満州国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の最後と財宝の行方

このQ&Aのポイント
  • 満州国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の最後について密かな要望を抱いていた日本への亡命計画がソ連の軍隊によって妨害され、捕虜となった。
  • しかし、ラストエンペラーが持っていた財宝は日本には届かず、その行方は謎となっている。
  • 緒方宏という人物が奉天の飛行場を経営しており、彼の息子である緒方重威が後に日本の公安調査庁の長官となった。彼は朝鮮総連本部のビルを個人で買おうとしたり、隠し財産を持っていたと噂されているが、その隠れ資金がラストエンペラーの財宝である可能性もある。しかし、現在のところその真相は分かっていない。
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満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどう

満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか? ラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたときに持っていた金銀財宝の国宝はどこに消えたのですか? 満州国の奉天市の飛行場からラストエンペラーは逃げたわけですが、飛行場は緒方宏が経営していた。 日本は天皇が敗戦の降伏を読み上げて、満州国に豪華な列車が止まり、ラストエンペラーが乗って避難した。 ラストエンペラーは日本に亡命を希望していた。 天皇は東京で一緒に過ごすのは無理だが京都になら住んで良いと言った。 ラストエンペラーは列車に乗って満州国の新京から奉天まで出て日本に亡命する予定だった。 奉天に着いて日本には飛行機で行くことになった。 ラストエンペラーは奉天の飛行機で日本に向かおうとしている時にソ連の軍隊が飛行場に入って来てラストエンペラーは捕られて捕虜となった。 ラストエンペラーは捕虜になったがラストエンペラーの財宝を積んだ航空機は日本に向けて飛び立ったと言われている。 ソ連はラストエンペラーを捉えることしか頭になくて、まさかラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたとは思っていなくてラストエンペラーの財宝を没収せずに日本行きの飛行機はそのまま飛び立ったと言われている。 で、緒方宏のむすこである緒方重威は後に日本の公安調査庁の長官となっている。 で、緒方重威は日本の朝鮮総連本部のビルを個人で買おうとした人物でもある。 長官とはいえ公務員の給料だけでは朝鮮総連の本部ビルは買えないのでどこからか隠し財産を脱税して親から引き継いでいたと思われる。 その隠れ資金がラストエンペラーの財宝を奉天の飛行場を経営していた父の宏が日本政府に黙って着服していた疑いがあると言われている。 でも日本行きに飛び立ったラストエンペラーの財宝を積んだ航空機が日本に着いていたら、日本にはラストエンペラーの国宝がいっぱいあるはずなのにない。 けど日本に飛び立ったという。どういうことでしょう? 日本に着いた財宝はどこに消えたのですか? ソ連も持ってないし、日本も持ってないし、アメリカも持ってない。 ラストエンペラーは財宝を持ってなかった?

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  • SPS700
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回答No.1

1。満州国のラストエンペラーの愛新覚羅溥儀の最後はどういう死に方だったのですか?  下記には次のような記述があります。  「溥儀は中華人民共和国に文化大革命の嵐が吹き荒れる中で癌を患った。清朝皇帝という「反革命的」な出自の溥儀の治療を行うことで紅衛兵に攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の手配で北京市内の病院に入院することになった。  しかし、溥儀が治療を受けていることを知った紅衛兵が病院に押しかけて騒いだため、医師たちは彼に治療を施さず放置した。その報告を受けて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。しかし既に末期状態だった彼は治療のかいもなく1967年10月17日に死去した。死の間際に所望したのは晩年の好物だったチキンラーメンだった。」  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80 2。ラストエンペラーが日本に亡命しようとしていたときに持っていた金銀財宝の国宝はどこに消えたのですか?  わかりませんが、逃避行の資金になったのではないでしょうか。

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます

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