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江戸時代の家系図について
江戸時代は幕府の命令で上級武士だけではなく百姓や郷士にも家系図(系図)を作るように言われてたらしいです 明治時代に切り替わり、明治時代初期には家系図(系図)を、なぜかは分かりませんが紛失したかたがいたらしいです 江戸期の家系図を紛失した人はどのくらいいたのですか? それと、戦国時代は家系図は武士でもない人が結構いたみたいですが、これについても本当なのでしょうか? うちは江戸時代、郷士ですが、親に実家に家系図自体ないと言われましたが、おそらく明治時代初期に紛失したのかなと思います。家を継いでる人はみんな几帳面な人なんですけどね
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NO5で回答した者です。NO5で回答した内容について、聞きなれない語句や、記述が多かったと思います。また、根拠となる資料も上げていないので、真偽についてわからないと思われていることと思います。そこで、明細短冊の例を上げたいと思います。 明細短冊 例 https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/677064ccb3e132fdecc1c9a71bc095a9 広瀬寅五郎という人物について知識はないので、系図に関することで、文字上から分かる事柄についてですが、明細短冊の例を見ると、父・祖父が小川道伯家来となっています。小川道伯はネットで検索すると、幕府奥医師であることがわかるので、小川寅五郎の父・祖父は幕臣である奥医師の家来、つまり、陪臣(ばいしん=またもの=家来の家来)出身ということがわかります。 嘉永7年11月に、御先手組(組頭紅林勘解由)の同心(高木銓太郎)が引退か、死去で空席ができた御先手組同心の職に就き、幕臣になったことがわかります。同心など御家人に空席が出た場合、一代限りの地位なので、基本的には相続できないのですが、前任者の子息か、それがない場合には甥などのゆかりの者が、後任として採用されることが常態化しています。この権利を株と称して売買し、前任者の養子として、職に就くこともよくあることとされます。前任者が高木、本人が広瀬、父・祖父が田口と名字が違うことから、同心株の売買があったのかもしれません。 俸禄についてですが、御先手組同心は、三十俵二人扶持が本来の俸禄です。元高とされる部分です。一人扶持足扶持の足扶持は、足高と同様な制度なので、函館奉行支配定役の定め足高が三十俵三人扶持で、御先手組同心の元高である三十俵二人扶持との差額、一人扶持が足扶持として支給されたのだわと思われます。これに、函館奉行支配定役の役扶持(役職手当)として三人扶持が支給されるということだと考えられます。 嘉永七年十一月の仕官から元治元年八月十七日までの履歴が列挙されます。 これに、親族書があるわけです。 広瀬寅五郎という人物は幕末に幕臣になったので、その地位を子孫に伝えることはできなかったと思いますが、子・孫と子孫に相続させることができれば、最低限家督相続(相続が許されないので新規取り立ての名目)時に、親族書と、由緒書の提出はあったでしょうから、数代の親族書・由緒書があれば、それを系図に直すことは簡単にできたものと思います。逆に言えば、系図がなくても親族書・由緒書があれば、系図があると同様ではないかと思います。 NO5でも書きましたが、江戸時代は文書を大事にしますし、後のために提出書類の写しを取っておくことはごく普通のことですので、系図そのものだけでなく、親族書・由緒書に関する文書についても探されてはと、思います。 尚、聞きなれない語句や、記述が多かったと思います。語句や記述について確認される場合は、「Wikipedia」もしくは「コトバンク」で検索してください。URLのコピーがうまくできないので。 特に、親類書・一類付・先祖書・軍功書・奉公書・土豪開発新田などの項目については、ネットで適切な解説をしているものは、「コトバンク」以外に見つからないようです。ただ、NO5の記述と、「Wikipedia」もしくは「コトバンク」の説明では一部違う部分もあります。「コトバンク」は簡略に説明しているので、説明に不足の部分があります。
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- fumkum
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江戸幕府は、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』を作成しています。二種類ともに記載対象は大名・旗本・医師・同朋・茶人などで、御家人は基本的には対象外でした。『寛永諸家系図伝』では概ね諸家から提出された内容を、そのまま記載したような面があり、逆に『寛政重修諸家譜』は諸資料の突き合わせにより、改正作業が実施されています。幕府に倣い、諸大名家の中でも系図集を作る大名が出てきます。ただ、大名家により、記載範囲が下士身分以上であったり、郷士、農村の名主クラス以上であるなどの違いがあり、必ずしも郷士の家系図が記載対象になるとは限りません。 これは、室町後期‐特に戦国時代‐から近世初期には身分の上昇と下降が激しく、中世の国人領主・大名の一族が帰農し、近世の郷士・名主層になっていることがあるなど、一般の近世大名家よりも門地が高かった家や、地域の名家があったことにもよるのだと思います。近世初頭の新田開発・用水の開削などに土豪開発型の新田・用水が各地にみられ、土豪と呼ばれる人々は一族や、下人などの集団を引き連れて開墾に従事し、新田・用水の開発後は、各種の特典の元、旧下人などを実質的に支配しながら、名主・郷士として、農村の上層身分として存続します。 逆に中世の後半は、農村の農民の内有力者が国人領主・大名などにより侍身分を与えられ、軍役奉仕をしたりします。これらは農業経営と侍を兼ねていました。この人々を地侍と言いますが、この地侍から近世大名に成り上がった者もいます。例えば、津藩藤堂家の祖、藤堂高虎の先祖は土豪クラスの小領主であったものが没落し、高虎自身は地侍クラスの子息から成り上がったとされます。また、商人と侍を兼ねた小西行長など、侍と他の身分が兼ねられる(『信長公記』などにも例があり)こともあります。福岡の黒田家も、没落期に薬の行商で糊口をしのいだだけでなく、領主クラスになっても、薬の販売を継続していたとも言われています。近世豪商の三井・住友・鴻池家なども、戦国期の先祖を武将クラスとし、特に鴻池家は、有名な山中鹿之助の直系子孫を標榜し、それが世間的には不思議だとみられていない社会状況がありました。逆に武士も農民から出身したとの通念もあります。 このような身分の混在が分離されたのが、太閤検地に代表される検地と、身分統制令と言われ、農村に残って農業に従事する百姓身分となる者、農村から切り離され、武士として城下町に住む者になっていきます。概論としてはこのように説明されますが、中世の残影を引きずっているのが、郷士・庄屋階層とされ、これらの階層の成り立ちは大名・地域により成立、扱いが違う場合があります。 ですから、「戦国時代の家系図は武士でもない人が結構いたみたい」ということは往々にあり、逆に近世町人・農民の先祖に中世大名・国人がいてもおかしくないことになります。 ただ、農民などの庶民が「家」というものを意識したのは太閤検地に始まる近世の検地だとする学説があって、検地帳に耕作者名が記載され、代々検地帳に記載された名を世襲し、耕作者地位を明確化した中で、「家」意識が芽生えたとされます。 江戸時代に幕府による系図集の作成が2度あったり、類似の書類提出が仕官・役職への就任・結婚・家督相続・賞罰などで(諸藩・旗本家も同様)必要とされたことは、戦いが遠のき、個人の実力よりは、家・家格などが重視される傾向があったことにも当然かかわりがあり、さらに官僚機構の整備も原因の一つではないかとされます。 幕府・藩などで提出された書類は二種類で、(1)親類書と言われるもの、(2)由緒書と呼ばれる物の二種類があります。 まず、親類書ですが、一類付(いちるいづけ)とも言われます。系図の場合、編纂当時(資料提出時)の当主から男系直系尊属をたどり、初代に至る系譜を主軸に、各代の男女兄弟、まれに兄弟の子(極まれに孫世代)まで記載したものが一般的で、記載された者の経歴が書かれ、女子の場合は婚姻相手の名が記載され、時に女子の主要な子息名が記載される男系の流れです。 これに対して親類書は、父系のみならず、母系も記載されます。家族・親類の名・肩書(仕官先・役職名など)・親類書提出者との続き柄が書き連ねられたものです。現代では婚姻の関連でのみ必要とされることが多いですが、江戸時代にはそれのみではなく、仕官・役職への任命・処罰などの前や後に提出されます。処罰時については、連座(親類関係については縁座‐えんざ‐と言います)に関連するものと思われます。かの有名な大岡越前守忠相も2度縁座により処罰されています。また、赤穂浪士も切腹前に親類書を書き上げています。これらのことからも親類書による家・家格の確認と、親類が、相互連帯保証と連帯責任として機能していたことがわかりますし、だからこそ親類書の提出が求められたものと思います。 次に、由緒書は先祖書とも呼ばれます。内容的には、軍功書と奉公書に分かれます。初期は軍功書に比重があり、後に奉公書が重要視され、軍功書と奉公書が並べた形式の物、その後奉公書に比重が移っていきます。 軍功書は直系の先祖代々の軍功を書き連ねたもので、時と場合により、その証拠となる先祖の与えられた感状・軍忠状(功績認定者の花押のあるもの)の提出が求められることがあります。 奉公書は、武士が役職についてからの現職までの経歴、知行高・俸給・俸禄・加増、賞罰に関する事柄などが書かれますが、役職により必要とされる項目が違うことがあります。奉公書は、幕府では明細短冊、諸藩では明細書などと呼ばれ、政庁に保管管理され、俸給の支給、知行地の変更、役職の任免などに利用されました。幕府瓦解時には江戸城多聞櫓に46000点余りの未整理文書が残っていましたが、この内6600点が明細短冊で、点数からも明細短冊が幕府の基本的な人事管理資料であり、現代では幕末期の幕臣(全てではない)の経歴などの研究に利用されています。 以上のような文書が、系図集作成時の諸家の資料提出の基本資料となったり、幕府・藩の確認資料となったりしたものと想像されます。 さて、農民・商人はどうかというと、系図集に採録されること、系図の作成を命じられることは基本的にはありませんでした。ただ、名字帯刀を許されたり、御用商人・会所役人に任命されたり、武士各や藩士身分を獲得したりした場合、由緒書の提出が求められることがありました。また、幕末期の大奥に関する研究成果から、大奥に仕えた農民の娘などが大奥に出仕するような場合、親族・由緒書の提出があったことがわかってきています。 以上のように系図作成は武士社会の話ではあるのですが、武士の流行が農民・商人などにも波及し、独自に系図を作成するものもあらわれ、武士だけでなく農民・商人などでも系図買いの話が出ています。 最後に、「江戸期の家系図を紛失した人はどのくらいいたのですか?」との質問についてですが、わからないというのが正直な答えです。郷士の家系だそうですが、郷士については記載しない藩も多い上に、現在残っている系図集が、果たして全てなのか、それとも散逸したものが多いのかもわからないのが現状です。独自に作成する家があったとしても、郷士のすべてがつくったとも考えられません。ただ、系図とまではいかないにしても、家督相続などの折に、親族書・由緒書などの提出を求められるので、この写しなどがあれば‐江戸時代は、後日のために提出文書の写しを残すことが多いので、あるいは系図に近いものが見つかるかもしれません。
- ichikawa2017
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No.2です。 補足を頂戴しました。 補足に 江戸時代初期に、郷士身分になったので系図は必要だったのかなと思います とありますが、 系図が必用だったか否かは誰がどのような理由で江戸時代の初期にご先祖様を郷士身分と認めたか次第です。 以前のご質問でご先祖様は土浦藩の領内におられたかと思います。 土浦藩というのは江戸時代の初期には目まぐるしく藩主が変わっていました。 江戸時代以前には小田氏や結城氏が支配していました。 参考 土浦藩 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/土浦藩 抜粋 小田氏→結城氏→松平信一→西尾忠永→朽木稙綱→土屋数直→松平信興→土屋政直 小田氏も結城氏も末裔が衰退したとは言え、江戸時代に着任していた徳川家の家臣(大名)よりも名門中の名門でした。 江戸時代に郷士と位置づけられた人の中には百姓同様に領主(大名)が幕命で転封させられた際に転封していく大名には付いていかずに居残り新しく転封して来た大名に仕えた人達がいました。 このような人達の多くが土着の豪族でした。 (1)ご先祖様はヒョットすると小田氏や結城氏に連なる豪族だったという可能性があります。 (2)あるいは、関ケ原の戦の際に初代の土浦藩主の松平信一の軍に従って功績を上げ郷士に格上げされたことも考えられます。 (3)同様に大阪の陣の際に西尾忠永の軍に従って功績を上げて格上げされた可能性もあります。 戦で槍や刀を振り回すだけが能ではありません荷駄隊いわゆる兵站として功績を上げることも可能です。 本能寺の変の際に秀吉が中国大返しということがやれたのも毛利との戦に備えて兵站線を充実させていたことが幸いして天下人への道をひらきました。 ご先祖様が(1)であれば何等かの身分を証明する書状を新しい領主に提出する必要があったかと思います。 (2)(3)であれば必要性はなかったでしょう。
- oska2
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>江戸時代は幕府の命令で上級武士だけではなく百姓や郷士にも家系図(系図)を作るように言われてたらしいです 初耳ですね。 私が理解しているのは、宗教上の問題で「旦那寺」所属を確認する事ですが・・・。 江戸時代は、質問者さまもご存知の通り「旦那寺が、住民登録」を行っていました。 >明治時代初期には家系図(系図)を、なぜかは分かりませんが紛失したかたがいたらしいです 紛失と言うよりも、多くは「売却」しています。 天皇派・幕府派で、国内が分かれていた時期ですよね。 朝敵にならない様に、意図的に破棄した場合も有るようです。 反対に、昔から天皇派だった家系の家系図は高額で取引されました。 同時に、裕福な者は「由緒ある家計図を購入して、家の地位を上げた」のです。 秀吉が、百姓の倅だったのに家系図を改変して関白にまでなった事実。 家康の先祖は、貧乏乞食坊主だったのに家系図改変して将軍の地位にまで上った。 明治でも、同様の事が多く行われています。 >戦国時代は家系図は武士でもない人が結構いたみたいですが、これについても本当なのでしょうか? その通りです。 当時は、自らが勝手に「〇〇の守」と名乗る事も多かったのです。 戦国時代は、武家でも百姓でも「力・能力」があれば自由に身分を変える事が出来ました。 宮本武蔵も、一介の百姓でしたよね。 >うちは江戸時代、郷士ですが、親に実家に家系図自体ないと言われました どの地域の・藩の郷士か分かりませんが・・・。 多くの郷士は「家系図は無い」です。 例外的に、本家・総本家では家系図を持っている場合があります。 数年前の事ですが、多くの家系図は「明治期以降」に書かれた物が多いです。 お怒りを承知で言うと、明治期のドサクサでは「農地確保」の為に「自称郷士」が極端に増えています。 各藩でも、実際の郷士についての記録は曖昧ですからね。 ただ、「爵位を与えるので家系図を出せ!」との明治政府の命令で「各藩主」は家系図を提出しています。 この家系図と前の石高で、爵位が決まりました。 質問者さまの場合、先ず先祖の菩提寺で過去帳を見れば確認出来ますよ。
- ichikawa2017
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>江戸時代は幕府の命令で上級武士だけではなく百姓や郷士にも家系図(系図)を作るように言われてたらしいです 特別幕府から指示が出ていたということはありませんでした。 系譜、家譜などと呼ばれ婚姻や仕官など何かにつけて必用とされていただけです。 参考 系図 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/系図 抜粋 江戸時代においては家系図は現在の履歴書のようなもので、武士が仕官する際や、富裕な農民や商人が郷士になったり、苗字帯刀(苗字の公称、大刀と小刀を差すこと)を許される時など、家の由緒を示すものとして必要とされ、装飾的というよりもはるかに実用的な意味を持っていたことは否定出来ない。 しかし、ほとんどの家には家系図などはなく、そのため家系図が必要な場合は無から作らざるを得ないが、結果として、零落した名族、名門、名家の末裔の系図を買い取るか、同じ苗字の過去の名族との関係を創作して、先祖を名家や名族に結びつけた系図が数多く存在する。 江戸時代に家系を詐称しようとしたので有名なのが田沼意次親子でした。 田沼意次が失脚した直接の原因は息子の意知が殿中で佐藤善左衛門(政言)によって切りつけられたことだとされています。 佐藤善左衛門が刃傷に及んだ原因は、佐藤家が関ヶ原以来の名門であったことから田沼親子が佐藤善左衛門から系譜を借り受けて返さなかったことだったとされています。 逆に言うと田沼家は始祖も定ではないろくな系譜ではなかったということです。 >戦国時代は家系図は武士でもない人が結構いたみたいですが、これについても本当なのでしょうか? 事実です。 信長も家康も系譜を詐称していました。 信長自身は「平」を名乗っていましたが織田家は元々尾張の神主でした。 家康は当初藤原氏につらなる系譜としていましたが途中から源氏の系譜と言い換えていました。 これは武士という身分階級の発祥が源平と武力で伸し上がった人達との二種類あったことに由来します。 平安時代末期には農民階級の中で腕力の強い連中が荘園の用心棒を務めていましたが頼朝によって守護、地頭、として公的な身分を与えられたのが源平以外の武士階級の始まりです。 江戸時代の幕臣をはじめ大名の大半は源平以外の武士でした。 この中でも室町幕府にまで遡ることが出来る幕臣を高家として別格扱いにしていました。 有名なのが忠臣蔵の吉良義央です。 言い換えれば江戸時代には武士の始祖の大半が戦国時代以降の人物だったということです。 >おそらく明治時代初期に紛失したのかなと思います。 元々系図など持ち合わせていなかったのでしょう。 明治時代に新しい身分制度として士族が設けられましたが、その際に江戸時代には武士とされていなかった武家奉公人(卒)も士族とされました。 この結果本来の武士の末裔の人達や富裕層の間で家系図作りが大流行しました。 ネットをご覧になられると分かりますように現代でも家系図作りを請け負う業者が多数います。 特に昭和42年に明治時代の戸籍簿の閲覧が原則禁止になったこともありこの手の業者に依頼する人が絶えません。 閲覧が禁止されたのは、大日本帝国憲法下でつくられた戸籍簿には「新平民」という身分が明記されていることを問題視して反対運動が起きたためです。 戸籍に関する問題は取り扱い一つでトラブルに巻き込まれる恐れが多分にありますのでご注意願います。 蛇足 江戸時代には身分によって所轄する役所が違っていました。 系譜が定かではない浪人者は町人と同様に町奉行の管轄でした。 武士は目付の管轄でした。 町奉行所による詮索を拒否するには系譜を明らかにする必用がありました。 この為に〇〇国△△家浪人と名乗りました。 町奉行所の役人は△△家の了解を取り付ける必用がありました。 裁判沙汰に巻き込まれて奉行所の法廷である白州に出頭する際には武士であれば床の上に座ることができましたが、単なる浪人であれば町人同様に地べたに筵を敷いた上に座らせられました。 裁定が下されるまでの間に収監される牢屋敷でも武士であれば畳のある揚り屋に収監されました。 歌舞伎役者の場合は筵に座ることも足袋を履くことも認められませんでした。 役者は千両とっても乞食と言われたのはこのためです。
補足
江戸時代初期に、郷士身分になったので系図は必要だったのかなと思います
- nagata2017
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家系図(系図)を作るように言われてたらしいです」 そうかなあ 聞いたことないけど。 公的文書としては 人別帳 宗門改帳 武士なら分限帳 などがありましたけど 家系図のほうは 個人的に 本家筋が作成保存していたようです。 あと お寺の過去帳ですね。 昔は人の移動が少なかったので 本家にある家系図で足りていたけど 移動が自由にると 都会に出ていく人が増え そのまま定住して田舎に帰らなくなるし 大家族から 核家族になり どんどん家系図の意味がなくなっていった というか 昔は みんな同じ場所に住んで 本家 分家という関りがあったけど 日本中に散らばってしまっては まとめようがない。 というところではないでしょうか。
お礼
補足コメントにご回答いただきありがとうございます
補足
土浦藩領になったのは江戸中期からですね、江戸時代初期の頃は最初に天領数年間、あとは旗本知行地でしたね、うちのご先祖は佐竹の家臣かと思ってましたが 小田氏や結城氏の家臣それか領民であったかもしれません 小田氏は小田氏治の息子が関ヶ原で徳川について褒美に徳川から金の皿かなんかを貰ってますね 戦国時代の、うちのご先祖のはっきりとした家伝がないわけですから、戦国時代は誰に仕えてたか、はっきりと言い切れないです 因みに分家のほうも苗字を公文書で書くことを許可されてました、帯刀のほうは許可されてたかは分からないです 分家は村役人の組頭なんですが、本家であるうちのご先祖は何の役職かは分からないです