• ベストアンサー

関ヶ原の合戦。敵・味方の判別。

Why-J-peopleの回答

回答No.6

既に出揃っている御様子なので重複しますが、 「東照宮御實紀附錄卷十」によれば、 (「落穂集」の真偽を問われても困りますが…) 合詞は「山は山、麓は麓」、 合印は「総軍の左の肩に角取紙」。 〇「東照宮御實紀附錄卷十」 『徳川實紀 第壹編/經濟雜誌社/1904.2.20』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/120 <120/520>(223頁上段10-13行目) 戰の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か麓か山かといふを。 山は山麓は麓といふべしと仰出され。又總軍の左の肩に角取紙を付られ。 味方打なき様にすべしと命ぜられしとぞ。(落穂集。) あとは、小ネタです。 〇「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 -なぜ大谷吉継だけが戦死したのか-/白峰旬」 『史学論叢 No.46(2016.03)/別府大学史学研究会』(151-163頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04610 <2-3/13>(152頁最終行-153頁13行目) ■某覚書 No.1340(643頁) …島津義弘の御意として「敗軍の軍勢がこの方の備に崩れかかったならば、 味方の軍勢であっても打ち捨てるべし」とのことだったので、各自が兜を傾け、 鑓を膝に乗せていたため、(こちらに来ずに)この陣(島津義弘の陣)と池との間 に逃げていった。… 〇「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載  についての考察(その2)  ─関ヶ原の戦いに至る政治的状況と関ヶ原の戦い当日の実戦の状況─/  白峰旬」 『史学論叢 No.45(2015.03)/別府大学史学研究会』(55-73頁) http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04510 <8-9/19>(62-63頁) 〔史料12〕(I─3、335-336頁) 明石掃部は…。…彼はこの決意をもって徒歩のまま一心不乱に戦っていた時、 内府様側についていた己が友人の甲斐守(引用者注:黒田長政)に出会った。 彼(引用者注:明石掃部)は着ていた衣服と武具によって、ただちに見分けられ、 友人としての挨拶を受け、生命のことは構わずに勇気を振るうよう鼓舞された。 …そして(甲斐守)は馬から下りると、明石掃部がそれを使うことを望み自分は 従臣の馬に乗った。… 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、家康率いる東軍では、合詞と合印があったのですね。 よく考えてみれば、あって当たり前で、当時の戦では常識だったのかもしれません。 そうであれば西軍にもあったはずと思います。 何万という兵全員に「左の肩に角取紙」を付けたというのは、手っ取り早い方法で、むべなるかなの感じです。 「紙」だからすぐ剥がれますね。 戦う前の陣営に、よそ者を紛れ込ませぬ工夫だった気がします。 手元の合戦図では、角取紙を付けた兵が見当たりません。 関ヶ原以外の合戦図を調べてみます。 やはり、本命は合詞ですね。 夜間でも物陰でも使えますから。 御蔭さまで納得できました。

関連するQ&A

  • 関ヶ原の戦い

    石田三成は豊臣秀吉の権力を笠に着て威張る嫌な奴で敵が多いため、気に入らなかった武将が関ヶ原の戦いで豊臣秀吉の配下の武将にかかわらず徳川家康の味方についたため敗北したのですか?

  • 関ヶ原の寝返り

    関ヶ原では小早川が寝返りしましたが、石田三成はじめ、豊臣もふくめて全武将が寝返り、徳川につけばどうなりましたか?

  • 関ヶ原の戦いで

    関ヶ原の戦いで加藤清正や福島正則みたいに石田三成が嫌いで東軍についた人もいますが他に東軍に味方した人は豊臣家を裏切った人達ですか? 徳川家康が勝った結果、豊臣秀頼は知行や領地が減らされたし…

  • 歴史人物について(アンケートです)

    (1)あなたの好きな(または尊敬する)歴史上の人物は誰ですか? (何名でも) (2)あなたが戦国武将だとします。徳川方vs豊臣方、どちらに味方しますか? A:徳川方 B:豊臣方 (3)一緒に『お酒を飲み交わしたい』『お茶や食事を楽しみたい』歴史上の人物はいますか? (一名だけ)

  • 真田昌幸の秘策?実行されていたら…

    紀州九度山で 昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策についてです 秀頼から兵を借り 青野ヶ原へ布陣 そこは何もないただの平原で何故真田はこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思い 物見などを出してこちらの様子を伺うはず(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼げる 真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば 豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる そうなると徳川方に猜疑心が生まれ 混乱が起きる そこを一気に攻め立てる という「青野ヶ原の策」です 歴史にもしもはありませんが仮にこの策が実行されていたら豊臣の勝利の可能性はあったでしょうか?

  • 戦国無双2でのレベル4の武器

    を現在探しているんですが、いろいろなHPに載っているので、結構手に入れることができました。 でも、『島左近』や『伊達政宗』の「味方武将全員生存&敵ボス(徳川)以外の武将を全員倒す。」をしたのに、出てきてくれません。 こうなんじゃないか?というのもいいので、回答よろしくお願いします。

  • 自民党=前田利家説

    自民党=前田利家 特捜部=石田三成 小沢民主党=徳川家康 以上のように設定すると 豊臣政権の五大老次席の前田利家が亡くなることにより、それまでのパワーバランスが崩れ、その空白を埋めるために石田三成を筆頭とする奉行衆が表に出て五大老筆頭の徳川家康と均衡しようとした状況と現在の政治状況が重なって見えます。 この見立てが正しいならば、現在の政治的混乱を収束するには自民党の再建が必須ということになります。 こういう妄想はOKでしょうか?

  • 福島正則の心境と家康の謀略

    福島正則と家康について2つ質問があります。 (1) 福島正則は熱心な豊臣方の武将として知られていますが 彼は何故、大阪夏の陣以降も徳川家康に従おうとしたのでしょうか?? 元々、関ヶ原の戦いでは「豊臣の為に」という理由で家康側に ついた事を考えると大阪の陣では豊臣方に着くのが筋だと思うのですが 彼は何故、両付かずの姿勢をとったのでしょうか?? やはり家康の恩義に心を奪われたのでしょうか?? (2) 家康の謀略といえば例えば 関ヶ原の裏工作や政略結婚、「豊臣の為」と銘打ち福島正則、 加藤清正などを味方につけた謀略などが挙げられますが、これらの 謀略は家康が発案したものなのでしょうか?? あるいは天海などの参謀が発案したものもあるのでしょうか?? 色々質問してしまいましたが宜しくお願い致します。

  • 前田利長は何にびびったのか?

    豊臣家にとって頼みの綱だった前田家 しかし利家の死後長男利長は家康に 加賀を征伐してくれるわ!と脅されたとたんに母の芳春院を人質に差し出して降伏 前田利家の息子にしてはあまりにも情けないと思いませんか? 前田があの時点で徳川に屈することなく豊臣恭順を貫いて戦っていたら 隣国越後の上杉は味方だったわけだし かなり有利に戦えたと思うのですが? 利長は情けない男だったのでしょうか? 利家は死ぬ間際に「兵を半分に分け 国元に利長 大阪に利政をおいて秀頼を守護し何があっても秀頼公を守って戦え」と遺言しています 毛利元就は嫡孫の輝元に「天下を狙わず毛利の家を残せ」と言いました しかし利家は「戦え」と言ったのです にもかかわらず… あぁ 情けない

  • 加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

    石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。 関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。 こんな疑問が浮かんだのは理由があります。 今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。 しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に 「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」 と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。 ●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。