• ベストアンサー

正しく問え  ピカソの7つの助言

正しく問え 「他の人間はなぜそうなったかを問う。私はいつも何ができるのか、なぜできないのかを問う」 ピカソから7つの助言の一つですが、 この言葉の意味するところは、何なのでしょうか? その物事のプロセスを多くの人間は知りたがる。 でも、やるべきことは、自分自身が何をできるのか?できないとしたら、それはなぜか? これらを問うべき。それが正しい。 ということでしょうか? なんだか掴みきれないです。 分かりやすい解説や例えなどがあれば、知りたいです。 よろしくお願いいたします。

  • 美術
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2027/7573)
回答No.2

 ピカソ流に言えば、「他の人間はなぜ原発は事故を起こしたのかを問う。私は原発事故を起こさない為に何ができるのか、なぜ原発事故を止める事ができないのかを問う」となるでしょうね。  もちろん、答えは、「原発の安全対策を強化するか、原発を廃止するか。」となるでしょうね。原発事故を止められないのは、「あなた達が嘘吐きの電力会社を信じるからだ。嘘を繰り返して恥じない電力会社と戦って原発を止めようとしないからだ。」となるでしょうね。  欧米の反原発団体が実力行使に打って出ても、原発を止めようとするのは、ピカソのような現実的な考え方を持っている人が多いからでしょうし、日本の反原発団体が口先ばかりで無力なのは、ピカソとは逆の非現実的な考え方しか持たないからだという事になるでしょうね。

その他の回答 (1)

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.1

その物事のプロセス、ではないです。ものの見方です。 自分ができることできないことを認識せよという話です。 空は飛べるのか、飛べないのか。 道は走れるのか、走れないのか。 空が飛べないとしたらなぜか。 そう考えたら、空を飛ぶことができるものは何を持っているのか、鳥はどうか、蝶はどうか、綿毛はどうか。そういう思考になります。 そうしたら飛ぶために何が必要なのか。それを得られるのかどうか、と言うことになっていきます。 それが可能性を広げるんです。 飛行機というものが存在している。あれはこれこれの形で板金加工し、こういう組み方をして飛んでいる。そのためにはこういう航空力学があって・・・ この思考は可能性を狭めています。つまり既存の飛行機の真似をすると飛べるという方向だけに縮めてしまっているのです。その他の方法があると考えることをやめてしまう。 自分ができるか、と考えていたら、羽ばたくこと、旗をもって滑ること、頭を壊さないようにヘルメットをつくること、というようないろいろなことを考えそれらはいろいろな可能性に向かって開くんです。 ピカソは政治的な興味はなかったと思いますけど、どうすれば格差がなくなるだろうか、とかそういうことを、自分だったらどういうことで貢献できるかと考えると解決のヒントはいくつも見えてきます。 それを「安倍が悪い」と結果論だけで言うようだったら社会は悪化するだけです。起きてしまったことは事実なんだからとやかく言っても仕方がない。これからどうするか、というのは「自分が何をできるか」「自分はなにができないか」「できない原因はなんだ」と考え続ける人間が考え、いい方向に向かわせることができるんです。

関連するQ&A

  • ピカソって、色彩感覚がスゴくないですか?

    ピカソって、色彩感覚がすごくないですか? ピカソの解説を本などでいくつか読んだことがありますが、色彩感覚がどうこう~という解説は見たことない気がします。 もちろん有名画家なんで色使いがうまいのは当たり前だろ、と言われるかもしれませんが、もっと前の時代の宮廷画家さんとか印象派の画家さんの色使いがスゴい、というのとは全く別の意味で、色と色の組合せ自体をスゴイと思わせる仕掛けのようなものがピカソの絵には組み込んであるように思えてならないのです。ウォーホルの色使いがスゴい、というのに近い、やはりいかにも現代アート、ということかもしれません。 以前、国立西洋美術館のモネ展を見ましたが、モネの絵に混じってピカソの絵が1点だけあって、祈る聖母みたいなやつでした。全体がほぼ真っ青なのに、聖母が顔にかざしている、1輪の花だけが鮮やかな赤なのです。そのバランスが絶妙すぎて、しばらく立ちつくしてしまいました。 ブリジストン美術館というところにも座る少年像、みたいな絵があるのですが、これも言葉で表現しづらいのですが…もう色彩のバランスが凄すぎて、しばらく目が離せないのです。色のバランス、線と線のバランス、全ての組み合わせが絶妙すぎるんです。 そういう意味では…さっきもちょっと書きましたが…それまでの画家さんとは違ってセンセーショナルな技法というか、ある意味人の注意を引く技術に長けた広告デザイナーのような、そういうセンスの持ち主だったのではないでしょうか? その辺、美術界ではピカソはどのように評されているのでしょうか?

  • 「そんくらい誰にでもあるよ」という助言(?)

    人生相談の場において、何かしらの悩みを抱えている人に対して、「そんくらい誰にでもあることだから、自分だけが不幸だと思わなくてもいいよ!」といった言葉を時折見かけます。 こういう言葉って、助言をする側にとっては相手の気持ちを楽にしようという意図により出るものなのでしょうが、あまり良い発言ではないのではないかと個人的に思うんですよね。 相手の悩みを軽視しているというか、相手の立場から物を十分見られてないというか、どこか失礼な気がしてしまいます。 傍から見れば「世の中にはもっと辛い境遇に逢っている人もいるのに、アンタはそういうのに比べればマシやん」という話でしょうけど、少なくとも本人は「そんなこと言われてもねえ」という感じでしょう。暴力なり犯罪なり貧困なりに比べれば他の悩みなんてカスみたいなものだ!という姿勢はあまり良くないと思われます。基準があまりにも低すぎるとも言えるでしょう。 このような助言(?)に関しては皆さんはどうお思いですか?相手への配慮に欠ける言葉でしょうか?それとも、相手の気持ちを和らげるのに有効でしょうか?

  • 座右の銘、または好きな言葉は?

    皆様の座右の銘、または好きな言葉を教えてください! また、意味や、何故それを座右の銘(好きな言葉)に したのかを書いてくださるとありがたいです(^^) 私は優柔不断なので「一刀両断」(物事をきっぱりと決断するたとえ)を 自分の目指す理想、座右の銘としています。

  • とても苦しくて・・・、皆さまからの助言を頂きたくて。

    とても苦しくて・・・、皆さまからの助言を頂きたくて。 自分(27歳)は半月以上前に職場の後輩(女性:26歳。彼氏持ちですが、月に2回ぐらいしか会わないようです)に告白しました。その後輩は自分の部下で告白するまでに何度も二人で飲みに行ったり、ご飯を食べに行ったりしていました。後輩としては断りづらいかもしれないかったですが、会話は後輩のほうがよく話したいたかと思います。メール等はいつも自分からしています。来たことは仕事の内容がほとんどです。 告白後、メールで『混乱してます。また話がしたいです。汗の絵文字』をもらいました。それから半月後、またメールで『ちゃんと話をしたいです。汗』をもらいました。 自分自身、難しいと思って。好きになりすぎて、、。 皆さま、お忙しいかと思いますが。このような状態ってどうでしょうか?

  • 恋愛について助言下さい(長文です)

    現在付き合って1年の彼氏がいます。 ですがその彼には別の彼女がいます。 しかも私の知人。 元々彼とは体の関係から始まり、別の方はその時に既に付き合っていました。 最初は知らず、後から知りましたが、その時には彼への恋愛感情があり、自分が浮気相手と知りながら付き合う事になってしまいました。 彼自身も「私の方が好き。でなければ付き合っているのに他に手は出さない」と言います。 ですがこんな関係で1年が過ぎてしまいました。 私が彼を信じられず嫉妬すると「面倒」という言葉を言われてしまい、別れ話になるとそれすらも、「面倒。どうでもいいから側にいろ」といいます。 私が「どっちか決めてくれないなら一生変わらない、ずっと面倒な女のままだ」と言うとまた怒られます。 結局両方と別れる気がないみたいです。 こんな関係に自分からしたのは反省しています。 全部自分のせいです。 ですが一回好きになってしまった相手をどうしても嫌いになれず別れることが出来ません。 相手の女性も人として大切な方です。 私を選んでも彼女を傷つけることになるのは変わらないので心苦しい。 私が別れればそれが一番いいとはわかっています。 ですが彼の「お前いないと駄目なんだ、向こうはもう友達みたいなものだし」と言う言葉に勝てずダラダラときてしまいました。 最近は彼を愛してるからこそ、相手への嫉妬や彼への不信感で苦しいです。 彼は体目当てで私を側においているのか、どちらにも恋愛感情がないのかもわかりません。 自分が悪いのも、自分が身を引けばいいのもわかっています。 でも彼の言葉を信じたい自分がいます。 どなたか助言いただけたら幸いです。

  • 話しが続かなくてつまらない人間です。。。

    私は現在学生なのですが、友達、先輩、社会人の方とうまく話しが続きません。いつもうなずいてばっかで周りからは「話をしっかり聴くことのできる子」だと思われているようですが、私としてはうなずくことしかできないのです。冗談の一つでも言って相手と仲良くなりたいといつも思っているのですが毎回返す言葉は”そうなんですかー”とか”すごいですね!”などのなんの面白みもない返答です。。。こんなの相手からしてみれば言葉のキャッチボールのできないつまらない人間にしか思われませんよね。常に物事にたいして考えるということを意識しようと努力しているのですが、実際会話となると何も考えが浮かばず、自分の意見がないというか人に対して心を開いていないというか。。来年は就職活動も待っています。こんな人間どの企業も採用してくれません。何とかして新しい自分に変わりたいのですがその方法がわかりません。多くの方のアドバイスを頂ければと思います。

  • 厳しいくても構いません。助言をお願いします。

    30代男性です。 恋人がいません。 今までいたこともありません。 恋愛経験も殆ど、あるいは全くありません。 デートしたこともありません。性経験もありません。 それでも、私は恋人が欲しい。 結婚もしたいし家族も欲しい。 幸せが欲しい。 恋人のいる人を羨んで、ひがんで、おかしな理由をつけ見下して10年余。 このままでは絶対に幸せになれないと、ようやく気付きました。 自分自身を本気で見直した結果、問題は自分の中にあり、それは ルックスでも学歴でも病歴でも運の悪さでもなく、 私の性格あるいは物事の捉え方にあるとの結論に至りました。 今、気がつく限りの欠点を片端から改めている最中です。 相当の時間がかかりそうです。 正直に言って、私の精神年齢は15歳程度です。 今年に入ってようやく反抗期を迎えました。 きちんとした初恋は、まだのようです。 恋人が欲しいと言いつつも、どんな人が好みなのか、どんなお付き合いをしたいのか、 さっぱり見えていません。 精神年齢と実年齢の差が、苦しいです。 それが自分と本気で向き合わずに生きてきた報いだと分かっていても。 同年代の人たちが恋をして、失恋して、出会って、別れて、結婚して、家庭を築き始めたのに。 私だってそういう年齢なのに。 体が少しずつ老いすら見せ始めたのに。 私は、幼い。 10年、ともすれば20年出遅れました。 それでも、私は恋人が欲しい。 結婚もしたいし家族も欲しい。 幸せが欲しい。 いろいろな幸せのカタチがあると思う。 無理に幸せを求める必然性も無いとも思う。 それでも、このカタチの幸せが欲しい。 20代で結婚、家族を持って、30代で家を建てて。 むかし無責任に描いて、既に実現不可能のそれに出来るだけ近い幸せが。 無理に近いことを言っているのは分かっています。 だから、どんな努力も惜しまない覚悟です。 厳しくても構いません。どんなことでも構いません。どうか助言をお願いします。 「でも」「しかし」は絶対に使いません。

  • プライドとは

    プライドという言葉は、人によって意見が違ってくると思いますが、ここでは「自尊心」という意味に定義します。 例えば、 「彼はプライドが高く仕事はちゃんとこなし優秀な人材だ。」 という言葉があったとします。 プライドは、自分自身の人生を向上させるものにもなりますが、逆にひとつの物事に執着して他人の意見を聞かないことや、人によっては自分よりも下の人間を見下したりもします。しかし、プライドを持たない人間は張り合いが無く自分自信の人生に対する向上心を無くしてしまう事にもなりかねません。 ここで質問です。 人生においてプライドを持つべきなのか?それとも、待たないべきなのか? 意見をお願いします。

  • 何か少しでも助言をいただけないでしょうか?

     相談なのですが、私は普通の人のように、話す、聞くこと、読むこと、記憶することなどにかなり障害があります。集中力、注意力も驚くほど、全くありません。病気の症状で調べてみると、ADDとか高次脳機能障害などが似ています。いつも常に頭が真っ白な状態です。  例えば、人に自分の意思を伝えようとしても、言葉が出てきません。自分が何か言葉を発する時も、何を言っているのかあまりわかりません。当然相手の言っていることは理解できないことが多いです。普段は、テレビや新聞を見ても、何を書いているのか、言っているのかあまりわかりません。断片的に浮かぶことをそのままするので、いつも行き当たりばったりの行動をしてしまいます。精神科に行っていたのですが、強迫性障害と診断されていました。まず、全くなんの仕事もできません。  この原因は小学生の頃からかなと思います。僕は小学校の頃から口臭がないのにあると思う、心因性自臭症でした。その時くらいから、人が自分の近くにいるときは、常に人に口臭がばれていないか注意し、神経をすり減らし、全く違うことを考えるようにしていました。  中学の頃から特に集中力、注意力が切れてくるのが判りました。今までずっと、そういう風に集中しない癖をつけたんだと思います。そして、息を吐かないように努力するため、常に一回一回自分の限界まで呼吸を我慢しました(これはあまりにまずいので5年くらい前に辞めました)。例えば黒板を見るときは、息を吸っているときに限定し、それ以外は伏せていました。勉強したくてもできない状態でした。でもこのころはボーッとしているのはわかりましたが、テストを解いたりする、最低限の集中はありました。このときくらいから、変な自己暗示をかけるようになりました。  高校の頃から、強迫神経症のような症状やおかしな症状が出てくるようになりました。急激に変わり、さらに拍車がかかったのは、高3のときです。このときは今度集中力をなくす努力をかなりしました。ある時、例えば国語の文章題を解いているとすると、文章を読んでいる時、心の中で「隣の人は自分の口臭を気にしているのではないか?逐一、確認しなければ。集中してはだめだ。」と常に意識するようにしていて、集中していても、すぐ違うことに意識を移すようにし、わざと集中力を切らすように努力していました。また、人と会話する時、電車に乗る時、何かする時はいつもそのように努めていました。事実、「これは絶対病気になるな」と思っていました。当時は半ば、それを強制的にやっているようでした。そしてそれらを毎日、四六時中繰り返していました。いつの間にか、反射的にそうなるようになっていきました。このときくらいから、急激に、何をするにおいても全く集中力、注意力がなくなり、すべての自分自身がすること、考えることにおいて、拒否する方向、失敗するようにマイナスの方にもっていくようになりました。つまり変な自己暗示をかけるのが酷くなりました。全く何もできない状態になりました。人とのコミュニケーション能力が、全くなくなりました。 このような原因がなんとなくイメージできるようになったのも、うっすらつい最近です。要は何かがきっかけで、客観的に考えるようになったからだと思います。今までよりも少し視野が広くなったからだと思います。  たぶん、自分自身が思うには、集中力、注意力が全くないのは明らかなので、それを取り戻す訓練をしなければならないのでしょうか?  どうでしょう?

  • 物事に対する受け止め方、考え方

    物事の思考についてですが 例えで、何か失敗した経験が起こって、自分を情けないと思う人と 何も思わない人がいるかと思われますが。 この違いは 遺伝ですか? 悲観的から楽観的人間にかわることは はっきりいって とても難しいです。実際カウンセラーの方が 先ほどの例えでいうなら 情けないと感じているほうに対して「自分は情けない」それでもいいと思えるようになることが目的だとおっしゃっていましたが。 悲観的でもいいと思えればよいということですか? 楽観的な人の方が 得ですよね 問題は解決されなくてもどう考えるかが自分を救うこと、なんでしょうか