• 締切済み

大名や将軍や王様に友達っていましたか?

昔の誰より偉い人。例えば将軍や大名や王様に友達っていましたか? 友達って対等の関係のことをいいますよね。家来のことはいくら親しくても友達ではないですよね。 それなら源頼朝や武田信玄や織田信長といった頂点に立つ人間に友達あるいはそれに近い存在がいたか記録に残っていますか?それともこの人たちは友達が一人もいない人たちでしたか?

  • 歴史
  • 回答数7
  • ありがとう数0

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.7

イスラム系で多い話ですが、王様の友達として信頼を得るケースが多い立場として医者が居ます。 王といえど一人の人間、たまには腹を割って話したい相手がほしいでしょう。 そういう場合の話相手としてふさわしいのは、まったく権力争いの相手になりえない、権力から一番遠い存在です。 日本ではおそらく、僧がその立場になりやすいのではないでしょうか? 多くの戦国武将がブレーンとして僧を近くにおいていますが、中にはただのブレーンに留まらず友情や信頼で結ばれたケースもあるのではと想像します。 その他茶人、歌人、あるいは武道の仲間・師匠など、職務外の人とは友情を紡ぐ場もあるのではと思います。

回答No.6

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>・・・友達っていましたか? まあ、「いた」と言えば「いた」、「いない」と言えば「いない」。 とりあえずは、時代区分によりみていきましょう。 ★平安時代 日本のトップは、言うまでもなく「天皇」。 はっきり言って、「お友達は誰もいませんでした」。 皆さんが「乳兄弟」等を仰せですが、どこまでを「お友達」と定義付けるかにもよりますが、私は、あくまでも「主従関係」にしか過ぎないと考えます。 とは言っても、天皇の権威を守るために「信頼関係」で結ばれる(お友達になる)例もありました。 例えば、後白河天皇と平清盛などが良い例でしょう。 天皇には基本的には「軍隊」がない。御所を守る「兵」(親衛隊)と呼ばれる者たちも特別な軍事訓練を受けてはいない。天皇が「乱」を起こしたり、鎮圧する場合は、全て豪族たちに「勅書」を出して寄せ集めの「連合軍」でしかない。 それを考えると、後白河天皇は「源氏」を破り一応は天下の武門のトップとなった「平清盛」を取り込みました。天皇家を守るためにも、また、自らの天皇としての地位を守るためにも、「形式上」は「お友達」になる必要があったのではないでしょうか。 ★戦国時代 一番良く知られているのは、「浅井長政」と「朝倉義景」なども良い例かも知れません。 ご存じかとは思いますが、浅井長政は一旦織田信長と同盟を結び、信長の妹「お市の方」を妻とし3人の娘(茶々、初、江)をもうけましたが、信長が朝倉氏討伐に挙兵したのを受けて、お市の方と3人の娘を信長に帰して「朝倉家」に味方をしました。 これなども、ある程度の利害関係はあったとは思いますが、「浅井家」と「朝倉家」が盟友(お友達)だったからではないでしょうか。 また、「武田信玄」と「上杉謙信」なども一例かも知れませんね。 川中島の戦いを何度も引き起こしてはいますが、謙信が信玄に「塩」を送った話は有名ですよね。 信玄も死に際して、息子の勝頼に残した言葉は「何かあったら謙信に相談せよ」と、敵対をしながらも相手を重んじる、まあ、「お友達関係」だったのかも知れませんね。 「徳川家康」と「茶屋四郎次郎」 茶屋四郎次郎は堺の商人で武士ではありませんでしたから、まあ、主従関係はなかったとみても良いでしょう。 織田信長と家康が同盟を結んだのを期に、家康は信長の招待で堺遊覧中に信長が討たれたことを耳にしました。それにより、明智光秀が自分(家康)をも討つ可能性を恐れて、「お友達」となった茶屋四郎次郎の膨大な資金力を借りて「伊賀越え」をして三河に帰城することができました。 その後、家康の天下となり、さらには、将軍職を秀忠に譲り駿府に隠居をすると、茶屋四郎次郎は貿易、経済面に関しての、一応は家康の「顧問」となり「朱印船」により東南アジアとの交易を許され、財政面で家康と江戸の秀忠を支えました。 「豊臣秀吉」と「千利休」。 千利休も武士ではなく堺の一商人。当然、武士としての主従関係はありません。 秀吉は「茶の湯」をこよなく愛し、黄金の茶室を造ったりし、自らが「亭主」となって茶会を開く際は、必ずと言って良いほど利休を「師」と呼び、秀吉の後ろに控えさせ、茶会が終わってからは、「どこか間違いはなかったか?」「何か工夫をすれば良かったか?」などと意見を求めていました。最後は利休に切腹を命じてはいますが・・・。 ★江戸時代 通称「寛永令」と呼ばれる「武家諸法度」、 一、 新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。 (謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。) 一、 国主、城主、一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事。 (藩主、城主、所領一万石以上、近習(将軍の側近の武士)、物頭(常備の隊長)は、幕府の許可無く勝手に結婚してはならない。) など19ヶ条が発布され、 要は、たとえ大名といえども、勝手に他藩の大名家と婚姻関係により親戚となって、結託して謀反を起こしてはならない。 一万石以上の大名は婚姻関係を結ぶ際は幕府に届け出をして許可を得ること。 なお、参勤交代などでは、当然、他藩の領地を通過するわけですが、そうした際も「親戚」もあれば「お友達」もいました。 しかし、幕府では監視の目を光らせ、たとえ親戚やお友達だからと言っても一切大名同士が会うことを禁止していました。 大名が他藩を通過する際は、「○月○日頃に貴殿の領地を通過しますので、よろしく」と道中奉行や使いの者が通過する藩へ申し出るだけでした。 さらには、江戸においても、むやみに文通をしたり、お互いの家を訪問したりしてはならず、どうしても大名同士が、例えば、幕府から許可の下りた婚礼についての話し合いなどをしたい折は、旗本に同席をしてもらい「謀反の企てではありませんよ」と身の潔白を証明しました。 城内に出仕しても「親戚だから」「お友達だから」に関係なく、立ち話さえ許されず、自分の詰所で、帰城の時間までただボケッとして座ったままでいました。 従って、江戸時代では「お友達関係」は公には「わからない」と言わざるを得ないかも知れませんね。

回答No.5

源頼朝氏の,信頼出来る友達というか,幼馴染み的な人間というと,源頼朝氏が,伊豆に流罪に遭った時も,京の都の情勢を,源頼朝氏に伝え続けたという,源頼朝氏の乳母子の一人の,三善康信氏などでしょうか‥‥‥三善氏は,当時の京の都の下級貴族..源頼朝氏には,寒河尼など,四人の乳母が居たなどとされ,いわゆる,お坊っちゃまでしたから,母親も,当時の藤原南家の中・下級貴族の娘,由良姫,父親の源義朝氏の一番の友達は,多分,一緒に亡くなった,乳母子の鎌田正清(政清,政家,正家)氏などだと思いますが,当時の侍(武士)達などは,こういった,主従の絆などで,しっかりと結ばれていたように思います..武田信玄氏も,いわゆる,甲斐武田氏の嫡男ですから,乳母や乳母夫,乳母子なども,周りに居たように思いますが,やはり,戦国時代などは,いわゆる衆道関係などで,家臣と固い絆で結ばれている場合なども,多かったと思います..有名なのは,織田信長氏と前田利家氏,森欄丸氏など..織田信長氏は,自身の守役などの,平手氏の忠義が,有名ですよね‥‥‥豊臣秀吉氏は,弟の羽柴(豊臣)秀長氏や,奥さんの寧々さん(北政所),蜂須賀小六氏,前田利家氏など,家族や妻との絆や,友人などは,多かった気がします..王様にも,いわゆるご学友やら,いらっしゃると思いますし,日本の天皇陛下にも,ご学友とか,いらっしゃいますよね..

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.4

 #1です。補足です。 >>昔の誰より偉い人。例えば将軍や大名や王様に友達っていましたか?  いないでしょう。  その裏には偉くなると、等位の者を、置かないようにする動機があるからでしょう。歴史は同系で近い者を排除する例が、少なくありません。例えば。  15世紀の日本の南北朝、16世紀の南米の南都クスコの兄に挑んだ北都キトの異母弟、朝鮮半島からマレー半島に刺客を送って兄を殺した指導者などがあります。  http://www.y-history.net/appendix/wh0204-010.html  将軍でも、全国に指名手配して、弟を追い、能の『安宅』や歌舞伎の『勧進帳』を産んだのでも今に残っています。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10491/32991)
回答No.3

そもそもそういう立場で育っている人たちは、置かれていた環境が我々しもじもの者とは全く違うので、我々の価値観で判断することが不可能です。 例えば今の皇室の皆さんはほぼ四六時中お付きの人たちがついていますよね。本当のことかどうかまで知りませんが、寝所にも万が一のことがあってはいけないからお付きの人がいるのだとか。つまりお付きの人がいるところで子作りもしなきゃいけないという我々には耐えられそうにない世界です。 しかし価値観は人それぞれで、そういう環境に育っていればそれに違和感は感じないでしょう。私は昔、サイパン島でホームステイをしたことがあったのですが、当時の古い島民の家というのは昔の大家族主義の名残で、一番大きなリビングルームがベッドルームで、そこに全員のベッドが置いてあったそうです。私がステイした家はそういう家ではなかったのですが、そういう家にステイした子によると、彼らの割り当てられたベッドの隣は若夫婦のベッドだったそうで、若夫婦だから毎日夜になるとおっぱじまって寝られなかったそうです・笑。それを若夫婦も他の家族も全く気にしてなかったそうですよ。 江戸時代の後期、秋田佐竹藩で洋風絵画の文化が花開きました。後世これを秋田蘭画というのですけれど、その中心人物は、藩主である佐竹曙山とその家臣である小田野直武でした。曙山と直武は直接の君主と家臣という間柄ですからいってみれば会社の社長と社員の関係ですが、一説によるとお供の目が薄れる江戸市内ではお忍びで二人で写生に出かけることがあり、そのときに二人は肩を並べて座って写生をしたという話もあります。まさにハマちゃんとスーさんですね。ただしこの話は創作だという説もあります。 ところで武田信玄には、有名な話ですが家臣でもある高坂弾正に充てたラブレターが残っています。その内容は「僕は浮気なんかしてないよ。確かに彼を口説いちゃったけど、断られたんだよ。ほんとだよ。信じてよ。僕が考えているのは君のことだけだよ。このことは富士山、八幡様、諏訪大明神に誓って本当です」というものです。 これが友情なのか愛情なのかのご判断はお任せします。

回答No.2

平安時代~鎌倉時代ならば友達というか家来部下よりも深い関係の人物ならばいました。 それは乳兄弟です。 乳母の子供ですね。 頼朝には流刑先まで同行した男の乳兄弟は居なかったようですが、比企尼の娘婿等とは仲が良かったようです。が、一部は後に仲違いを・・・。 また同母の妹(姉説有り)の婿、一条能保とも弟たち以上に仲が良かったそうです。 あと、愚管抄の著者である慈円とも文通友達で、「一緒に住みたい」とか書いております。。。 戦国時代となると乳兄弟の地位は下がったようです。 でも信長の乳兄弟である池田恒興はやはり他の家来とも違うような感じだったと思いますが・・・ でも乳兄弟じゃない前田利家や丹羽長秀らと同等みたいな印象が・・・友達と言うより親分子分という関係っぽいですね。 けど、家来よりは上みたいな。 まあ、前田利家とは男色関係ですけど。。。 あと信長は家康とは兄弟みたいな関係だったようです。 上杉景勝と直江兼続の関係は有名ですね。 武田信玄には男に宛てたラブレターが残っています。 友達ではなくて恋人・・・・・・ まあ、主従関係を強固なモノにするために衆道があったそうなので友達以下なのでしょう。 ただし、「公」と「私」は別に考えないといけない場合がありますね。 「公」では忠実な部下や家臣でもプライベートではかけがいのない親友だったりしますから。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

It's lonely at the top てっぺんは寂しい=powerful and successful people often have few friends 勢力のある人や成功した人には往々にして友達がいない、 という言い伝えが英語にはあります。 https://www.merriam-webster.com/dictionary/it%27s%20lonely%20at%20the%20top  だからなくて当たり前でしょう。

関連するQ&A

  • 将軍と大名の関係

    素人です。易しく教えて下さい。 織田信長が足利義昭と対立したとき、延暦寺は将軍側についた。武装解除するよう要請したが、延暦寺が拒否したため、1571年、信長は延暦寺を焼き討ちし、多くの僧侶が殺害したらしいですね。 信長は大名で、義昭は将軍ですね。 大名が将軍に楯突いていいんですか? それで、切腹とかにならないんですか? 大名が寺に命令できたんですか? 教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • 五大大名に関するちょっとしたアンケート

    戦国大名の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信の五大名それぞれの家臣で一番好きな武将を各一人ずつ挙げてください。

  • 戦国大名について

    戦国大名についての授業していているのですが、織田信長にもしかすると勝てたかもしれない人(豊臣秀吉とその家来以外で)がいるらしいんです。 一体誰なんでしょう? だれか教えて下さい。

  • 織田信長以外の戦国大名は同じ政策とれなかった?

    織田信長が、今日の基準からみて、軍事政策でも、経済政策でも、人事政策でも、合理的な体制をつくったことは、よくわかるのですが、 戦国時代には、織田信長以外にも、優秀な戦国大名も多かったと思います。 武田信玄も上杉謙信も優秀でしたし、朝倉家も昔は優秀な人が多かったと思います。 織田信長が、革新的で合理的な体制をとったので成功したとすれば 他の優秀な戦国大名は、なぜ、信長と同じように、革新的で合理的な体制をとれなかったのでしょうか。

  • 武将の趣味を教えてください

    武将の趣味を教えてください 源頼朝 北条時宗 足利尊氏 織田信長 武田信玄 北条氏康 上杉謙信 毛利元就 この人たちの趣味が興味あります

  • どうして信玄と信長を比較したがる人が多いのか?

    「中世の常識を打破した信長」に対して「中世の枠で終わった信玄」というのを聞いたことがありますが、信長を過大に評価したがる人の悪質な態度そのものだと思います、武田信玄の評価を落としつつ織田信長を持ち上げるという姑息な考えでもあるのでしょうか? そもそも時代は中世なのだから、信玄に限らずどこの大名でも基本は一緒、なのに信長を評価するときに信玄だけを引き出すという態度はいけませんねえ。 それともそこら辺の評論家の言ってることを真に受けているとすればよほどの思慮の無い人が勝手に妄想してるだけなのでしょうか? 一方様々なネットの掲示板で武田信玄を語り合ってる時にも、いつの真にか信長の存在をアピールしたがる人が良く見かけます。 織田信長ってこういう比較でもしないと評価できない人物では無いと思うのですが、信長ファンというのはあさはかな人が多いように思われます。

  • 戦国大名たちの同性愛というのは

    戦国時代にいた大名たちには「同性愛」ということが「常識」だったと聞くことがあります。 現代には「同性愛」のがちょっと変なお好みですが、同時には誰の大名でも平凡のだったと、例を挙げれば、織田信長と森らんまるの関係とか、武田信玄が「男色」を楽しんだって記録とか、 でも、私は知り合いの人より、こんな言葉を聞きました その人は、 東洋における「男色」というのは伝統的な「陰陽論」から出てあることと、ただ若者と老者が一緒に寝るだけ、それによって若者の「陽気」を受け取ることだった。西洋のように「男と男が性的な肉体関係」を取ることはなかった と言いました。 では、戦国大名たちの「同性愛」ということもそんなに言えることですか。 そして、戦国人たちの性生活について、お勧めの本はなんことがありましょう

  • 戦国大名の拠点前進

    織田信長は隣国を占領すると拠点を映し、清州・美濃・安土と拠点を前に進めながらそこを足掛かりに次の領地を侵攻していきます。 家康も岡崎・浜松・駿府と進んでいきます。政宗も米沢からほんの一時期ですが会津に移ってますね。 ですがこうした戦国大名は少数派に思えます。 武田信玄などは徐々に領土を広げていきましたが、甲斐から遠すぎるのか川中島で大苦戦しました。上杉謙信の小田原遠征などはかなり無謀に思えます。他の大名はなぜ拠点を動かさなかった・・・動かせなかったのでしょうか?

  • もし武田信玄が長生きしたら・・・

    武田信玄に関してお聞きしたい事があります。 私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。 ただ52歳で亡くなっており、短命でした。 京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を 打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら どちらが勝ったでしょうか? 織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか? また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか? それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。 皆殺し、人質を売ったり等… これは事実なのでしょうか? 皆さんの予想をお聞かせ下さい。

  • 信長はなぜ 義昭を殺さなかった?

    1573年 織田信長は 室町将軍足利義昭を追放しました しかし ここで疑問なのは 何故 信長は義昭を「追放」で許したのでしょうか? 信長の傀儡であることに気づいた義昭は 本願寺顕如や武田信玄らの諸大名にゲキをとばして 信長包囲網を作り 信長を殺そうとまでしたほどです あの信長がそこまでされたら 普通は義昭を殺すと思うのです まさか将軍だから遠慮したとか?信長に限ってそれはないと思いますが… しかも義昭は追放で済んだのに 義昭の命令で信長を暗殺しようとした 杉原某(信長を狙撃し重症を負わせた)は捕らえられ のこぎりで首を切断されるという残忍な刑に処されたのに… 毛利家に保護されたので手出しが出来なくなったのでしょうか? だから信長は 秀吉に毛利を攻めさせ 義昭を捕らえようとしていたのでしょうか?