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赤穂浪人大石良雄の通行手形。

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★まずは「回答」から先に述べますと、 「寺」でも発行は可能でした。身分は「武士」(浪人)です。 ★私たちが、現代一般的に「通行手形」と呼んでいるものは、正確には大きく分けて「関所手形」と「往来切符」を混称(混同)したものです。 ★例えば、江戸から上方へ行く場合は、東海道ですと「箱根関所」を通らなければなりませんね。 ★そこで、旅人はこの箱根関所を通過するために、箱根関所のみに通用する「関所手形」を持参します。 ★この「関所手形」を発行できるのは、 ※武士の場合・・・主家の大名や旗本orその家老や側用人等の重臣が署名、捺印したもの。 「この者は、山田新之助と申す者にて、〇〇家××役△△の用向きにて・・へ赴く者なり、特別の御配慮を以て通されたし。 AA家家老何の誰兵衛(又は、大名の名で、大森藩越前守黒川大全) 印」 およそ、このような内容。 ※寺院関係者(僧侶や神官)の場合・・・住職や禰宜の署名、捺印のあるもの。 「この者は僧円心と申す修行僧にて諸国勧進の旅人なり・・・」 ※町人の場合・・・各町内ごとにある「辻番所役人」の署名、捺印のあるもの。 「この者は、江戸〇〇町の甚平と申す者にて伊勢神宮へ参拝に参る者なり・・・」 ★では、浪人などでは? 長屋に住んでいれば・・・町人などと同じ。 あるいは、大石内蔵助のように庵や屋敷などに住んでいた浪人などは・・・懇意にしている、あるいは知り合いの寺の住職、医師、俳諧師、儒学者etcの証明。 ★男の場合は上記のように、いたって簡単な書面でOK。 ★女の場合は、さあ「大変」。 ★ご存じのように「入り鉄砲に出女」。 例えば長屋住まいの場合には、「家主」(大家ではなく長屋の持ち主)の「許可証」(往来切符)の他に「番所」の「関所手形」も必要で、その内容は、「年齢」、「未婚か既婚か」、「背丈」、「体形」(細身だとか小太りだとか)、「髪型」、「顔の形」(丸顔だとか面長だとか)、「肌の色」、「ほくろの有無」(顔ばかりでなく、例えば、胸元にある、臀部にある、とか)、などの身体的特徴が記載されてありました。まあ、事細かに記載されていました。 ★この「関所手形」は箱根関所宛に出された証明書でしたので、男女共に関所で取り上げられました。 ★では、帰りは? 帰りにまた箱根の関所を通る旨を話すと、箱根関所で箱根関所の通過手形(関所手形)を発行してくれました。 ★次の関所がある場合には、申出をすると、箱根関所で次の関所宛の「関所手形」を発行してくれました。 ★芸人などの場合。 芸を披露すれば「関所手形」が無くてもOK。 ★関所の近隣の住民。 顔を覚えてもらえば「顔パス」。 ★考えてもみてください。 僧侶などは諸国行脚に、また、俳人の松尾芭蕉なども自由に諸国を巡っていますよね。 また、「お伊勢参り」などの信仰が盛んになると、老若男女、猫も杓子も江戸を「脱出」?していますよね。 ★「関所」「関所」と言いますが「出女」以外は、それほど厳しいものではありませんでした。 ★但し、個人的な「鉄砲」、「ギヤマン」(ガラス細工)などの「ご禁制品」の「密移入」、「密移出」などの監視は厳しかったのです。 <まとめ> あなたの質問への回答としては、 ★大石内蔵助は浪人でしたので親戚を頼りに来迎院の住職から、武士の身分のままに「関所手形」を発行してもらったのです。 ★なお、日野家用人垣見五郎兵衛はフィクションで実在しません。 ★また、大石内蔵助が垣見五郎兵衛を名乗った、という説は、明治時代の漢学者、信夫恕軒(しのぶじょけん)が書いた「快挙録」に出てきますが、後世の好事家が捏造したものだ、と言われています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 すると、大石は、偽名ではなく本名で、そして浪人であっても武士身分で江戸へ下向したのですね。 当時の大石は、ご法度に触れる罪人ではないですから、偽名を使う必要もないということですね。 武士であれば、関所手形には、「○○家中の何某」と明記されていると思うのですが、大石の場合は、手形が残っていなければ、想像するしかどうにもならないですね。

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