- 締切済み
戦艦大和の特攻作戦、上空援護の航空隊(直掩)あらば
wikiによると、戦艦大和の特攻作戦では航空隊の大規模な上空援護が 無かったとあります。 ところで、「出撃した日本の特攻隊の一覧」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 を見ると、上空援護が可能な戦闘機である、零戦が多数出撃しています。 大和沈没の4/7迄に少なくとも192機出撃(喪失)しています。 (未会敵にての帰還、特攻直掩機がこの他にあるので この期間に活動した戦闘機は192機より多い。) 4/2:37 4/3:29 4/4:6 4/4:5 4/6:85 4/7:30 大和撃沈以降にも 4/11:50 4/12:74 等 事前に大和と航空隊で上手く連携し、 これらの零戦を特攻する大和の直掩機として運用できれいれば、 ある程度米航空機の攻撃を減殺できたのではないでしょうか。 攻撃側の米航空隊は 戦闘機がF6Fヘルキャット・F4Uコルセア132(ロケット弾or250kg爆弾2個) SB2Cヘルダイバー爆撃機50 TBF/TBMアベンジャー雷撃機98 さらに遅れて106機(内訳分かりません) 上記の特攻し喪失した零戦192機は新式の52型ではなく、 旧式(開戦時に活躍)の21型だと戦闘機同士では大変不利ですが、 米機に向って行けば、 米の戦闘機は爆弾を投棄して戦闘に入るかも 米の爆撃機・雷撃機も爆弾を投棄して退避するかも (爆撃機・雷撃機なら旧式21型でも対応可能) ある程度爆弾投棄・撤退してくれれば 大和への攻撃がそがれるので突入作戦の成功の可能性が上がりますね どうでしょうか。詳しい方お願いします。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
- Beholders
- ベストアンサー率21% (77/364)
菊水作戦において、大和特攻はあくまで陽動作戦で、 主作戦は特攻機による沖縄近海の米艦艇への攻撃です。 当時の搭乗員は予科練を出たてで実戦経験のない者がほとんどでしたので 爆弾抱えて特攻させる以外に使い道は無かったのです。
- kouki-koureisya
- ベストアンサー率79% (182/230)
別の視点から。 それは、航空機用燃料の質の問題です。 ゼロ戦は、開戦当時、圧倒的な戦果を挙げていますが、それは、優れた運動性能をもつ機体と、その機体を自在に操るパイロットの技量があってのことですが、忘れてならないのは、良質な航空燃料とオイル(潤滑油)があったからです。 昭和20年4月ごろには、機体はあっても満足に飛行させる良質の燃料がありませんでした。 前年の19年には、良質の燃料を精製できる、ストックしていたカリフォルニア原油が底をついています。 当時の日本の製油技術では、南方原産の原油から良質な航空燃料やオイルを作り出すことはできませんでした。 ゼロ戦は、高圧縮エンジンなので、良質(オクタン価の高い)燃料と、良質のオイル(潤滑油)を必要とします。 窮余の策で松根油の研究も進めていましたが、量産できませんでした。 粗悪燃料で飛ぶゼロ戦に、運動性能を期待する方が無理で、とても直掩できる能力があったとは思えません。 スペックでは、米軍機と互角に見えたとしても、スペックどおりの性能を発揮できる米軍機に太刀打ちできないでしょうね。 しかも、燃料不足でエンジンテストもロクにできていないエンジンを搭載した機体ですからね。 空中戦は、いかに素早く敵機の上に付けるかが勝負のポイントですが、カタログ出力1100馬力などとても望めないゼロ戦では、上昇力の差は歴然です。 次に、航続距離の問題ですが、これは航続可能時間で考えるべきでしょう。 海軍の要求性能は、航続時間6時間以上(距離にして2000km以上)でした。 つまり鹿屋から飛び立つと、せいぜい2時間ほどで到達できる距離までが、乗員の体力からみた限界で、ここで空中戦になれば精神力で戦い、基地に帰還することになるでしょう。 戦艦と同一速度で飛行できませんから、索敵を兼ねての飛行となります。 余談ですが、昭和17年8月から始まったガダルカナル島攻防戦では、1000kmも離れたラバウル基地から出撃していますが、180ノット巡航で往復6時間。毎日出撃していては、パイロットは疲労困憊だったという話もあります。 参考:第3 回国際シンポジウム研究発表会 論文集 2007 年12 月14 日・15 日 「戦前期の航空機用揮発油の技術開発」 三輪 宗弘 (九州大学附属図書館付設記録資料館 館長) http://sts.kahaku.go.jp/tokutei/pdfs/03_16.pdf#search=%27%E6%88%A6%E6%99%82%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E7%87%83%E6%96%99%E3%81%AE%E5%93%81%E8%B3%AA%27
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
bcz8eb8 さん、こんにちは。 大和に直掩が必要なのは7日日没まで。 沖縄まで飛ぶ必要はありません。 帰還するには、 鹿屋から200km(沈没地点)+日没までの5時間*35km≒400km必要。往復で800km程度飛ぶ必要があり、残りの航続距離を上空援護、戦闘で消費する。52型でも大丈夫ですね。 あとは、搭乗員の技量、米攻撃隊の部隊配置(戦闘機より爆撃機・雷撃機に会敵すべきだが可能かという問題)、米側の爆弾投棄(これが零戦出動の目的)はどのような場合に行われるかの問題ですが、どなたかに具体的なデータを出してもらえなければ、水掛け論でしょうね。 大和は沖縄まで行くことになっていました。だから、燃料のことも満載に近い状態にしてあったのです。敵潜水艦に追いつけないように巡航速度19ノットという速度、戦闘速度でも24ノットを出していました。沖縄に行くことが前提の作戦なんです。沖縄に行けなかったら、戦略上失敗という海軍軍令部の毎度の失敗になります。 実は本当の空母に熟練パイロットがいたのはマリアナ沖海戦の時までです。 それだって真珠湾の頃に比べれば相当落ちていたといいます。飛行時間200時間程度という事はほとんど新米です。空母に発着艦できるかどうか程度のね。 でも、米軍は違う。ミッドウウェーやガダルカナルで生還したパイロットがたくさんいる。練度においてはお話にならない。それが、3波400機を乗り越えるとして、その被害はおそらく日本のゼロ戦の半分は未帰還でしょう。 たぶん、こちらの猛撃を食らって、100機位は落としてほしいけど、あちらにはまだ新手が400機もあるという事です。マーク・ミッチャーの機動部隊の攻撃はすさまじいものでしょうから、護衛艦の軽巡矢作、駆逐艦の何隻かは沈んでいるでしょうね。大和の被害も相当なものです。おそらく沖縄には行けないものと考えます。つまり、作戦失敗ですね。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11062/34478)
#1です。 マリアナ沖海戦で、6月20日に日本機動部隊は米軍の攻撃を受けています。奇しくも、この攻撃をかけたのはミッチャー提督の第58任務部隊です。 このときの攻撃参加機数はwikiによると216機で、うち85機が護衛戦闘隊のF6Fでした。一方の日本軍も迎撃の戦闘機隊を出しています。それが何機出動したかは分かりませんが、23機撃墜されたとありますので、少なくとも20機以上であったと推測されます。 結果、飛鷹が爆弾1発、魚雷1発の命中を受けて沈没。隼鷹が爆弾1発命中、至近弾多数で中破。瑞鶴が命中弾1発で小破の損害が出ています。 米軍側はこの空襲で20機が撃墜され、不時着や着艦失敗で80機が失われたといいますから、相当な損害を受けています。撃墜されたのが戦闘機なのか攻撃機なのかの詳細は分かりませんが、撃墜以外に失われた80機の中には撃墜まで至らずとも損傷を受けていた機体が相当数含まれていたと考えるのが自然かなと思います。 つまりここから分かることは、米軍は戦闘機に追い掛け回されたからといって簡単に爆弾や魚雷を捨ててくれるほど甘くはないってことでしょうね。一見命大事のように見える米軍も、ガッツはすげーあるんですよ。特に米軍は途中で不時着しても潜水艦や駆逐艦が拾いに来てくれるので喪失機数に対して搭乗員の損害がかなり低いんです。 その象徴が南太平洋海戦で、日本側は92機を失い、148名の搭乗員を失ったといわれています。この搭乗員の損害を補充することができず、本海戦が日本海軍にとっては最後の勝利となってしまいました。一方、米軍側は74機を喪失している一方、搭乗員の戦死は39名だったともいわれています(もっと少ないとする資料もあり)。 ですから私の見解としては、「護衛戦闘機隊があっても、米軍の戦闘機隊と空中戦になり攻撃機隊を攻撃するのは困難であっただろう」ということと、「米軍は戦闘機に攻撃されたからといってそう簡単に爆弾を捨てて逃げはしないだろう」となりますね。また仮に第一次空襲を撃退できたとしても、護衛隊は機銃弾の補充などで一旦帰還して再編成をしなければなりません。その間に第二次空襲がやってくる可能性は高いですね。上手いこと日本側もローテーションしたいところですが、そもそも無線機がくそダサい日本軍では「無線で指揮をする」ということが現実的に不可能です。空母機動部隊は二次攻撃、三次攻撃を果敢にやることをお忘れず。 レイテ海戦でも、米軍は駆逐艦と護衛空母しかいないという超絶弱小艦隊で、大和以下ずらりと戦艦が居並ぶ艦隊を相手に逃亡もせずに果敢に反撃し日本艦隊のレイテ突入を阻止しています。米軍のガッツを甘く見たらあかんと思うで。 蛇足:もし日没に至ったら、日本艦隊は米軍駆逐艦隊による奇襲作戦を怖れて帰還したと思います。そのために帰りの燃料も積んでいたのですから。大和が沈没したとき、残りの艦隊はそれでも特攻せずに帰途についたことを忘れずに。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
bcz8eb8 さん、こんにちは。 零戦52型は航続2500キロ(増槽付)ですが 鹿児島~沖縄が1000キロなので、足りますね。 実際の沈没地点も鹿屋から200キロ程度。 さらに7日日没まで直掩できれば良いので 航続距離は鹿児島沖縄の1000キロ無くても短くても良いはず。 F6Fヘルキャット・F4Uコルセア132は巡航速度がとても速いです。350kmで戦ってくるとしたら、一回は何とか出来ても、3回は無理です。52型でも21型でも300km以上出さないと敵とは戦えない。そしてこの速度で沖縄まで増槽付けても、燃費から言って、燃料足らないでしょうね。そしてラバウルからガダルカナルまで言った熟練パイロットってもうほとんど残っていないから、まず墜落しちゃいますよ。 F6F https://ja.wikipedia.org/wiki/F6F_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) F4U https://ja.wikipedia.org/wiki/F4U_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) ゼロ戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
bcz8eb8 さん、こんにちは。 でも、直掩機は特攻機を守らないといけないし、特攻機には250kg爆弾という重い荷物を持っています。動きは鈍いです。これを外しても沖縄にはもう飛行場の燃料もないんですよ。もうパワーでは米軍機に勝てないんです。1000馬力対2000馬力ですからね。そうすると大和に直掩機を出すといったって、航続距離の問題で、52型ではそう遠くへ行けない。それから、パイロットの経験、飛行時間が200時間を少し過ぎた人でしょうけど、アメリカのパイロットはもうこの当時、相当経験を積んだ人が多かった。それから部隊の運用面の問題から、戦闘機をあと何機出せるかが問題ですよね。第5航空艦隊の宇垣さんも何機かくらいは途中までつけてくれました様ですけど、結局はその程度です。 この時、日本の陸軍参謀本部作戦部長だった人は「沖縄には捨て石になってもらう」といいました。 他には確かに熟練パイロットが何人かいましたけど、それはほとんど本土防空要因で、B29などを攻撃する部隊に配属されたり、特攻機の護衛についていました。貴重な熟練パイロットを特攻機同様に使うというの無理があります。 敵側はマークミッチャーの率いる第58機動部隊です。艦載機は800機以上、試用作戦機数400機という数の攻撃隊を出したといわれています。 宇垣纒 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E7%BA%8F マーク・ミッチャー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC 坊ノ津海戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E3%83%8E%E5%B2%AC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
補足
ご回答ありがとうございます。 うまく伝わっていない部分があると思いますので再度質問を書きますと、 大和と航空隊で連携できていなかったので「結局はその程度」の上空援護しかできなかった。 →連携し上空援護を行う、上空援護には特攻した零戦を充てる(特攻の直掩をしていた戦闘機も参加)、そうすればもう少し大和の突入作戦も成功に近づいたのではないか? という質問です。 零戦52型は航続2500キロ(増槽付)ですが 鹿児島~沖縄が1000キロなので、足りますね。 実際の沈没地点も鹿屋から200キロ程度。 さらに7日日没まで直掩できれば良いので 航続距離は鹿児島沖縄の1000キロ無くても短くても良いはず。 (しかし日没まで直掩すると帰還・着陸が難しくなりますね…) (大和沖縄到達の8日黎明~日中も上空援護できれば尚良いですが、 沖縄まで直掩に出向くのは仰る通り航続距離で難しそうですね。)
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11062/34478)
どのみち質問者さん資料で少なくとも100機以上の戦闘機隊がいました。当時の米軍は2機1組の集団戦法を用いていまして、一方の日本軍は未だ個人戦による戦い方でしかも熟練の戦闘機パイロットは失われていた状態です。 いかな剣士といえど、一度に二人から斬りかかられたら防げるものではありません。ましてや未熟な剣士が二人相手に戦うなんて無理・無謀。 そして仮にそれによって大和の突入を阻止することができなかったとしたら、米軍も艦船ですから南下して退避しただけだったと思います。あるいは、レイテ海戦よろしく手持ちの駒で阻止しようとしたかもしれません。 大和側としても、夜間になれば駆逐艦からの雷撃を怖れないといけませんし、なんだかんだで帰投用の燃料も積んでいたということを考えると、適当なところでレイテ海戦と同じように引き返したのではないかなと思います。
補足
米機が爆弾を投棄すれば、零戦の出撃目的は達成です。
補足
大和に直掩が必要なのは7日日没まで。 沖縄まで飛ぶ必要はありません。 帰還するには、 鹿屋から200km(沈没地点)+日没までの5時間*35km≒400km必要。往復で800km程度飛ぶ必要があり、残りの航続距離を上空援護、戦闘で消費する。52型でも大丈夫ですね。 あとは、搭乗員の技量、米攻撃隊の部隊配置(戦闘機より爆撃機・雷撃機に会敵すべきだが可能かという問題)、米側の爆弾投棄(これが零戦出動の目的)はどのような場合に行われるかの問題ですが、どなたかに具体的なデータを出してもらえなければ、水掛け論でしょうね。