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日本 初めての外交

魏志倭人伝とかで卑弥呼が魏に使者を送ったりしてあのあたりから中国の存在を知っていたじゃないですか? ふと思ったのですが日本人はいつくらいから中国の存在を知っていたのか? 言葉は通じてたのだろうか? 気になります。

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回答No.5

>魏志倭人伝とかで卑弥呼が魏に使者を送ったりしてあのあたりから中国の存在を知っていたじゃないですか? 文献史料とは別に弥生時代後期の遺跡から中国産の銅鏡が見つかていますので充分知っていたと考えられます。 >ふと思ったのですが日本人はいつくらいから中国の存在を知っていたのか? 稲作は従来は朝鮮半島経由でもたらされたとされていましたが近年は揚子江周辺の地域から直接もたらされたと考えれるようになってきています。 農耕技術ですので単に言葉だけで伝わるのではなく技術を持った人が多数移住してきていたと考える方が自然です。 この大陸から移住して来た人々の記憶の伝承があったのかなかったのかという点が不明ですので正確には分かりません。 遺物としては黒曜石を使った石鏃の類がありますが不純物の分析結果から日本の北九州地方や北海道産のものが東シナイ海沿岸からロシアのウラジオストウク周辺の地域まで広く運ばれていたことが確認されています。 少なくても当時日本列島で暮らしていた人達の中に日本列島の西側の海のかなたに大陸があるということを知っていた人がいたということになります。 関東地方で見つかるものは伊豆七島の神津島産であることが確認されています。 つまり新石器時代(縄文時代)の人々が外洋を航海する技術を既に取得していたことを意味しますので大陸との間を往来していても不思議ではありません。 >言葉は通じてたのだろうか? 直接は通じなかったと思われます。 おそらく両方の言葉を理解できる人が仲介していたと考えられます。 但し、上記のような技術や文化の伝播を一般には外交とは呼びませんのでご注意下さい。 双方に統治機構があってその統治機構どうしのやり取りを外交としますので当時の日本にどのような統治機構があったかは不明です。 青森の三内丸山遺跡や鹿児島の上野原遺跡などのような規模であっても統治機構とみなせば邪馬台国よりも古い時代からあったことになります。

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  • eroero4649
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回答No.4

http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html つい先日、こんなニュースが出たんですよ。1~2世紀の弥生時代に、少なくとも北九州には硯があったことが明らかになりました。硯があるってことは、文字を書いていたってことです。魏志倭人伝は3世紀の記録ですから、今のところそれ以前の記録が見つかっていませんので魏志倭人伝より古い記録がないわけですが、しかし硯を使っていたという事は中国の文字である漢字を使って記録をする人が北九州にいたことは確かなわけです。それが日本人なのか、朝鮮人なのか、中国人なのかは分かりません。何人かは分からないけれど、文字を書く人が日本に住んでいたのは明らかです。中国の文字を使っていたという事は、文字が書ける知識人がいたわけで、そのインテリが中国の王国や王朝について無知であったということはまずないと思います。その頃は漢王朝の時代ですから、その人は漢王朝の存在は知っていたでしょうし、当然周囲にもそのことは話をしていたことでしょう。 言葉は通じていたのかってのは、そりゃあね、数か国語に通じている人はどこにだっていますよ。発展途上国の観光地に行くと、小学校にも行ってないような若い子が何か国語もペラペラと使ってお土産を売っています。世界中の観光客と話をするうちに言葉を覚えるんですね。話すだけならそんなに難しくはないですよ。地元の言葉と共通語を話すようなものです。 だいたいさ、例えば三国志の劉備は今の北京の辺りの生まれで、蜀は今の四川省ですよ。今だって言葉が通じないのに、あの頃に言葉が通じたはずがないんですよ。諸葛亮は出身地が不明ですが、本籍地が徐州とされてるらしいので今の山東半島に近い辺りです。だから諸葛亮の言葉も蜀の人たちはたぶん理解できなかったと思います。三国志の英雄豪傑なんて中国あちこちの出身で、董卓なんて涼州という西域出身でしょ?袁紹や曹操と言葉が通じたんかいなって思うのです。 まあそれをいうと、伊達政宗と豊臣秀吉の言葉が通じたのかも私、疑問に思っているところなんですけどね。

  • SPS700
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回答No.3

1。魏志倭人伝とかで卑弥呼が魏に使者を送ったりしてあのあたりから中国の存在を知っていたじゃないですか?  はい。 2。ふと思ったのですが日本人はいつくらいから中国の存在を知っていたのか?  大分前から知っていたのでしょう。魏志倭人伝の「舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」という書き出しでも分かるように日本は一つでなく百以上の「国」です。  その一つ末盧國は、今の佐賀県と長崎県の一「郡」に相当し、朝鮮半島や中国海岸を荒らした連中はどこへ行けば金儲けになるぐらいは知っていたでしょう。  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6 3。言葉は通じてたのだろうか?  昔の話ですから詳しいことはわかりませんが略奪には言葉はいらないし、中国系の言葉を話すのを生け捕りにすれば、簡単に通訳が手に入ると思います。

  • hue2011
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回答No.2

卑弥呼の時代というのは三国志の時代です。中国という一体の国は存在しないで三つの国があったわけです。そのうち曹操の収めていた魏と言う国と交渉があったんですね。 元寇というのがあったときは、相手は元であり、モンゴル帝国です。しかし攻めてきた船はモンゴルのものじゃなく朝鮮族がやってきたのです。 元の手先になってきたわけですけど、そもそも元なんて自分の祖国でもなんでもないから無理に命がけで戦争をするなんていう元気はありません。したがって何か理由をつけて何もしないで帰りたかったんですね。そのときに嵐がきたから、全部嵐のせいにして逃げ帰ったのです。 あの大きな国土をひとつの国として意識するかどうかは、国の政治とは関係ありませんけど、豊臣秀吉のころも、中国と朝鮮は一緒の国だと思っていたんですね。朝鮮侵略なんて歴史的に書かれますけど、秀吉は明と戦争をしていたつもりのようです。つまり隣国の超大国と戦争をするのであって、その入り口にいるのが朝鮮だという考えです。 いまのような中華人民共和国という巨大なひとつの帝国というのはむかしからありそうでなかった。 だけど、優秀な外国文化はすべてあちらのほうからやってきたので、それを輸入し学び自分のものにしていったのが日本です。漢字なんて、全く漢の国で使われたとは違う形で吸収し、勉強に勉強を重ねて木簡なんかに漢字で記録できるようになったのですね。これは奈良時代初期ですけど、非常に丁寧なわかりやすい文字で書いています。それが平安になると、書体が発展し、くずし字みたいなものが発明され、段々読めないものになってきた。 輸入を重視するというか、文化の輸入も重視したのは、大化の改新以後の話で、特に聖徳太子が日本をまとめるために仏教を輸入しなければいけないと考えてその方面に尽力したのです。インドやペルシャの珍しいものも入ってきましたが、すべて中国ごしでした。 だからそういう位置にある人間は当時の中国語を堪能に話したはずです。いま、教養があるのかこいつは、と思うような人間でも輸出入をしていたら英語がらくらく話せるというのと同じことです。 文化がどれだけ染みついて入ってきたかの例としては馬方の用語があります。 いつ入ってきたか定かではありませんが、完全に中国語です。おそらく中国渡来の馬方がいて、それが馬をならしつけるのに使った用語をそのまま音で聞いて覚えたのです。本でもこれを言っている人間が居ませんから、はじめて私が言います。 はいし、どうどう、といやつです。 現在の中国語だといっても同じ発音なのでびっくりしますけど、止めるときに手をあげて、どう、どう、といいますね。これ 度、度と書けば中国語でwait,waitです。 はいし、は、はいが呼びかけで、し、が是、でむこうにいけといニュアンスになります。 中国から来て馬をまかされた人間が使っていた言葉がそのまま継承されているのです。 これだけ中国文化は日本にしみこんできているのです。 ただ、ひとつの国としてイメージしていたか、あっちの方、というイメージだったかというと、あっちの方、だったと思います。これはシルクロードのおかげです。

  • D-Gabacho
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回答No.1

稲作も金属器も大陸から来た文化ですし、縄文人と弥生人では骨格が違っていて大陸から渡ってきた人種らしいですから、弥生時代がはじまったころの日本人は中国の存在を知ってたと思います。 『論衡』に「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」「成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」とあり、日本人が周の時代(前1046-前256)から朝貢していたと、後漢時代の中国人は認識していたらしいことがわかります。 ちなみに弥生時代の開始時期は、従来、前300年代ごろとされていましたが、最近では前1000年代までさかのぼるとする説もあります。

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