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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人々の移住・移動)

人々の移住・移動

このQ&Aのポイント
  • 日本国内においても古今、多くの人は住み慣れた土地を離れて別天地に移住・移動したのでしょう。
  • 江戸期、幕末などでは主にどういう人たちがどういう所からどういう所へと移住していく傾向があったでしょうか?
  • 江戸期、幕末などにおいての移住のことですが、太平洋の海岸や海浜伝いでの移動が多かったのか、母方の先祖が広島から移住してきたが、具体的な地域は不明です。

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回答No.1

世の中がこうだったからご先祖様が移住してきた、とお考えになられるのは些か無理があります。 ご先祖様にはご先祖様なりの理由があったとお考えになられる方が自然です。 ご先祖様が何等かの形でご商売をされていたのであれば新しい土地でご商売をされるというのは江戸時代であれ明治であれ現代であれ理由は左程違いません。 江戸時代には暖簾分けという形態で店を増やしていくというやり方取られました。 店主に男の子が複数いた場合店を引き継いた男の子以外に別に新たに店を持たせるケース。 使用人の中に優秀な使用人がいた場合は新たに店を設けさせて独立させるケース。 などいろいろなケースがありました。 現在の鳥羽地方は景勝地ですが江戸時代には上方と江戸を往復する商船の重要な港町として繁栄していました。 明治に入ると近代的な造船所がつくられ全国から多くの労働者を集めた都市でした。 広島におられたご先祖様が独立するのに当たって同業者の多い京都、大阪よりも鳥羽を選ばれた可能性が一番考えられます。 蛇足 江戸時代には農耕や漁労に携わる百姓階級の人で家業を引き継ぐことができなかった人は都市へ出て下働きとして働いていました。 町人階級の人達は7歳を過ぎると奉公という形で大店に勤務して仕事を覚えました。 奉公する大店は居住地に限りませんでした。 言い換えれば百姓、町人階級の人々は頻繁に移住していたということです。 江戸時には自分の意志だけでは移住出来なかったのは大名に仕える家臣でした。 譜代大名の場合は幕府の意向一つで領国が変更されました。 家臣は自分の意志に関わらず見ず知らずの土地へ移住することになりました。 大名は江戸に屋敷を持つことが義務付けられていてこの江戸屋敷と領国の間を1年毎に往復していました。 更に徴収した年貢米を現金化するために大阪に蔵屋敷を持っていました。 大名の家臣は大名の意向一つで領国、江戸屋敷、蔵屋敷に勤務させられそれに伴って移住していました。 その他に年貢の徴収が厳しいと国境周辺の農民は一斉に村を捨てて隣国へ逃げ込む逃散という抗議行動を取ることがありました。 逃げ込まれた隣国は労働力が増えますので歓迎していました。 中には報奨金を出す大名もいました。 参考 逃げる百姓、追う大名 江戸の農民獲得合戦 - honto電子書籍ストア honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27820-120488573-001-001.html 江戸時代は人の移住が少ないという印象がありますが一般論で言えば上記のように決して少ない時代ではありませんでした。 更に旅行が盛んな時代でした。 伊勢参りという習慣があり1日平均500人~600人程度の人が伊勢に向かいました。60年周期で爆発的に流行していて最大1日23万人ということもありました。 奥州出羽の鶴岡から京都、大阪、江戸を経由して旅をした豪商の奥さんもいました。 幕末に日本へ来た外国人は街道を往来する旅人が多いことに驚いていました。 ご質問のご先祖様も広島に居ながら鳥羽に関する情報は充分持っていたと考えられます。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございます。 95で13年前に亡くなった母が広島の○○から来たのだといっていました。 軽く聞き流したことを今は悔しく思っています。 和菓子屋は徒弟奉公をして開業したのでしょう。 母の父は青木與藏といいました。 三重県志摩郡鳥羽町二千五十六番地。次男が養子をとってついでいましが、火事を出してなくなりました。 子どもたちやその子どもたちも関心もなく、ちんぷんかんぷんでした。 出身地についてこの辺かなという曖昧でも、判ると嬉しいです。 後は足を頼りに歩くだけです。 又何かつけ加えることがございましたらどうかよろしくお願い申し上げます。

krya1998
質問者

補足

父の方のことは水戸藩士で今も家があり、皆さんと行き来していますから分かっているのですが。

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