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マレー・ゲルマンはなぜノーベル賞を取れたのですか
ddtddtddtの回答
- ddtddtddt
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正確にはゲルマンは、クォークでノーベル賞を受賞したのではないようです。 「素粒子の分類と相互作用に関する発見と貢献」が受賞理由です。 ゲルマン本人もこの時点では、クォークは計算上の仮想粒子で、そういう数学的手段を用いる事で、見通しが良くなるに過ぎないと考えていたみたいです。 というのは1950~60年代に粒子加速器の中で、たくさんの新粒子が発見され、それらの整理に難儀していました。一部では、素粒子なんてそもそもないのではないか?、という意見まで一部で出ます。 ゲルマンの研究はそういう状況の中で、導きの糸を与えるものとして評価されたようです。実際に整理可能になったのは事実ですから。 こういう例は、ほかにもあります。
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お礼
ご回答ありがとうございました。 「素粒子の分類と相互作用に関する発見と貢献」に対するノーベル物理学賞ならば、マレー・ゲルマンより前からそのような研究で知られていた坂田昌一が受賞しなかったのはなぜなのでしょうか。坂田昌一が死んだのは、1970年1月18日ですから、1969年にマレー・ゲルマンがノーベル物理学賞を受賞したときには、坂田昌一は生きていたはずです。 なぜ坂田昌一が受賞しなかったのでしょうか。 やはり、西島・中野・ゲルマン法則の業績がマレー・ゲルマンにあったので、マレー・ゲルマンがノーベル賞選考委員たちに特別扱いされたのでしょうか。
補足
すみません、下のお礼に訂正があります。 坂田昌一が死んだのは、1970年1月18日ではなく、1970年10月16日の間違いでした。 しかし、いずれにしても、マレー・ゲルマンがノーベル物理学賞を受賞したときに、坂田昌一が生きていたことには間違いありません。