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『作庭は移ろいの芸術』という題材を要約する宿題が出

『作庭は移ろいの芸術』という題材を要約する宿題が出ました。 自分なりに要約したのですが、少し字数が多くなってしまいました。 300字以内に収めたいのですが、どう直せばいいか教えて欲しいです。 ひらがなの部分は漢字に直してはいけないそうです。 *⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒* 庭作りこそ究極の芸術ではないか。美術などの芸術がもたらす感動というのは、もっぱら見事な非現実の世界の構築にすぎない。とりわけ文学においては、言葉を駆使して精神と精神の奥に潜む魂にまで直接踏み込んでゆける。ところが、感覚をじかに刺激してくれないというもどかしさがある。作庭のようにすべての感覚を総動員して堪能でき、行き死にの荒波を幾度となくくぐり抜けながら半永久的に発展するような、そんな芸術の一つくらいあってもいいのではないか。小説とは違い、時間も労力をかけて悪戦苦闘しているため感覚がその世界に参加できる。草木の全部が命を抱えて今を生きているからである。命の集団によって構成されている芸術であるがために、現在という摩訶不思議な時間の波とともに移ろっていく。作庭は作りての情熱と寿命がつづく限りにおいて高きを目指せる。 *⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*⌒*

みんなの回答

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 芸術の中に種々あるが、絵画、彫刻などは、静止していて時間軸はゼロに等しい。時間の次元を持つ音楽でも、バッハなり、プロコフィエフなりに書かれた音符からは大きく離れることはない。  しかし庭造りの材料になる草木は生きている、生あるものは変わる、いわば作品が絶えず時間軸とともに変わる、従って「移ろい」の芸術だ。という表現は、当然とはいえ、時の移り変わりの全てで鑑賞できる芸術、という点で実に適切な表現と言える。  と原文を無視して要約すれば300字からお釣りがきます。

pooo04
質問者

お礼

原文を無視できないんです…

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  • この文章の要約がどうしてもできません……

    この文章の要約がどうしてもできません…… みなさんだったら、どのように要約しますか? できるだけ、本文をそのまま使う形でお願いします💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。 饗庭孝男「想像力の考古学」

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    今高校生です!!宿題でこの要約をしなければなりません。 誰か要約していただけると…かなり助かります。 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 消費税、割れる賛否…時期や使途も焦点  今回の参院選の政策上の最大の争点となるのは消費税のあり方だ。  菅首相(民主党代表)が17日に税率10%への引き上げに言及したことで、一気に浮上した。  各党の賛否は分かれており、選挙戦では、増税時期や税収の使途など消費税の具体的なあり方を含め、論争が繰り広げられる。  民主党の参院選公約は、消費税に関し「早期に結論を得ることを目指して、消費税を含む税制の抜本改革に関する協議を超党派で開始する」とした。税率引き上げへの言及はないが、首相はあえて自民党が提案している10%を参考にする考えを表明した。  しかし、民主党と連立政権を組む国民新党は、引き上げに反対している。亀井代表は菅首相の考えに「断じて賛成しない」と猛反発。連立離脱の可能性も示唆している。同党の公約は税財政改革について「デフレ脱出と経済成長が財政環境を健全化させる唯一の方法だ」と主張している。  野党も、消費税に関する態度は大きく割れている。自民党の公約は、〈1〉経済成長戦略やムダ削減に努力する〈2〉税収は少子化対策や年金・医療・介護の社会保障給付に充当する――ことを条件に、「当面10%」とする消費税率引き上げを明記した。ただ、自民党に歩み寄った格好の首相には「菅(カン)ニングだ」(谷垣総裁)などと批判を浴びせている。  公明党は「消費税の使途は社会保障給付や子育て支援に限定」とした上で、税制の抜本改革の必要性を指摘した。共産党、社民党はそろって反対している。  自民党離党者が中心となって結成した新党改革、たちあがれ日本は公約に具体的な税率を明記して前向きな姿勢を示した。  みんなの党は「増税の前にやるべきことがある」として、今後3年間は増税せず、その後、社会保障財源のあり方の議論の中で検討するとした。  一方、鳩山内閣退陣の引き金となった米軍普天間飛行場移設問題をはじめとする在日米軍再編問題に関しては、各党の公約の書きぶりに抽象的な表現が目立つ。沖縄と米国の双方の反応を気遣ったと見られ、問題解決の難しさを改めて示した格好だ。  民主党は「日米合意に基づいて、沖縄の負担軽減に全力を尽くす」としたが、具体的な道筋は選挙公約に示さなかった。国民新党は「米軍基地の負担が沖縄に集中する構造を訓練移転などで是正する」などとした。  野党では、自民党が「抑止力の維持を図るとともに、地元の負担軽減を実現する在日米軍再編を着実に進める」とした上で、「日米同盟の一層の深化を図る」とした。 (2010年6月24日19時35分 読売新聞)

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    今、すごく悩んでいる事があります。 今、友人とメールをやり取りしているのですが、その内容が全然理解できません。文面自体はここで使われているのと全く同じような物なので、読んでいる時は何とか言っている事が理解できるのですが、読み終わった後でその内容を自分の言葉でまとめようとすると、どの言葉を使ったらいいのか分からなくなってしまいます。 実は、中学時代からこのようなことが続いていて、国語の授業で4000字ぐらいの文章を読んでその内容を200字にまとめなさいと言われても、自分だけまとめることができませんでした。 今まで、なんとかして要約ができるようになろうと、日記を1年間毎日書き続けたり、魔術師オーフェンなどのライトノベルを100冊ぐらい読んだりもしたのですが、全く持って効果がありません。 一体、どうしたら要約できるようになるのでしょうか。もし、私と同じような悩みを抱えていて克服した方がいらっしゃったら、ぜひその時の方法をお聞かせください。

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