより、改正作業が実施されています。幕府に倣い、諸大名家の中でも系図集を作る大名が出てきます。ただ、大名家により、記載範囲が下士身分以上であったり、郷士、農村の名主クラス以上であるなどの違いがあり、必ずしも郷士の家系図が記載対象になるとは限りません。
これは、室町後期‐特に戦国時代‐から近世初期には身分の上昇と下降が激しく、中世の国人領主・大名の一族が帰農し、近世の郷士・名主層になっていることがあるなど、一般の近世大名家よりも門地が高かった家や、地域の名家があったことにもよるのだと思います。近世初頭の新田開発・用水の開削などに土豪開発型の新田・用水が各地にみられ、土豪と呼ばれる人々は一族や、下人などの集団を引き連れて開墾に従事し、新田・用水の開発後は、各種の特典の元、旧下人などを実質的に支配しながら、名主・郷士として、農村の上層身分として存続します。
逆に中世の後半は、農村の農民の内有力者が国人領主・大名などにより侍身分を与えられ、軍役奉仕をしたりします。これらは農業経営と侍を兼ねていました。この人々を地侍と言いますが、この地侍から近世大名に成り上がった者もいます。例えば、津藩藤堂家の祖、藤堂高虎の先祖は土豪クラスの小領主であったものが没落し、高虎自身は地侍クラスの子息から成り上がったとされます。また、商人と侍を兼ねた小西行長など、侍と他の身分が兼ねられる(『信長公記』などにも例があり)こともあります。福岡の黒田家も、没落期に薬の行商で糊口をしのいだだけでなく、領主クラスになっても、薬の販売を継続していたとも言われています。近世豪商の三井・住友・鴻池家なども、戦国期の先祖を武将クラスとし、特に鴻池家は、有名な山中鹿之助の直系子孫を標榜し、それが世間的には不思議だとみられていない社会状況がありました。逆に武士も農民から出身したとの通念もあります。
このような身分の混在が分離されたのが、太閤検地に代表される検地と、身分統制令と言われ、農村に残って農業に従事する百姓身分となる者、農村から切り離され、武士として城下町に住む者になっていきます。概論としてはこのように説明されますが、中世の残影を引きずっているのが、郷士・庄屋階層とされ、これらの階層の成り立ちは大名・地域により成立、扱いが違う場合があります。
ですから、「戦国時代の家系図は武士でもない人が結構いたみたい」ということは往々にあり、逆に近世町人・農民の先祖に中世大名・国人がいてもおかしくないことになります。
ただ、農民などの庶民が「家」というものを意識したのは太閤検地に始まる近世の検地だとする学説があって、検地帳に耕作者名が記載され、代々検地帳に記載された名を世襲し、耕作者地位を明確化した中で、「家」意識が芽生えたとされます。
江戸時代に幕府による系図集の作成が2度あったり、類似の書類提出が仕官・役職への就任・結婚・家督相続・賞罰などで(諸藩・旗本家も同様)必要とされたことは、戦いが遠のき、個人の実力よりは、家・家格などが重視される傾向があったことにも当然かかわりがあり、さらに官僚機構の整備も原因の一つではないかとされます。
幕府・藩などで提出された書類は二種類で、(1)親類書と言われるもの、(2)由緒書と呼ばれる物の二種類があります。
まず、親類書ですが、一類付(いちるいづけ)とも言われます。系図の場合、編纂当時(資料提出時)の当主から男系直系尊属をたどり、初代に至る系譜を主軸に、各代の男女兄弟、まれに兄弟の子(極まれに孫世代)まで記載したものが一般的で、記載された者の経歴が書かれ、女子の場合は婚姻相手の名が記載され、時に女子の主要な子息名が記載される男系の流れです。
これに対して親類書は、父系のみならず、母系も記載されます。家族・親類の名・肩書(仕官先・役職名など)・親類書提出者との続き柄が書き連ねられたものです。現代では婚姻の関連でのみ必要とされることが多いですが、江戸時代にはそれのみではなく、仕官・役職への任命・処罰などの前や後に提出されます。処罰時については、連座(親類関係については縁座‐えんざ‐と言います)に関連するものと思われます。かの有名な大岡越前守忠相も2度縁座により処罰されています。また、赤穂浪士も切腹前に親類書を書き上げています。これらのことからも親類書による家・家格の確認と、親類が、相互連帯保証と連帯責任として機能していたことがわかりますし、だからこそ親類書の提出が求められたものと思います。
次に、由緒書は先祖書とも呼ばれます。内容的には、軍功書と奉公書に分かれます。初期は軍功書に比重があり、後に奉公書が重要視され、軍功書と奉公書が並べた形式の物、その後奉公書に比重が移っていきます。
軍功書は直系の先祖代々の軍功を書き連ねたもので、時と場合により、その証拠となる先祖の与えられた感状・軍忠状(功績認定者の花押のあるもの)の提出が求められることがあります。
奉公書は、武士が役職についてからの現職までの経歴、知行高・俸給・俸禄・加増、賞罰に関する事柄などが書かれますが、役職により必要とされる項目が違うことがあります。奉公書は、幕府では明細短冊、諸藩では明細書などと呼ばれ、政庁に保管管理され、俸給の支給、知行地の変更、役職の任免などに利用されました。幕府瓦解時には江戸城多聞櫓に46000点余りの未整理文書が残っていましたが、この内6600点が明細短冊で、点数からも明細短冊が幕府の基本的な人事管理資料であり、現代では幕末期の幕臣(全てではない)の経歴などの研究に利用されています。
以上のような文書が、系図集作成時の諸家の資料提出の基本資料となったり、幕府・藩の確認資料となったりしたものと想像されます。
さて、農民・商人はどうかというと、系図集に採録されること、系図の作成を命じられることは基本的にはありませんでした。ただ、名字帯刀を許されたり、御用商人・会所役人に任命されたり、武士各や藩士身分を獲得したりした場合、由緒書の提出が求められることがありました。また、幕末期の大奥に関する研究成果から、大奥に仕えた農民の娘などが大奥に出仕するような場合、親族・由緒書の提出があったことがわかってきています。
以上のように系図作成は武士社会の話ではあるのですが、武士の流行が農民・商人などにも波及し、独自に系図を作成するものもあらわれ、武士だけでなく農民・商人などでも系図買いの話が出ています。
最後に、「江戸期の家系図を紛失した人はどのくらいいたのですか?」との質問についてですが、わからないというのが正直な答えです。郷士の家系だそうですが、郷士については記載しない藩も多い上に、現在残っている系図集が、果たして全てなのか、それとも散逸したものが多いのかもわからないのが現状です。独自に作成する家があったとしても、郷士のすべてがつくったとも考えられません。ただ、系図とまではいかないにしても、家督相続などの折に、親族書・由緒書などの提出を求められるので、この写しなどがあれば‐江戸時代は、後日のために提出文書の写しを残すことが多いので、あるいは系図に近いものが見つかるかもしれません。
お礼
補足コメントにご回答いただきありがとうございます
補足
土浦藩領になったのは江戸中期からですね、江戸時代初期の頃は最初に天領数年間、あとは旗本知行地でしたね、うちのご先祖は佐竹の家臣かと思ってましたが 小田氏や結城氏の家臣それか領民であったかもしれません 小田氏は小田氏治の息子が関ヶ原で徳川について褒美に徳川から金の皿かなんかを貰ってますね 戦国時代の、うちのご先祖のはっきりとした家伝がないわけですから、戦国時代は誰に仕えてたか、はっきりと言い切れないです 因みに分家のほうも苗字を公文書で書くことを許可されてました、帯刀のほうは許可されてたかは分からないです 分家は村役人の組頭なんですが、本家であるうちのご先祖は何の役職かは分からないです