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関ヶ原の合戦。敵・味方の判別。

eroero4649の回答

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  • eroero4649
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回答No.1

現代の軍隊も国旗を掲げてどこの国の軍隊なのか明らかにしています。そうじゃないとみんな同じような迷彩服だから敵味方の判別が困難です。 戦国時代は家紋というやつがありますから、その家紋やトレードマークの旗を掲げて自分たちはどこの軍勢であるということを明らかにしたのです。風林火山の旗とかご存知でしょ?あの旗を見れば、現代の我々もあれは武田軍だと分かるわけです。 それに当時の軍隊は集団戦法ですから、味方はみんな塊になっています。そこから勝手に離れたらそりゃ逃亡兵あるいは敵兵だと思われて殺されることもありますから、むしろ味方のそばから離れないのがよろしいとなります。 足軽のような雑兵だと元々バイト感覚で兵隊をやっているので、なんか強そうな武将がやってきたら当然逃げますし、どうも味方が負けそうだとなるとこれまた可及的速やかに逃げ始めます。 兵士それぞれが逃げないで一生懸命戦うようになるのは、ナショナリズム(民族主義)という感覚が出てくるフランス革命(厳密にはアメリカ独立戦争)以降となります。それまでは兵隊は集めて塊にしておかないとみんなすぐ逃げ出しちゃうのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、塊にして戦わせる、集団戦法ですか。 そんな視点で合戦図を見てみます。

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